愚者の矜持 3



 クラリスの行動は迅速だった。ヨシュアがジャックの治療にあたり、激しい消耗のため床に臥せったこと、それに伴い自らが大神官代行として、神殿内外の公務にあたることをすぐさま公表した。
 まだ年若いクラリスが代行を務めることに不安の声も挙がったが、彼女の母である神官長ソフィアを始めとする、長年ダーマに従事してきた神官たちの存在もあるため、あからさまな反論はなかった。
 同時に、ジャックの力が大魔王に利用されているという疑惑も、クラリスが完全否定した。大多数の者は納得したようだったが、結局はジャックのせいでヨシュアが表に立てなくなった、と釈然としない者も残った。
 当のジャックは、自身の評判などより、今後のこと、そして以前と異なる厄介な魔力の扱いに難儀していた。
 寝台に横たわるヨシュアは、傍目には昏々と眠り続けているように映るだろう。だが、ヨシュアの死期をクラリスら近親者含め、誰にも話すつもりはなかった。やがて肉体も死を迎えた時、多くの者は大神官の逝去を惜しんでも、既に老齢であるヨシュアの死を疑問視することはないはずだ。
 それよりも懸念されることは、ヨシュアの死と同時に、長年ダーマから魔物を退けていた結界が消えることだった。
 ジャックは神殿裏の荒地で一人、魔力の制御を行う訓練に励む一方で、ヨシュアが逝去した際の対応について話し合う必要性があるとクラリスに説いた。ヨシュアの回復を信じているクラリスだが、一方でそれがかなわなかった後の事態も考えているようで、日を置かずに幹部の神官たちとの会議が開かれることとなった。
 会議当日、訓練に集中すると前もって言ったのにもかかわらず、同席するようクラリスに半ば強制的に連れ出された。
「何だってオレが顔出さなきゃいけねえんだよ! 大体のことはお前に伝えただろ、あとはよろしくやってくれってのによ」
「前は散々私のこと半人前扱いしていたくせに、代行を任せてからは随分な丸投げっぷりね。あなただってダーマの賢者なのよ、もっと責任を持って」
「この沙汰になってオレに責任なんざあるか。アホかっての」
 会議室に向かう途中、廊下の前方を歩くクラリスに悪態をつく。
 儀式を終えて以来、訓練には毎日取り組んでいる。瘴気の影響を受けずに魔法を発動させる方法を模索しているのだが、中級以上の魔法はほぼ確実に、魔力の流れが阻害される。その度に、自分の腕をへし折りたくなる。
 いくら祖父から魔力を譲り受けても、暴発するのが常では、結局使い物にならない。
 彼女は足を止め、侮蔑と憐みの眼差しを向けた。
「……今のあなたと会ったら、モエギさん、何て言うかしらね」
 深いため息が落とされる。そういえば、ヨシュアのもとで別れてから、モエギの姿を一度も見ていない。面会にも訪ねてこないのだ。
「あいつ……まだここにいるのか?」
 ひどく落胆したまま、執務室を後にしたモエギの後ろ姿が思い起こされる。クラリスは正面に向き直った。
「ずっといるわよ。周辺の魔物退治を買って出たり、負傷者の手当てや宿屋の雑務も引き受けているって聞いたわ」
 せわしなく働き回り、見ず知らずの者にも気さくに声をかけるモエギが目に浮かぶ。今自分に出来ることを懸命に行っているのだろう。
「あなたこそ、何で会いに行かないの? モエギさんに、ちゃんとお礼言ってないじゃない」
「お前いつからお節介女になったんだ。あれこれ口出ししてくるの、叔母さんに似てきたんじゃねえか?」
 うんざりしながら遮ると、クラリスはもういいわよ、と憤慨し大股で行ってしまった。大きく肩を落とす。
 避けてはいないし、会いたくない訳でもない。
 ただ、合わせる顔がない。何を話せばいいのか、分からないのだ。
 気が重いまま、会議室へと足を踏み入れた。
 楕円形に大きく削り出された、大理石の卓を中央に据えた会議室には、年嵩の神官が既に数名着席していた。物々しい空気が漂う中、神官長のソフィアはジャックたちの到着に安堵の表情を浮かべた。
 出席者全員が揃うと、早速一人の神官が議題に入った。
「大神官が逝去された場合、最も危惧されるのは、ダーマ周辺を外敵から守り続けてきた結界の恩恵が得られなくなることだ。そもそもは、一族からの離縁を条件に、ソラリス様が大神官と共同で張られた結界である。現状からして、同等の強固な結界を再び張るのは不可能だろう」
 ジャックに視線が寄せられる。早々に居心地が悪くなってきたが、口をつぐんで耐えた。
「現在の結界を張った当時は、丁度魔王バラモスが猛威を振るい始めた頃でした。それ以前は各国と同様、衛兵や傭兵による自衛をここダーマでも行っていました。半永久的に持続するものでなくとも、破邪の結界を張り直し、衛兵を配備すれば良いだけのことでしょう」
 ソフィアが弁護する。これまで、ほぼ結界の力だけでダーマの安全を保ってこられたこと自体が特例なのだ。
「しかし、肝心の兵力の確保はどうするのだ。宿場は負傷者と、自力で下山出来ない者の受け入れで膨れ上がっている。寝食はともかく、雇い金まで用意は出来るのか」
「財政的には、宿場の者たちの受け入れで負担が大きくなっています。新たに増兵となると、予算の大幅な見直しが必要となります」
 財政担当の神官が重い息を吐いた。兵力確保には、諸々の経費を削って捻出しなければ余裕がないということか。世界情勢の混乱により、従来神殿で行い対価を得てきた施しの利用者が減ったのも要因の一つだとジャックはふんだ。
「予期せぬ異変により、苦しんでいるのは私たちダーマの民だけではありません。大神官様の容態が思わしくない今、これまでとは異なる方法、何かを犠牲にしてでも、脅威に立ち向かい、身を守らねばなりません」
 渋い表情の神官たちを前に、クラリスはつとめて冷静に呼びかける。ソフィアもうなずき、後押しする言葉を継いだ時だった。
「その予期せぬ異変を招いたのは、一体誰だね?」
 しん、と会議室が静まり返る。神官たちの注目が集まり、ジャックは奥歯を噛みしめた。
「本来ならば、英雄オルテガの息子に付いて自ら死地へ向かい、その足で元凶の大穴を封じてくるはずだったお前が、どの面を下げてここに座っている。封印にしくじったどころか、今や大魔王なる者が世界を食い潰さんと幅を利かせているのだぞ」
「それは、一概にジャックのせいとは言えません。この子は全力を尽くしました。それでも歯が立たなかった、誰も予想だにしなかった事態でしょう」
「仮にも『銀の賢者』とあろう者が、更なる災厄を引き連れおって。全く、母親も母親ながら、息子も息子だ」
「大神官も、こればかりは見る目がなかったとしか」
 次々と辛辣な言葉を浴びせかける神官たちに対し、ソフィアは音を響かせて立ち上がった。
「それ以上は! 発言を慎みなさい!」
 全身を震わせ、ソフィアは必死の形相で牙をむいていた。目尻が滲んでいる。
「お母様……」
 青ざめた顔でクラリスが諌めると、ソフィアは座り込み、卓の下で両の拳を握りしめた。
 全てがジャックのせいではないにしろ、神官たちの言い分はもっともだ。懸命に庇ったソフィアの心境を思うと、尚更いたたまれない。
 ジャックが静かに席を立とうとした時、クラリスが意を決したように口を開いた。
「全ての発言を容認することは出来ませんが、現状を鑑みて、ジャックが賢者にあるまじき失墜行為をしたのは事実です。
 よって、大神官代行の命により、近日中にこの者を賢者の位から除籍します」
 突然のクラリスの宣言に、居合わせた全員が茫然と固まった。
「……ジャック。直ちに退出を命じます」
 向き直ったクラリスの顔は、強張っていた。
 ソフィアの視線が突き刺さるのを背中に感じながら、ジャックはおとなしく部屋を出た。引き続き会議を続けるよう言付け、クラリスも後をついて退室する。
 のろのろと会議室から離れた所で、ジャックは投げやりにつぶやいた。
「……はっ。まさかお前に言われて、辞めさせられるとはな。あのクソジジイの後継者なら、このくらいでなきゃなあ。ちゃんと板に付いてるじゃねえか」
 返事はない。ぼんやりと冷たい壁にもたれかかり、この先のことを考える。
 賢者ではなくなった、中途半端な魔法しか使えなくなった自分を、果たしてアルトはどう扱うだろうか。労わってくれるだろうが、これまで通り戦力として見なすかは定かでない。サーラも似たようなものだろう。
 モエギは、最初はきっと理解出来ないだろう。そして大体の事情を把握したら、泣きわめきながら殴りかかってくる。きっとそうだ。
 仲間たちに訳を話す自分の姿を想像しようとして、止めた。もう、何も考えたくなかった。
「信じられない」
 絞り出すようなクラリスの声に、はたと我に返る。
 彼女は、母親と同様に、全身に怒りをみなぎらせていた。
「お祖父様にずっと仕えてきたあの人たちが、あんな人間だったなんて……。責任転嫁もいい所よ!」
 しばし沈黙して、クラリスはジャックの両腕を掴み訴えかけた。
「ジャック! あなたはこんな所にいなくていい! あなたは元々ここの人間じゃないもの、私たちと違ってどこにでも行ける! どこでだって、あなたは、賢者に値する人であることに変わりない! だから、辞めさせてあげたの!」
 一気にまくし立て、クラリスは息を切らしうつむいた。垂れ下がった前髪の隙間から、透明な雫がこぼれていった。
 ふと、記憶の片隅に残った声が蘇る。
 しきたりにも土地にも縛られず、この地を飛び出したソラリスの子であるお前ならば――
「お祖父様が仰っていた通りだわ。あなたは、ここにおさまることのない人。ダーマのことは私たちに任せて、あなたはあなたのやるべきことを果たして」
 純粋な能力者としては、クラリスはもはやジャックに全幅の信頼を寄せているのだろう。喜ばしいことではあったが、素直に受け入れられなかった。
「ダーマのことはありがたいけどよ。お前はオレのことを買いかぶりすぎだ」
「なら、あなた自分でも、神官たちに言われたように思っているというの」
 言い募って、クラリスは口をつぐんだ。掴まれた手を緩やかに振りほどき、苦笑を漏らす。
「まさか。けどな、クラリス。人間って生き物はよ、太刀打ち出来そうにない事態に直面した時、大体はああいう風になるんだ。誰かを悪者にして、責任をなすりつけねえと、不安に飲み込まれちまうんだ」
 クラリスは口を開きかけて、ぐっと唇を引き結んだ。かつて彼女も感じていた、ダーマと絶縁した伯母へのやるせない感情を思い起こしたのだろう。
「オレだって、あの石頭のヤロー一人ずつぶん殴ってやりたいのは山々だけどよ。それでもジイさんや、お前や叔母さんを支えてきた神官たちなんだ。ここで仲間割れしてるようじゃ、ジイさんもオチオチ寝てられねえってもんだ」
 揺れていた緋色の瞳が、徐々に落ち着きを取り戻していく。ほどけた唇から、こんな言葉がこぼれた。
「……私、やっぱり、あなたのこと嫌いだわ」
 初めて出会った時の、むき出しの嫌悪感は感じられなかった。
「あなたは、最初から見ている景色が違う。どんなに私が努力しても、一生、あなたには敵わない」
 伏せたまつ毛から見え隠れする、もどかしさと、羨望。そんな思いを抱き続けながら、高みを目指すことを止めない。それが、ジャックの見てきた彼女だった。
「オレは、そういうお前だからこそ、大神官に相応しいと思うぜ」
 お世辞ではなく、本心からだった。心細げな肩を励ますように叩いて、ジャックはその場を去った。



 クラリスから除籍の命を受けた、その日の夕時だった。ダーマを去る前に部屋の片付けをしている最中、せわしなく扉を叩く音でジャックは手を止めた。
「ったく、誰だよこんな時に」
 緩慢な動作で扉を開ける。廊下に立つ人物を目にして、心臓が大きく脈打った。
「……モエギ」
「どういうこと? 賢者を辞めさせられたって、ホントなの!?」
 息を荒げ詰め寄るモエギに、内心額を抱える。除籍の件が耳に入れば、この女が黙っているはずがない。
「クラリスが直接命を下したって聞いたけど、どうして? 訳分からないよ!」
 ひんやりとした静けさが漂う神殿の奥で、モエギの声はやたら響く。騒ぎになって、神官たちにこれ以上白い目を向けられたくない。煩わしい。
「お前はいちいちうるせえんだよ!」
 詰問を、怒声で遮った。しおれたモエギの姿を目の前にして、我に返る。
 平気なふりをしていても、一部の神官になじられた苛立ちは燻ったままだった。
「……わりぃ。八つ当たり、しちまった。場所変えて、ちゃんと話すからよ。いや、話すっつーか……聞いて欲しいんだ、お前に」
 おそるおそる顔を上げたモエギが、目を瞠った。
「ジャック……その髪」
 ああ、とぞんざいに頭を掻いてみせる。
「後遺症だ。気にすんな」
 不安げな眼差しを振り払い、行くぞ、と先導する。目指すのは敷地内にある東屋だ。
 本来の今時期であれば、神殿に住まう者が日陰で腰を下ろし、小川のせせらぎに耳を澄ます。だが現在は厚い雲に覆われ、さびれた場所と化していた。
「懐かしいね。ジャックが賢者になった時、抜け出してきてここで話したよね」
「……ああ」
 目を細めるモエギに、言葉少なに相槌を打つ。
「一年も経ってないのに、何だか、ずっと前のことみたい。あの時は、カンダタもいたよね……」
 ジャックは返答しなかった。ひなびた草むらを歩き、円形の椅子に腰かけた。モエギも隣に座る。
「あたし、ずっと宿屋の方にいたから、何も知らなくて。でも、何でも聞くから、話して」
 モエギの話を聞く、というのは日常茶飯事だったが、こちらから聞いてもらうことはあまりなかった気がする。
 ジャックは、事のあらましを淡々と語った。
 魔力と引き換えに、ヨシュアが命を落とすこと。譲り受けた力は、瘴気に阻まれ不完全なこと。責任をなすりつけられたジャックをクラリスがかばい、あえて除籍したこと。一つ明かすごとに、モエギの顔色は青くなっていった。
「……どうして、ジャックは儀式に臨んだの」
 ヨシュアの命と引き換えの行為だと聞かされながらも、何故承諾したのか。真実を知った者は必ず問うと分かっていた。だから、今まで誰にも話せなかった。
 モエギに責められなかったのは幸いだった。だから、ふと気が変わったのだろう。
 頑なに閉ざしていた、祖父の遺した伝言を、ジャックは答えの代わりに話した。



『儂はお前に魔力を与えた結果、死を迎えるが、決してお前のために犠牲になったと思うな。これはただの手段でしかない。地の奥底に巣食う、諸悪の根源を断つためのな。
 儂は常々、疑問に思っていた。ネクロゴンドの本家一族は、稀有な能力を持ちながらも、何故あの大穴を塞ぐだけだったのかと。穴の遥か底から立ち昇る邪悪な気配を察知しながら、何故地上だけを平穏に保とうとしたのか、と。
 この世界の裏側は、精霊神ルビスが住まう、もう一つの世界だ。そこに我らと同じ人間がおらぬはずがない。もし存在しないとしたら、すぐにでも邪悪な者がこの世界を滅ぼさんとやって来るはず。あの大穴にふたをしている間に、どれだけの命が犠牲になっただろう。
 そう思いを馳せながらも、儂も結局は地上を守ることしか出来なかった。祖先たちもおそらく、それで手一杯だったのだろう。
 だから、ジャックよ。決して嘆くでない。この力をお前に託し、その果てに大魔王ゾーマを倒せるのならば、儂にとって本望なのだ。
 しきたりにも、土地にも縛られず、この地を飛び出したソラリスの子であるお前ならば、必ず成し遂げられる』



「大神官様は……そこまで」
 ヨシュアが巡らせていた思いを知り、モエギは言葉が見つからないようだった。ジャックもうなずく。
「あの頑固ジジイが、裏でそんなこと考えてたんだぜ。応えるしかねえだろ」
 祖父が人知れず持て余していた、祖先や己の愚かさ。自らの命をかけてでも、託さずにいられなかった望み。
「それが、託された方はこの体たらくだ。こんなんじゃ、ゾーマに勝てる訳がねえよ」
 肩をすくめる。つま先で地面を適当に蹴っていると、モエギが両の膝に置いた拳に力を込めた。
「……それじゃあ、売られたケンカを買わないってこと?」
 視線が突き刺さる。口をつぐんだままでいると、彼女は憤然と立ち上がった。
「せっかく、大神官様から魔力を譲り受けたのに! 大切な思いを託されたのに、闘わないなんて! そんなの、あたしは許さない! ジャックは逃げてるよ!」
 逃げてはいない。もがいて、抗って、疲れ切ったのだ。
「ねえ……あんたはそれでいいの? このままじゃ」
「思い出すんだよ」
 地面に目を落としたまま、ぶっきらぼうにつぶやいた。視界の隅でモエギが首を傾げる。
「詠唱を邪魔される度に、あの時の感覚を思い出すんだよ」
 腕をさすりながら、こみ上げる不快感ごと吐き捨てた。
 暗い湖の底に引きずり込まれ、全身の活力が吸い取られていく。体内を巡る血潮が、絶望にすり替えられるおぞましさ。これから先、衝撃は生々しく蘇り続け、ジャックを蝕む。
 唇を引き結ぶモエギを仰ぎ、苦々しく笑った。
「呆れただろ? けどな、本来のオレなんざこんなもんだ。やれ銀の賢者だの何だの担がれて、底なしの魔力にのぼせ上がってよ。結局コレだ」
「そんな……そんなことない、ジャックはちゃんと」
 だらりと身体を崩し、前方の景色を何となしに見る。灰色に煙る高地に、ただ死を迎えるために眠る祖父の面影を浮かべた。
「オレが、ジイさんを死なせたようなものだ。なのに、涙の一つも出やしねえ」
 自嘲したつもりだったが、口の端がわずかに動いただけだった。
 ふと、古ぼけた光景が脳裏に浮かぶ。確か、母の葬儀だ。
 物心がつくかつかないかの幼い妹たちでも、棺に収められた母が二度と目覚めないと悟ったのだろう。気丈な上の妹ローズが泣き出すと、つられて真ん中のセリア、末のアニーもわんわんと泣いた。
 まだ足取りもおぼつかないアニーを抱えながら、ジャックは横に立つ父を見上げた。決して感情豊かではない父も、白い母の亡骸を一点に見つめ、黙って涙を流し続けていた。
 あの時、自分だけは泣くまいと、頭が痛くなる程奥歯を噛みしめた。
 悲嘆に暮れる家族を支えるために。母の死に、打ちのめされないように。
「お袋の時もそうだった。だから嫌なんだ。いっそ、オレがあのまま死んでたら」
 突如、火花が飛び散った。気付けば地面に横倒れになっており、頬がびりびりと裂かれたように腫れ上がっていた。草を踏む音が耳をかすめる。
「……あんたのこと、ずっとバカじゃないのって、言ってきたけど」
 滴が二つ、傍らに落ちる。
「ここまでバカだと思わなかった」
 その一言を皮切りに、モエギの声が、荒々しく降り注いできた。
「バカ、バカ、バカ……っ! ジャックの、ばかぁ……!」
 大声でしゃくり上げ、モエギは目の前で崩れた。
 空からは雨粒ひとつ降りてきていない。なのに、土砂降りに見舞われた心地だった。
「いやだよ……! せっかく、せっかく生きてたのに! なんでそんなこというの……?」
 モエギの叫びはひび割れていく心の音のようだった。耳を塞ぎたいのに、塞げなかった。
 ああ、だから嫌なんだって言ってるだろ。
 とりわけ、子供みたいにオレのことで泣くお前は――
『今、あんたのそばで泣いてくれる人を、大切にして』
 ふいに蘇った声に、ジャックは涙まみれのモエギをぼんやりと眺めた。
 煩わしいから、嫌なのではない。迷惑だから、嫌なのではない。
 泣いて欲しくないから嫌だったのに、今の今まで、素知らぬふりをしてきたのだ。
 ジャックは頬の痛みに構うことなく、全身を引き絞って泣くモエギの肩に手をかけた。
「モエギ」
 彼女は頭を振り乱すばかりで、しきりに嗚咽を漏らしている。
 思えば、泣かせてばかりだった。だから、別の誰かの方が彼女を幸せに出来ると信じてやまなかった。裏を返せば、彼女の想いに応える自信がなかった。
 いざ彼女が誰かの手に渡った時、襲われるであろう虚しさにすら、背を向けようとしていたのだ。
 そんな男でも慕ってくれるのなら。否、そうじゃない。
 きっと、いつからか。
 おそらくは、そう。邪な力に支配され、ぼろぼろに傷付いた彼女を、腕の中に抱いた時から――
 草むらに膝をつき、ジャックは震える小さな身体を包み込んだ。首元に黒髪の柔らかな感触がした。
「……ごめんな」
 今まで口にしたことのない、素直な言葉だった。モエギは喉がつかえたのか、息を止めて硬直した。寄せた身体の熱をもっと感じたくて、抱きしめる。
「オレは、身内の死を見るくらいなら、自分が死んだ方がマシだと思ってる奴だ。分かるだろ? お前の言う通りバカで、臆病者なんだよ」
 だけど、と声音を落とす。意気地のない自分と、決別するために。
「もう、お前を泣かせたくねえんだ」
 かつての恋人には、ちゃんと言ってやれなかった。
 散々はぐらかして生きてきた愚かな男の、せめてもの矜持だ。
 ゆっくりと、悲しみに喘いでいたモエギの呼吸が落ち着いていく。腕が余る程の体格差に今更驚きつつ、黙って彼女が口を開くのを待った。
「……ジャックは」
 みぞおちのあたりに吐息がかかる。それだけで胸の奥が苦しくなるのが不思議だった。
 見飽きたはずの顔が見たくて腕を緩める。下ろした黒髪の隙間から、ほの赤く染まった耳と頬が覗いた。
 ジャックの胸元を掴み、うつむいたまま、モエギは言った。
「ジャックは、きっと、そばにいる人が泣いてたから、泣けなかったんだね」
 心の最奥にある扉を、そっと押されたような気がした。
「大神官様……お祖父さんのことも、きっとクラリスたちの悲しむ姿を考えたら、ジャックは泣けなくなっちゃったんだよ」
 何と返せばいいのか分からず、言葉に詰まっていると、モエギが顔を上げた。
「辛かったよね。でも、そんなジャックが、あたしは好きだよ」
 涙に濡れたまま、彼女は優しく微笑みかけた。
 知らぬ間に向けられていた、けれど応えられなかった、まっさらな想いが染み入ってくる。自分でも気付かなかった扉が開いた時、自然と涙が溢れていた。
 ずっと家族の中心で、笑っていて欲しかった母。
 厳しくも、紛れもなく愛してくれていた祖父。
 本当は、他愛もない時間をもっと、過ごしていたかった。
 喉元までこみ上げる衝動を抑えつけながら、静かに頬を濡らすジャックを、今度はモエギが抱きしめた。
「大丈夫だよ。必ず、何とかなるよ。ジャックの力も、この世界も……。そして、お祖父さんが助けたかった、もう一つの世界も」
 そうだな、と返したかったけれど、胸が詰まって何も言えなかった。
 ただ、堰き止められていた涙が流れきった後、ようやく再び歩き出せる予感がした。
 いついかなる時も、そばで怒り、泣き喚き、笑う彼女への想いは、まだ向き合ったばかりで、しばらくは持て余すだろうけれど。
 それでも温かな体温から離れがたく感じているのならば、確かなのだろう。
 頬を伝うものが止まるまで、ジャックは目を閉じ、小さなぬくもりに身を預けていた。