深海の隠者 幽遠の青 5



 北海をさらに北上し、一行の帆船はランシール地方へと到着した。
 海洋貿易が盛んなポルトガの船乗りは、『地動説』に基づいた航路で船を進める。だが、所によっては説を否定する者も多く、世界地図に記された東西南北の果ては絶海となっており、奈落へと通じていると未だに恐れる者もいるそうだ。
 山岳地帯に囲まれたバハラタで育ったモエギも、当初はその一人だった。本格的な船旅となる前も、ダンが航路を説明すると、しきりに大丈夫かと訴えていたものだ。
 ジャックの一言により、一時は気まずい雰囲気が漂っていた船内だが、日が進むと普段通りとなっていた。きちんと謝罪したのだろう、モエギとジャックは日常的な会話を交わしていたし、アルトも一夜明けると機嫌を直していた。
 サーラとしては安堵したが、自分を含め、それぞれの抱える内情を垣間見たような気がした。しかし、ようやく三つの鍵が揃い、新たな宝珠の手がかりも得たのだ。ささいなことで足並みを乱す訳にはいかない。それは、個人差はあれど四人の中で、共通意識としてあるはずだ。
 海岸線から程近い距離にあるランシールの村は、初めて訪れた時と同じく、ひっそりとした空気が漂っていた。違うのは、厳寒期の寒々しさから解き放たれ、緑生い茂る村の風景がのどかな印象となったことだ。
 風が撫で上げる青々とした草いきれの匂いは、サーラとアルトがこの地で激しく争った者の記憶を、和らげてくれた。
 宿に部屋を取ってから、明るいうちに四人で森の奥の神殿を訪ねることにした。
 大理石で建造された神殿は、村の西方から時折吹く砂風を浴びてか、所々に色あせや風化した痕跡が見受けられる。ダーマ神殿よりも遥かに長い歳月を経た外観は、今もなお威厳を誇っていた。
 三つ構えられた神殿の正門には、大きな十字架が掲げられている。その下で、三人の神官が佇む。よく見ると、彼らの法衣にはネクロゴンドの紋章の一部と思わしき、羽根の片方が金糸で刺繍されていた。
 中央の門前に立つ壮年の神官は、一行の姿を認めると左右の門を守る神官を呼び寄せた。アルトが先頭に立ち、折り目正しく一礼する。
「以前、お伺いした通り、三つの鍵を持参しました」
 アルトが腰袋から束にした鍵を取り出すと、警戒気味だった年若い男女の神官が、途端に目を見開く。岩のような顔つきをした壮年の神官は、固い表情のまま三つの鍵を確認すると、厳かに頭を垂れた。
「確かに。古より、我らが主の地に伝わる鍵とお見受けしました」
 壮年の神官は他の二人に言付けると、向かって右の門を開門させた。ジャックがアルトの隣に並び、簡潔に自己紹介をして問う。
「我らが主の地、っていうことは、あんたたちは元々、ネクロゴンドの一族に仕えていたってことか?」
 神官はジャックの素性を知ると、しばし何かと照らし合わせるように観察した。
 移動時などは軽装で過ごすが、改まった場所に赴く際は、決まって賢者の正装をするようになった。目上の同性に探るような視線を向けられ、ジャックは居心地悪そうに後頭部を掻く。
 何に思いを馳せるのか、神官は目をつむり、是と答えた。
「我々は、元よりネクロゴンドの王族に仕える神官の一族。今から三百年程前、主の命を受け、我々の祖先がこの地に移住しました。以来、宝珠と祖先の知識を、選ばれし者がこの地を訪れるまで守っておりました」
 神官は、右の門に控える二人を息子と娘だと紹介し、まずは神殿内で詳しい説明をすると招き入れてくれた。
「私とアルトが訪れた時は、さほど詳しい話をしてくれなかったものだが……。やはり、お前がいると話が違うものだな、ジャック」
 感心して声をかけると、ジャックは神殿を見上げており、一拍ずれて「へっ?」と間の抜けた返事をした。
「どうしたの? といっても、こんな所にまでネクロゴンドに関係のある人がいるなんて、あたしもびっくりしたけど」
 神官たちが中へ入るのを見届けて、モエギも大きく息をつく。ジャックはそうだな、とどこかうわの空で相槌を打ち、アルトに呼ばれるまできょろきょろと神殿を見回していた。



 神殿内の通路は外光を取り入れておらず、燭台の明かりが照らす中を進んでいく。幸い、通された応接間には窓があり、昼下がりの陽射しがまぶしく降り注いでいた。客をめったに通さないのか、どことなくほこりっぽい匂いが漂っている。
 各々席に着くと、壮年の神官はニコラスと名乗り、一族の代表として説明を始めた。
「まず、そちらのお二人には以前お話ししましたが、この神殿より西の砂漠に、『地球のへそ』と呼ばれる大洞窟があります。六つの宝珠の一つ、青の宝珠はその奥底に安置されています」
 洞窟自体は、宝珠を賜った原住民が、保管のために造ったとされている。そこにニコラスの祖先が移住し、原住民の子孫であるランシールの民と協力して建造したのが、洞窟に通ずる神殿だという。
「洞窟へは、神殿の入口中央にある門から大広間を抜け、さらに長い通路を経て向かいます。ですが、神殿が完成して以来、大広間の先はここを訪れる者はおろか、我々すら開けられない、特殊な封印が施されているのです」
「特殊な封印……?」
 アルトが首を傾げると、ニコラスは鍵を卓上に並べるよう言い、その内北海に沈んでいた奇妙な鍵をそっと手にした。
「ネクロゴンドで保管されていたこの鍵は、『マネマネ銀』という、魔力のこもった金属で出来ています。我々も、実際に目にするのは初めてですが……この金属は、どんな鍵穴に対してもそれに相応する形状に変化するといいます」
「それは、悪用されたらとんでもないことになっちゃうよね……」
 あらゆる事態を想像したのか、モエギがごくりとつばを飲み込む。仮にバラモス側の手に渡ったとしたら、魔物を人間に化けさせ、各国の重要な品を奪うなどの蛮行に及ぶのが目に見える。
「この、マネマネ銀を創り出したのが、我々がこの地に移住してきた時、一族を率いた祖先とされています。祖先は自らが創造した金属にしか反応しない扉を、大広間の奥に造ったのです」
 ニコラスの話を聞くと、彼ら一族も相当な魔力を持つ存在だとうかがえる。だが当のニコラスは、ランシールの民と血を交えるごとに、祖先のような力は徐々に弱まっていったと控えめに述べた。
「また、貴方がたが『地に許されし者』だとしても、洞窟への道を許されるのは一名のみです」
 四人は顔を見合わせた。おのずと、縁のあるジャックに視線が集中する。すると、銀の賢者は隣に座るアルトの両肩を抱き、ずいと押し出した。
「ジャック!」
「問答無用。ほら、今まで散々聞かされただろ? 天と地に許されし者はすなわち、お前なんだって」
 様々な人間の口から語られた伝承。それらの延長線上にただ一人浮かび上がるのは、やはりアルトなのだ。ジャックは、あくまで滅びた一族の血が流れているに過ぎない。
 否定こそしないが、アルトは戸惑いを隠せないのか、なかなか返答しない。斜め向かいに座るサーラは、太ももの上で拳を握るアルトに手を重ねた。
「アルト。オルテガ様ですらかなわなかったものを、手にするのだろう?」
 青年は目を瞬かせ、サーラを見つめ返す。隣でモエギも身を乗り出した。
「アルト君、自分の目的を思い出して。そのためにも、自分で宝珠を取りに行かなくちゃ。ね?」
 皆に励まされ、アルトの瞳が定まった。ニコラスを正面に見据え、よく通る声で告げる。
「俺が行きます」
 ニコラスの目尻にしわが寄った。微笑むと、頑強な面が和らぐ。
「それが良いでしょう。しかし、今日はもう陽が傾く一方。準備を整え、明日の朝にまた、ここをお訪ね下さい」
 準備をするにあたり、ニコラスは洞窟についての説明をすると、明日は正門前に来るよう言い渡した。神官は終始落ち着き払った態度を貫いていたが、どことなく生き生きとした表情となっていた。



「じゃあ、行ってくるよ」
 神殿の中心部に位置する大広間の奥にて、アルトは仲間を振り返り、緩やかに笑みを浮かべた。
 アルトから鍵を受け取ると、神官ニコラスがまばゆい金属の枠が張り巡らされた扉に、鍵をさす。解錠の音が重々しく響き、扉を押すと、奥から塵とほこりの入り混じった空気が流れ込んだ。こちらとの時間の流れに相反し、滞っていたものがようやく動いたような気を感じた。
 アルトはもう一度こちらに目をやり、小さくうなずいてみせると、燭台の灯る通路へと歩んでいった。
 愛用の剣を背負う後ろ姿を見送ると、サーラは扉を閉めるニコラスに願い出た。
「神官殿。この扉の前で、待たせてくれないか」
 ニコラスは眉をひそめ、「気持ちは分かりますが」、と口にしたものの、良い顔をしない。
「見ての通り、この大広間は月に一度、我々が祈祷を捧げるためにしか使わない場所です。このような所で待たずとも、応接間にてお待ち下さい」
 確かに、大広間は十字架の白抜きがされた赤じゅうたんが広がるばかりで、長時間居座る場所ではない。
「しかし……」
 サーラとしては、アルトが一人で洞窟に潜る間、くつろいで待つのがためらわれる。順調にいけば翌日には戻ってくるそうだが、その時真っ先に迎えてやりたい。
 渋るサーラを見かねて、背後からモエギが声をかけた。
「もう、サーラはホント真面目なんだから。言っちゃ悪いけど、こんな所でずっと待ってたら、風邪引いちゃうよ。そこまでして待ってて欲しいなんて、アルト君は思わないでしょ」
 言われてみると、天井からは夏の陽光が射しているものの、普段人の出入りが盛んな場所ではないため、空気がひんやりとしている。ここで待つために、暖を取れるよう頼むのも気が引けた。
「……分かった。その代わり、明日の明け方にはこの扉の前で待ちたい。良いだろうか、神官殿」
 ニコラスはアルトとサーラの仲を知る由もないが、仲間想いと思ったのだろう。明日早朝には大広間の門を開けると承知してくれた。
 サーラがほっと息をつくと、待ちわびていたようにジャックが「はいはい!」と、やたら元気良く手を挙げた。ニコラスが向けた眼差しは、学び舎で手のかかる生徒を眺める教師に似ていた。
「どうされましたかな、ジャック殿」
「アルトが戻るまで、神殿の書物庫で本を読みたいんですけど!」
 サーラとモエギは揃って目を丸くする。書物庫があるなど、いつ情報を仕入れたのだろう。ジャックは勝手に訳を話してくれた。
「昨日、用を足しに席を外した時、娘さんに教えてもらったのよね〜。いやあ、美人な娘さんをお持ちですよね」
 こんな軽い口調の男に、かつて仕えていた主と少しでも同じ血が流れているとなると、ニコラスも心中穏やかではないだろう。しかし、存外ニコラスは平静を保って応じた。
「年の瀬に、ダーマで悟りの式が行われた際、我々も祝辞を送ったものですが……貴殿には、娘はもったいないですな」
「あ、そんなつもりで言ったんじゃなくて……」
 ニコラスの切り返しと、うろたえるジャックに、つい笑いそうになる。大抵の娘を持つ父親は、近付けたくない類の男と見なすはずだ。
 盛大に嘆息し、モエギが苦笑したままのジャックをはたいた。途端に非難めいた叫び声が上がる。
「いってえ! お前も誤解しただろ! ただの社交辞令だっつーの!」
「つべこべ言わないの! 神官様、ジャックはこの通りまだ半人前なの。変な真似をしないようにあたしが見張るから、書物庫に案内してくれませんか?」
 モエギとジャックのやり取りを目にすると、ニコラスは表情を緩めた。
「宜しいですよ。書物庫は神殿の左の門から中に進むとあります。息子に言って、鍵を開けさせましょう」
 さりげなく娘を遠ざけるニコラスに、モエギが小さく詫びる。サーラも大きく息をつくと、二人に向き直った。
「私はしばらく応接間にて待たせてもらう。お前たちも、あまり騒がしくしないようにな」
 モエギは「大丈夫だってば!」と言い張り、子供じゃないんだから、と目で訴えた。この二人が一緒にいて、静かである方が心配なのだが、ニコラスの手前なので念を押しておいた。
 一旦大広間を出ることになり、サーラは足を止め、扉を振り返る。
 せめて、自分だけでもアルトに同行出来たら良かったのに。洞窟には、よっぽど凶悪な者はいないというが、長年の間に魔物が棲みつくようになったらしい。
 サマンオサの件を経て、アルトも魔法の腕が上がった。能力的に気にかける必要はない。だが、何故か胸騒ぎがする。
 長い一日になりそうだ。サーラは深く息を吸って、扉に背を向けた。



 ニコラスの息子である神官に案内してもらい、モエギはジャックについて神殿の書物庫に足を踏み入れた。
 部屋をぐるりと埋め尽くす本棚の上には天窓が備えられ、日中は明かりがなくとも外光で過ごせそうだ。
 本棚には、彼らの祖先がネクロゴンドから持ってきた古文書や、代々一族で集めてきた書物が収められているという。父に似ず、爽やかな雰囲気を纏った若い神官は、夕食の時間に呼びに来ると言い残し去っていった。
 本棚に囲まれるようにして、ジャックが両腕を広げた程の幅がある机と、丸椅子が四方に八脚置かれている。書物庫に馴染みのないモエギは、どことなく淀んだ空気が漂う部屋を見渡し、顔の前で手をはためかせた。
「うーん……。この部屋、ちゃんと換気しているのかな」
「してるだろ。それでも匂いが気になるんなら、サーラさんと一緒に待っててやれよ」
 ジャックは早速目ぼしい書物を人差し指で引き抜き、小脇に抱えている。ずらりと並ぶ背表紙は、モエギには色合いや厚みの差でしか区別がつかない。ジャックが何をもって選んでいるのか、傍目には理解出来なかった。
「そういえば、昨日神殿に来た時、何かきょろきょろしてたよね。もしかして、最初から本を読みたかったの?」
 問いかける間にも、ジャックはほんの一、二秒で書物を抜き出し、気付けば机の端に書物の山を築いていた。ざっと見て五冊以上ある。モエギであれば、一冊読むにしても三日はかかる。
「そう。ダーマは、結局ネクロゴンドの分家だ。ここの倍はある書物を保有してたけど、こっちにしかない書物があると踏んだんだよ」
「そんなにあっちこっちから引っ張り出して、一体何を調べたいのよ?」
 まさかアルトが戻る前に読みきれなかったら、貸してくれと頼み込むのではないか。不安に駆られながら、積み上げられた書物の表題を読み上げてみる。
「地涯の王国、竜の神が遺したもの、天に最も近い場所……。あ、破邪の術についての本もある」
 それぞれ厚みは違うが、どれも短時間で読めそうにない重量感を誇っている。ジャックは一通り蔵書を確認したようで、慌ただしく丸椅子を引くと、かぶりつくように書物に目を通し始めた。
 この調子だと、騒ぐ心配は全くなさそうだ。モエギも角を挟んだ斜め向かいに座ると、ジャックが選んだ本から適当に一冊手に取った。表紙には、『宝珠にまつわる色の意味』とある。思わず、ジャックの方を向く。
「えっ? これ、もしかして何色の宝珠があるのか、全部分かるの?」
 ジャックは顔を上げると、心底嫌そうな目つきで返した。
「お前な、そんなの自分で読みゃ分かるだろうが! 話しかけんな、気が散る」
 邪魔者扱いされて、モエギも素直に引き下がる訳にはいかない。書物を置くと、一思いに尋ねた。
「ジャック。何をそんなに焦ってるの?」
 意表を突かれたのか、ジャックは手を止め、こちらに向き直った。
 思えば、サマンオサ王から『空から落ちた船』の話を聞いてから、ジャックは苛立ったり、一人で何かを考え込むような素振りが増えていた。
 普段からふざけた言動の多い男なため、ふとした瞬間に感じる程度だった。だが、モエギとしては、ジャックが知らずの内に責務をしょい込んでいないか、心配なのだ。
「別に、焦ってねえよ。ただ、オレは知る必要がある。オレが生まれた頃に滅びた国のことや、まだ知らない歴史、世界のことをな」
「無理してない? あの船に残っていた人と話してから、ジャックが何か、責任を感じているような気がする」
 今までは、己の身に流れる血を強みとするだけだったジャック。それが、徐々に希少な存在なのだと痛感させられ、失われたものに対し懸命に応えようとしている気がして、ならないのだ。
 そう訴えると、ジャックは頬杖をつき、正面の天窓を見上げた。ひとたび真剣な眼差しをして黙り込むと、清められた短剣のように鋭く、整った印象を受ける。胸が小さく絞られた。
「……そりゃ、オレだって何も感じない訳ないだろ。それに、オレはクラリスと違って、飛び級で賢者になったんだぞ? 自分の知識が追いつかねえと、賢者として焦るのは当然」
「……そう」
 つぶやくと、ジャックはいたずらっぽく笑った。
「ま、お前に指摘されてるうちは、オレもまだまだってことだな。何日か前はやたら怒ってたくせに、何でついて来たのかと思ったら、また余計な心配しやがって」
「だって……」
 単にそばにいたい気持ちもあったが、口が裂けても言えない。ジャックは薄く笑った。
「そんな訳で、オレはしばらくの間、本の虫になるからよ。もし退屈になったら、サーラさんの所に戻ってやれ。アルトを一人で行かせて、気をもんでいるだろうしな」
 それきり、ジャックは書物に目を落とし、一切の会話を受け付けなくなった。モエギも、ジャックなりの思いがあって取り組んでいる姿を目の前にすると、思いつくままに話しかけるのははばかられた。
 声をかけなければ、少しくらい一緒にいてもいいよね。心の中でつぶやき、手に取った書物を読み始める。
 装丁がぼろぼろになり、端が目に見えて黄ばんだ本をめくっていくと、宝珠についての様々な記述が書かれていた。
 この世に六つある宝珠は、それぞれ赤、黄、緑、青、紫、そして銀の色を持つという。
 赤は『栄誉』、黄は『奉仕』、緑は『安穏』。青は『勇気』、紫は『包容』。銀は『孤高』。これらは、単に宝珠の色に当てはめられた意味ではなく、宝珠がもたらす力の象徴だと記されていた。
 六つの宝珠を最初に賜った地、さらに宝珠を捧げるために存在するという、南の天涯レイアムランドの祠についても記述があった。
 木漏れ日を通した陽射しが部屋を包み、時たま鳥のさえずりが風に乗って聞こえる。次第に眠気を覚えるが、こうしている間にもアルトが一人洞窟を探索していると思い直し、睡魔を追い払った。
 だが、眠気は増す一方で、舟を漕いではおぼろげな意識で目覚めるのを繰り返す。ついには、机に顔を伏せたまま眠ってしまった。
 揺らいでいく意識の片隅で、ジャックがそっと笑うのが聞こえた。



 光閉ざされた空間を、白刃の閃きが裂く。
 胴体に深い太刀筋が走り、紫色の毛並みをした大猿が唸りながら横倒れになる。絶命を確認する暇もなく、頭上を舞う毒々しい色をした蜂の群れに手をかざす。
「ベギラマ!」
 手のひらから火炎の渦が放たれ、蜂を一飲みにする。奇声を上げ、蜂の残骸がぼたぼたと床に崩れた。大猿の血や焦げ臭い匂いが立ち込める。アルトは腕で鼻を覆い、肩の力を抜いた。
 神殿から送り出され、砂漠を西に進むと、待ち構えていたように洞穴がぽっかりと口を開けていた。周囲には何一つ目につくものがなく、『地球のへそ』というよりは、砂漠が人の腹部で、そこにぽつんと、へそのような入口がある絵図が浮かんだ。
 血をはらい、剣を鞘に収めると、再び暗がりの中へ足を踏み出す。何百年もの間、人間がここを訪れていないはずだが、洞窟の通路には一定の間隔で燭台の火が灯っている。蝋燭が整った形のままであることから、灯火が普通の火ではなく、魔力によって絶えず燃えていると推察した。
 途中、角を曲がると何度も同じ扉の前に出る通路に悩まされたが、ようやく階下へと通じる階段に行き当たった。
 これまでも、至る所で洞窟に潜っていったが、常に仲間と一緒だった。それが独りだと、心が塞いでいくような、陰鬱とした気分が押し寄せてくる。
 階段の手前で立ち止まり、耳を澄ませると、足元からいくつもの気配が伝わってくる。人気のないこの洞窟は、魔物の格好の棲み処となっているのだろう。
 アルトは剣を抜き、そのまま慎重に階段を下りていった。
 降り立った場所は、明かり一つない暗闇の間だった。メラで松明を作り、辺りを照らしてみるが、壁や柱といった障害物は一切見当たらない。代わりに、闇の中をうごめく無数の敵意が、アルトを中心に狭まっていく。
 むやみに動き回るのは得策ではない。アルトは構成を描き、拡散させた。
「イオ!」
 小爆発と火花が周りを照らし、その拍子にアリクイ属のアントベアや、マージマタンゴといった小柄な魔物が弾け飛ぶ。直撃せぬよう薙ぎ払い、今度はメラの火玉を放ってみるが、魔物には当たらず床をなめたのみで、闇に溶けていった。
 出発前に朝食を摂ってから、何度目かの空腹を感じる。そろそろ外は陽が沈む頃だろう。
 この洞窟は、リレミトという空間脱出魔法が無効になると説明を受けている。やぶからぼうに魔物を蹴散らしていっては、余計な消耗をする一方だ。帰りのことも計算に入れなければならない。
 アルトはトヘロスという、弱い魔物を遠ざける魔法を唱えた。微弱な気配が消えたのを確認し、ひとまず開けた空間の方へ進む。
 あまり頻繁に魔法で様子を探ると、発動に必要な精神力も衰えていく。途中、足元のがれきを拾い、何度か投げつけてみたところ、上り階段に行き当たった。しかし、上った先に宝珠らしきものは見当たらなかった。
 洞窟に挑戦するにあたり、ニコラスからも説明を受けてはいるが、彼は道順などの助言は一切口にしなかった。ただ、宝珠は洞窟の奥底に安置されている、と最初に聞いている。すなわち、さらに下った先を行けば、宝珠に近付く。
 脳内で歩いた道程や、階段の位置を整理していた時だった。背筋の凍るような殺気を感じ、アルトは瞬時に飛び退いた。間一髪、アルトが立っていた場所に血糊のついた鉄斧が刺さる。
 覆面を被った、筋肉質の殺人鬼属だ。元は野盗や山賊だった者が、魔の力で魔物に仕立て上げられた怪人である。覆面から覗く眼光は、ただ目の前の標的をなぶり殺す意思のみを宿し、ぎらついている。
 殺人鬼は鉄斧を振りかぶり、雄叫びを上げて襲いかかってきた。アルトは剣で対抗し、間を置かずに魔法を繰り出す。
「ラリホー!」
 途端に殺人鬼が脱力したのを見計らい、横切るとくるりと身体を反転させ、肩から後頭部にかけて斬り裂く。血を吐く音の後、巨漢が沈んだ。
 暗闇に潜む狂気に、どれだけ対応し、耐えられるか。これも挑戦者を試す一つの試練なのだ。呼吸を整え、再度この空間の構造を思い描く。
 下りの階段があるならば、いくら空中を探った所で見つけるのは困難だ。アルトは殺人鬼が息絶えているのを確認すると、錆の目立つ鉄斧を取り上げた。まだ探っていない方向へ、鉄斧を床に沿って勢いよく滑らせた。金属音が遠ざかり、視界の向こうでガツン、とぶつかる音がした。直線上には何もないようだ。
 無謀とも言える探索に気が滅入りそうになるが、自分を奮い立たせ、一旦足を止める。
 この洞窟は、人為的に造られたものだ。ならば、何かしらの意図をもって、宝珠を奥底にしまい込んでいるだろう。
 今まで探索してきた場所の多くは、入口から最も離れた所に重要な品や場所があった。こういった視界不明瞭な洞窟ならば、まずは遠い位置に見当をつけて調べる。
「とすれば……」
 この空間の階段の位置を、脳内で再現する。多少ばらつきはあったが、ここに下りてきた階段を含め、上り階段はおおよそ、部屋の中心と壁際の間に設置されていた。行き止まりだった二つの階段は、どれも元来た階段から離れている。未だ探索していないのは、アルトが地上から降りてきた階段に程近い部分だ。
 灯台下暗しとはよく言ったものだ。見当をつけ、くまなく歩き回ると、足元からより鬱蒼とした気配が漂う箇所を発見した。視界を照らすと、数歩先に下りの階段が浮かび上がる。探索者の裏をかいた位置だった。
 魔物がはびこる内部の様子からして、宝珠に近い場所もおそらく、安全ではないだろう。気を引き締め、アルトは塵の積もった階段の一段目に足をかけた。



 下りた先では、再び燭台の灯火が現れ、アルトは安堵のため息をついた。暗闇の間で、随分神経をすり減らしてしまった。
 真っすぐ進むと、左右に道が分かれている。特に判断材料もない。アルトは直感で右に進むことにした。
 右の角を曲がると、壁際に奇妙な仮面が埋め込まれていた。原住民による装飾だろうと、素通りする。
『引き返せ……』
 背後から、いきなりおどろおどろしい声が上がり、不覚にも飛び上がりそうになる。怖々と振り返ると、仮面の両目が血走った眼のように赤い光を帯びていた。
「これも、宝珠を求める人間への挑戦なのか……?」
 生唾を飲み、独り言で気を紛らわす。モエギがいたら、仮面もびっくりするような悲鳴を上げそうだ。おかしな想像がよぎり、独りで良かったと、妙に納得した。
 ここまで来て、おとなしく引き下がる方がおかしい。無視して先を行くと、どこからともなく蹄を鳴らす音が近付いてきた。
 背中に猛烈な体当たりを食らい、床に転がると後方を顧みる。大きな角で襲いかかる魔獣、マッドオックスが前足を蹴り、鋭くこちらを睨んでいる。
 この階に下りてから、魔物の気配は薄れていた。考えられる要因は一つ、あの仮面が魔物を召喚したのだ。
 鼻息荒く突進してきたマッドオックスを横に飛び退いてかわし、勢い余った所を狙いとどめを刺す。
 先を眺めると、やはり同じような仮面が点々と並んでいる。魔物をけしかけ、宝珠を手にするに値する者かを見定めるといった所か。
「なら、試してみろ。俺も思う存分、やってやる……!」
 アルトは大きく深呼吸をすると、一気に通路を駆け抜けた。
 引き返せ……、引き返せ……と声が響いた数だけ、背後から魔物が出現し、奇声を上げながら追ってくる。
 角を曲がると、ほうきに乗った赤黒い肌色の魔女が器用に放物線を描き、けたましい笑い声を上げながら踊り狂う火炎を放ってきた。マントの端が焦げ、毛先の焼ける嫌な臭いが立ち上る。
 さらにその後ろを、黄土色のうろこをした飛龍スカイドラゴンが追い越さんばかりに追走してくる。壁を削りながら胴体をくねらす姿を見て、無茶苦茶な体格の魔物を寄越してくるものだと、場にそぐわぬ苦笑が口の端に滲む。
 確か、ジャックとモエギが、ガルナの塔であの飛龍を相手取ったはずだ。話を聞いた時、ジャックはアルトだけが唱えられる魔法の名を挙げ、それさえあれば瞬殺だった、と口惜しそうにしていた。
 曲がった先はさほど長い通路ではない。先に魔女を倒して、図体のでかいスカイドラゴンを引きつけて一気にカタをつける。アルトは追いつかれないよう走りながら、魔女に向けて封印の魔法を放った。
「マホトーン!」
 狭い通路であえなく直撃を食らった魔女は、金切り声を上げて頭上から落下してくる。アルトは壁を蹴り空中に飛び上がると、宙返りをして魔女の胴体をほうきごと斬り上げた。耳の穴が痛くなるような絶叫と共に魔女は霧散し、息つく暇もなくスカイドラゴンが迫ってくる。
 アルトは着地後、突き当たりの右手の空間に飛び込んだ。おかげで石像に衝突するが、スカイドラゴンの巨体も壁に激突した。隙を逃さず、編み上げた構成をぶつける。
「消え去れっ! ニフラム!」
 身動きが取れないスカイドラゴンは、もがきながら白銀の閃光に染まり、断末魔の叫びを残して消滅していった。
 屈強な姿をした石像の足元に座り込み、アルトは肩で息をしながら、額にかかる髪を拳でよけた。身体全体がじっとりと汗ばんでいる。
 あの仮面の仕掛け以外に、魔物は現れないようだ。行き止まりでしばらく身体を休めていると、ふと視界の端に、古びた宝箱が二つ並んでいるのが映った。
「これは……もしかして」
 息が整うのを待たずに、アルトはおそるおそる片方の宝箱に手をかけた。鍵はかかっておらず、力を込めるとすぐに隙間が空いた。
 ふたを持ち上げると、アルトは目にした光景に絶句した。
 宝箱は、まるで底が抜けたように、漆黒の闇が渦巻いていたのだ。
「何だ、これ……?」
 得体の知れないものへの恐怖の念が湧き上がり、とっさの判断が出来ずにいると、闇の奥底から何者かの声が轟いた。
『選ばれし者よ』
 人食い箱の類かと剣を突き付けたが、宝箱自体はぴくりとも動かない。左右に配置された石像が喋っているのかと頭上を仰いでも、何の変化も見られなかった。
 アルトはゆっくり剣を収め、次の言葉を待った。
『地の底に辿り着いたということは、宝珠を手にし、天を仰ぎ神の鳥をこの世に呼び寄せようというのだな』
 言わんとすることは、アルトも旅路の中で得た知識から予想がついた。深くうなずく。
「貴方は……誰なのですか」
 スカイドラゴンが暴れた名残で、まだ壁面がぱらぱらと崩れ落ちている。もう一度問おうと息を吸うと、答えが返ってきた。
『我は、この地で人類が現れる前から、世界の始まりと行方を見届けている。遥か古の過去から、汝の生きる現在、そして未来にたゆたう、記憶の主……』
 人とも、神ともつかない存在との対話に、アルトは二の句が継げない。声は、ひとりでに問いを投げかけてきた。
『汝、選ばれし者よ。汝の両手には、一と全が握られている。どちらかを選ばなければいけない時、汝はどちらを選択する』
 抽象的な問いかけに、アルトは口ごもる。何を示すのかが分からなければ、選択のしようがない。
 ためらいを感じ取ったのか、底なしの闇の中から、人影が浮かび上がった。目の前に現れた幻に、反射的に呼びかける。
「サーラ……?」
 眼前に浮かぶのは、憂いの表情を宿したサーラだった。そこで、アルトは示すものを理解した。
「一と、全……。つまり、サーラと、それ以外の、世界の人々ということか」
『左様』
 天秤にかけるには、あまりにも極論だ。答えて何になるというのだろう。真意を測ろうと頭を悩ませ、ふと、謎の声が発した言葉に引っかかるものを感じた。
「ここから、未来のことも見えるというのか? なら、俺がいずれ、どちらかを選ぶ未来があるということなのか?」
 返事はない。痛い沈黙が、アルトを蝕んでいく。
 選んだ先にある未来を、想像したくない。記憶が呼び起こすのは、愛する者の亡骸を抱き、崩れる和の国の男。目指した道の果てに、共に在りたいと切望した者を失った姿が、まぶたの裏に焼き付いている。
 アルトは頭を振り乱し、雑念を振り払った。サーラの幻影が、唇を結んでこちらを見下ろしている。自らを奮い立たせるように、拳を握った。
「それは、今見える未来の話だろう? 未来は変わる。だから、誰にも知ることが出来ない。たとえ、貴方のような存在でも」
 運命の流れに翻弄される、あらゆる存在をただ傍観する者に口出しされたくない。
「俺は、どちらも選ぶ。両方、守ってみせる」
 毅然として言い放つと、幻影は音もなく消えた。地の底から、人ならざる者の声がした。
『汝の答え、しかと受け取った。だが、覚えておくがよい。
 汝、一を選ぶ時、全てが一つの運命に従う。
 汝、全を選ぶ時、一つが全てを変えるだろう――』
 声が止むと、底なしの宝箱は自然に閉じた。代わりに、もう一つの宝箱が、貝の呼吸のようにぼふっ、とほこりを吐いた。
 どういう原理で閉じられていたのかは不明だが、解錠の必要もなく、宝箱はすんなり開いた。
 古びた麻布にくるまれていたのは、まさしく青の輝きを宿した宝珠だった。
 夏の晴天よりもまばゆく、満天の星空のように澄んだ色。見つめていると、心に染み入るような色彩だった。
 アルトは麻布ごと宝珠を拾い上げると、腰袋に丁寧にしまい込んだ。改めて、声の主が発した言葉を繰り返す。
「一と、全……」
 この先に続く未来を、警告したのだろうか。アルトはかぶりを振り、元来た道を歩き出す。
 このまま留まっていると、自分の意識すら、奈落の闇に吸い込まれそうだった。



 アルトは、結局その日のうちに戻らなかった。
 モエギとジャックが先に客室で眠りについても、サーラはしばらくの間応接間で毛布にくるまっていた。結局、そのままソファで眠ってしまったらしい。気付くと、窓の外が薄ら青くなっており、空気が白んでいた。
 野宿よりはましだが、きちんとした寝床で睡眠を取らないと身体が凝り固まってしまう。立ち上がり目いっぱい伸びをすると、毛布を外套代わりにしょい込み、ニコラスに頼んで大広間へと入らせてもらった。
 昨日、アルトを見送った扉の前に来ると、サーラはここで待つと告げた。
 戻った際はすぐ知らせるよう言い残すと、ニコラスは朝の雑務をこなすため大広間を後にした。サーラは壁際に座り込み、こめかみに手を当てる。睡眠不足で、いまいち頭が冴えない。
 アルトは夜通し、あの洞窟を探索したのだろうか。今はどのあたりにいるのだろう。空腹でまいっていないか、魔物の襲撃で負傷していないか――待つ時間というのは、余計な不安を増幅させる。
 今は信じるしかない。アルトが、無事に帰ってくると。
 祈るように目を閉じ、顔を伏せる。静けさに包まれ、ついうとうととしてしまう。
 浅い眠りを何度か繰り返した頃、扉の奥から途切れ途切れに、足音が聞こえてきた。瞬時に立ち上がり、重たいまぶたを無造作にこすって扉を凝視する。
 分厚い扉が開くと、全身薄汚れたアルトが、倒れ込むようにして現れた。
「アルト!」
 毛布を投げ捨て、サーラはすぐにアルトを受け止めた。ぬるい体温だった。切り傷や打ち身がいくつも残り、衣服に焦げた跡もある。
 宝珠を手にして戻って来たのか、という問いは抜け落ちていた。サーラは自分の体温を分け与えるようにアルトを抱きしめ、腕や背中をさすった。
「サーラ……待っててくれたのか?」
 アルトの口調はぼんやりとしている。深くうなずき、サーラは身体を離すと微笑んだ。
「良かった……」
 丸一日離れていただけでも、こうして顔を見ると安心する。アルトも照れくさそうに笑い返した。
「俺も、本物のサーラの顔を見れて、ほっとした」
 本物の、という言葉が引っかかったが、アルトはサーラの肩に頭をもたげ、体重を預けた。
「ごめん。今朝発ってから、一睡もしてないんだ……。どこかで、休ませて欲しい」
 ずるずると床に崩れ落ちそうなアルトをとっさに支えると、サーラは毛布をアルトにもかかるよう被り直し、ニコラスの元へ向かった。



 アルトは青の宝珠を皆に見せると、神殿の客室で沈むようにして眠りについた。大きな外傷はなかったが、顔が青ざめており、横になると心から安堵した表情となった。
 寝顔を寝台のそばで見つめ、モエギとジャックはそっとアルトをねぎらっていた。
 ニコラスは、最初こそ宝珠を手に取って繁々と眺めていたが、すぐに一行の手に返した。一族が代々守ってきた至宝に、みだりに触れるのが恐れ多いのだろう。
 モエギはジャックと共に、一足先に宿へと戻った。サーラはアルトが目覚めるまで神殿に残ることにし、そばで椅子に座り、じっと見守っていた。
 今日は曇りがちで、時折吹く風が神殿を囲む木々をざわめかせる。昨日、夕食時にモエギが聞かせてくれた、宝珠の色ごとに込められた力について思い返す。
 例えば、最初に手に入れた緑の宝珠は、『安穏』とされている。にわかには信じがたいが、故郷テドンの牢屋に閉じ込められていた者が力を引き出した結果、サーラとアルトはあの、現実に限りなく近い幻の一夜を目の当たりにしたのだろうか。
 あの幻は、魔王の手による殺戮で、根こそぎ奪われた命をせめて安らかなものにと、宝珠がもたらしてくれたのかもしれない。
 ジパングの件でも、紫の宝珠が『包容』の力を発揮し、無残に引き裂かれたあの二人の別れを、救いあるものにしてくれた。
 古の時代に、この世に産み落とされた宝珠。その不思議な力故か、今でも決して鈍ることのない鮮やかさを誇っている。
 あと、三つ。全てが揃う時、旅の終末は近い。
 いつしか陽が暮れ、手元が暗くなってきた。部屋の壁かけランプに明かりを灯すと、微かにアルトがうなった。寝台のそばに戻ると、寝ぼけ眼でこちらを見上げる。
「あれ……? 俺、こんな時間まで眠ってたのか……」
「無理もない。腹も空いているだろう? 神官たちに頼んで、何か用意してもらおうか」
 早速ニコラスを呼びに向かおうとすると、アルトの視線が足を止めた。
「どうした……?」
 どこか心細げな眼差しが胸に迫り、踵を返し椅子に座る。アルトは足を床に出し、サーラの両手を掴むと口を開いた。
「俺は……サーラのことになると、時々、自分を見失う程、おかしくなりそうになる」
 ぎょっとした。とっさの言葉が出ず、何とか返す。
「洞窟で、何かあったのか?」
 アルトはうなずき、洞窟の最深部に息づく、謎の存在との対話を打ち明けた。幽遠なる者の忠告、一と全の選択の意味は、サーラも理解出来た。
「あの声が本当のことを予見しているかは分からない。問いかけられた時は、どちらも選ぶ、って言い張った。強がりだけど、俺の本心だった。
 ただ、俺は、このままじゃ駄目だ。そのことを、思い知らされた……」
 握る手が、わずかに震えている。
 アルトも、サーラと同様、むしろそれ以上に、サーラを失うことを恐れている。ひたむきすぎる心を愛しく思うのも事実だが、同時に心配でもあった。
 サーラはアルトの両手を優しく解くと、寝台に膝をついた。アルトの両足の間に収まると、立ち膝のまま、そっと抱きしめる。洞窟から帰ったアルトを迎えた時よりも柔らかく、いたわるように。
「お前が、何を見て、聞いたのかは、はっきりとは分からない。けれど、お前は今こうしている私よりも、先の見えない未来を見つめるのか?」
 触れるごとに、しなやかさを増す身体。ざらざらと硬い髪の感触。今、こうして間近に触れ合っているというのに。
「それでも不安だというのなら、何があっても私はお前のそばにいる。お前が、私を救ってくれたように、お前を悲しませたりはしない」
 サーラこそが、アルトを失っては生きることもままならなくなる。そんな弱さはおくびにも出さず、ただアルトのために、一心に誓う。
 身じろぎし、見つめ合うと、アルトは泣きそうな笑顔を浮かべた。似たような表情でサーラも微笑むと、両肩に手が添えられ、自然と目線が同じ高さとなる。
 想いを通わせた日の記憶が、二人の間に蘇る。言葉にせずとも、真摯な瞳が物語っていた。
 唇が重なる。固く身を寄せ合うと、互いの熱が心地よく行き交う。分かち合う互いのぬくもりに、愛しさが、溢れ出す。
 唇とは別の生温かなものが触れ合い、甘い痺れが全身を伝う。頭の芯がぼうっとなっていく。
 ぎこちなさが次第に薄れ、何度も角度を変え、唇を合わせる。心の中にわだかまっていた、過去がもたらした恐れが、清らかな愛で氷解していくのを感じた。
 そっと合わさっていたものが離れると、アルトは震える吐息を挟んで、サーラの額に自分の額をつけた。
「サーラ……。俺は……」
 鼓動の高鳴りも、焼けつくような焦がれる想いも、今は受け入れられる。頬を染め、続きを待つ。
 瞬間、サーラの背後にある寝台に、重量感のある落下音が響き渡った。あまりにも突然のことに、揃って硬直する。
「……え?」
 間の抜けた声が重なり、夢から覚めたような気分で振り返る。
 もう一つの寝台には、尻もちをついたのか、細い腰をさする法衣を身に着けた女の姿があった。雨露色の長い髪を払い、何やらぶつぶつと口にしている。
「痛たた……。って、何よここ。ったく、本当ならこんなお使い程度のこと、あいつにやらせるってのに……。でも、今回ばかりは仕方ないね」
 勝手に自己完結した女は、機敏な身のこなしで寝台から立ち上がると、ようやくこちらに気付いた。双方、目が点になったまま、しばし向かい合う。
 サマンオサで別れを告げた、鬼嫁こと女僧侶のセラであった。
「……あら。邪魔しちゃったのなら、悪かったね」
 しれっと言い放たれ、サーラとアルトはそさくさと適度な距離を置く。はたから見ると、二人とも溶岩魔人のごとく顔面を煮えたぎらせているだろう。
「あの……。何で、ここに?」
 やっとのことでアルトが尋ねると、分別のある大人らしく、セラは事情を説明した。
「『メイジキメラの翼』っていう、一度会ったことのある人間の元へ転移させてくれる道具を使って来たんだよ。時間帯としては問題ないと思ったんだけど」
 涼しい顔で言うので、一方的に辱めを受けているような錯覚に陥る。故意でなくとも、彼女特有の精神攻撃である。
 だが、続けて発したセラの声は、本来の彼女とは別の厳しさを伴っていた。
「それよか、準備が出来次第、サマンオサに来て欲しいのよ。
 ――アリエルが、渡したいものがあるって」
 水を打ったように、部屋が静まり返る。セラが知らせに来たことで、おのずと一つの結果を悟る。
 いつしか、霧雨の降る音が、神殿の外を包んでいた。