なでなで



 昼下がりの陽気をまとったそよ風が、爽やかな空気を運ぶ。サーラがアルトと教会の客室に戻ると、誰の姿もなかった。
 アリエルを訪ね、サマンオサ国王との面会を終えると、モエギとジャックは昼食を摂るため宿屋に戻っていった。サーラたちは教会で食事を摂り、今しがた部屋に戻って来た所だ。
「あれ、あの二人はいないのか」
 同室で療養していた鬼嫁夫婦がいないということは、調子が良くなってきた証だ。大方、セラが「腹ごなしに散歩に行くから、付き合いな」とでも言い、ケインと外に出たのだろう。
 どことなく安堵しているアルトがおかしく、つい笑う。
「サーラ、何かおかしかったか?」
「いや、お前もあの二人に苦手意識があるのかと思ってな」
 尊大に振る舞うジャックも、鬼嫁セラには途端に下手に出る。男は総じて、ああいう女性を得意としない。
「まあ……何の抵抗もなく話せないけど、俺はホッとしたんだよ。サーラと二人きりになりたかったから」
 不意打ちを食らい、途端に口ごもるサーラに、今度はアルトが笑いかけた。凍てついた心をも溶かす微笑みは、陰りがあった。
 アリエルと話し終わらない内に邸宅を飛び出し、何やらジャックと話し込んでいたようだが、アルトは何も語ろうとしない。
 扉を閉めると、日なたの匂いが部屋を満たした。黙ったままのアルトに何と声をかけようか考えあぐねいていると、青年は笑みを消した。
「……とりあえず、座ろうか」
 サーラもぎこちなくうなずく。怪我が完治していないことを気遣ってか、アルトはサーラの寝台に戻るよう促した。
 ボストロールとの戦いで肋骨を折り、運び込まれて以来与えられている寝台に腰を下ろすと、アルトもそれにならい隣に座った。
 恋人同士となり、いつしか一つの季節が巡った今でも、サーラはアルトと二人きりになると落ち着かない気持ちになる。特に、アルトが改まった態度を取る時は決まって、口数が少なくなるのだ。
 ましてや、精霊神ルビスの肖像画と対面した、アルトの反応を見た後である。何を切り出されるのだろうと、胸中で不安が渦巻く。
 サーラの怯えを感じ取ったのか、アルトは手を重ね、覗き込むようにしてこちらを見つめてきた。反射的に、顔を背ける。
「サーラ?」
 アルトは、サーラにルビスを重ねたりなどしない。そう、アリエルは断言してくれた。自分でも、杞憂だと思っている。
 それでも、あの絵の女性は、サーラの顔をして、サーラよりも華麗に咲き誇っていた。
「……いつか、お前は私に言ったな。サーラは強いな、と」
 一年前のことだ。カザーブの村で宿を取った時、ただの仲間として同じように寝台に座り、肩を並べて話をした時、アルトはまだ偉大な父の存在に思い悩む少年だった。
「……覚えてるよ」
 記憶を噛みしめるように、アルトもうなずく。向き直ると、サーラは告げた。
「私は、本当は強くなどない。弱かったから、剣を振るい、故郷を去り、人を寄せ付けずに生きてきた。今だって、こうして心もままならない……」
「サーラ、まだ肖像画のことを気にしているのか?」
 そうだ、と投げやりに首を振る。
「私は、ルビスに嫉妬している。お前が、ルビスとよく似た私だから、好意を寄せたのかと思うと」
「そんな訳ないだろ」
 真っすぐな瞳が、サーラを射抜く。深く澄んだ双眸が映すのは、見失いかけていた、自分自身の顔。
 彼女は瞳の奥で叫んでいた。私だけを、見て欲しいと。
 アルトは力強くサーラを引き寄せ、腕の中に抱いた。太陽と、ほころんだ土の匂いが広がった。
 肩に頬を寄せ、サーラも背中に腕を回すと、静かに声が降ってきた。
「……やっぱり、気にしてたんだな」
 サーラの不安も、今のアルトにはお見通しとなってしまったのか。もはや、仲間となった頃の年上の面子は跡形もない。
 何も返せずにいると、アルトは手を広げ、サーラの頭をそっと撫でた。
「違うよ。そんな理由で、俺はサーラを好きになった訳じゃない」
 どこかすねたような口調とは裏腹に、アルトの手つきは優しく、何度も温かな感触を与え続ける。
「もう、知ってる。サーラは、本当はとても繊細で、強がりだって」
 耳元で声を聞きながら、最後にこうして頭を撫でられたのはいつだろうと、記憶の中に問いかける。
 滅びた故郷で、義父の幻におやすみを告げた時か。いや、もっと昔だ。
 まだ、少女と呼ぶにも幼く、無垢だった頃の自分を抱き上げ、まぶしそうに目を細める、義父の笑顔――
 穏やかで、光溢れる遠い思い出に、胸が打ち震え、泣くまいと唇を噛む。
 故郷を思い、十分涙を流した。もう涙は枯れ果てたと思ったのに、幼き頃のぬくもりが今、愛する人から伝えられると、途端に子供の頃に戻ったような気持ちになる。
 耐え忍ぶが故、身体を強張らせるサーラに気付き、アルトが手を止めた。
「サーラ……」
 顔を上げたくない。アルトと視線がかち合ってしまうと、みっともなく泣いてしまう。
「お願いだから、見ないでくれ……」
 泣く以前に、みっともない声が出てしまった。近くで見るよりずっと幅広い肩に突っ伏し、服を掴んでいると、アルトは再びサーラの頭に手を添えた。
「見ないよ。見ないから、ひとりで泣かないで。
 サーラが悲しい時は、俺が必ずこうして、一緒にいるから……」
 アルトの一言は、必死に張っていた虚勢を、いとも容易く打ち破ってしまう。
 自然と嗚咽が漏れ、サーラは涙の流れるままに、アルトに身を預けた。アルトも何も言わず、柔らかな髪を撫で続けてくれた。



 涙が収まると、記憶の感傷はいずこかへ去っていた。
 今ここに息づく、互いを愛する心を慈しみ、育み合っていきたい。残った想いを胸に微笑むと、アルトも心から嬉しそうに笑ってくれた。
 寄り添う二人を、外から戻って来た夫婦が微笑ましげに、扉の外で見守っていた。



「穏やかな100のお題」より
配布元・シュガーロマンス