唯一の責任 11



 翌朝、サーラはアルトと連れ立ってアリエルの元に向かった。入れ替わりで、モエギとジャック、クラリスが夫婦を見舞いに訪れたので、セラたちも退屈はしないだろう。
 シスターに借りた麻のワンピースを着て、アルトと城下町を歩く。アルトは兵士や一般民とも顔馴染みになったようで、「よっ! アルトのだんな!」「今日は恋人連れかい?」と口々に声をかけられ、はにかんでいる。
 サーラにも視線が寄せられるが、大体の者がぼうっと見つめるのみだ。何となく居心地の悪さを覚えると、アルトは気にしなくていい、と笑い飛ばしてくれた。
 陽光を受け、精悍な顔つきは一層頼もしくなったように映る。だが、サーラはまだ、あの晩アルトがどのようにしてボストロールを倒したのか、聞いていなかった。
 兵士たちが散らばる大通りを真っすぐ進み、商品の入れ替えで雑多な商店街を抜けると、城下町の南東の一角に広々とした庭付きの邸宅が見えた。
 教会の半分程の敷地は、しばらくの間無人だったためか手入れが行き届いていない。庭師らしきひげをたくわえた男性が、枯草をくわで退けている所だった。庭師はアルトに気付くと、折り目正しく一礼し、玄関へと案内してくれた。
 青を基調とした王城に対し、サイモンの邸宅は紅葉色の屋根に漆喰の白壁をしている。おそらく、代々住まう家なのだろう。所々修復した箇所が見受けられた。
 扉を叩くと、アリエルはすぐに出迎えてくれた。今日は空色のワンピースを纏っており、彼女の清らかさをよく引き立てている。
 中に通されると、正面を立派な階段が占め、南窓から陽射しが溢れていた。くすんだ欄干に手をかけ、二階に上り応接室に向かう。
 部屋の脇には、アリエルと同じ年頃の青年が、緊張した面持ちで立っていた。アルトは彼を知っているようだが、特に友好的な態度は取らず、軽く会釈を交わす。サーラも、彼の正体を悟った。
「お前が……シゲルか」
 サーラが目覚める前に、彼は教会を去り家に戻ったと聞いていた。実際に顔を合わせると、反射的にルイーダを斬った者だという認識が強まり、声が強張る。張りつめた空気をかき消すように、アリエルが間に割って入った。
「シゲルには、わたしが一緒に会って欲しいって言ったの! シゲルも、もう十分反省しているから……」
 シゲルは目を合わせようとせず、口をつぐんでいる。この青年以上に許し難い相手はいくらでもいるが、彼が犯した罪はなくなった訳ではない。サーラはぐっと言葉を飲み込んだ。
 応接室は古い木の匂いが染み付いており、アリエルは慌てて掃除したんだけど、と急いで窓を開けた。外は裏庭なのだろうが、手付かずのまま枯草に覆われている。
 サーラとアルトが一人がけのソファに座り、アリエルとシゲルも向かい側に落ち着く。彼女らの背後には、上部が書物で埋め尽くされた棚が隙間なく並び、入口側の棚だけ上部がない。代わりに、えんじ色の艶のある布で包まれた額が立てかけられていた。聞くと、昨日神父に断って持ってきたのだという。
「それでは……今日は朝早くから来てくれて、ありがとうございます。こうして、あなたたちに無事話が出来ることを、有り難く思います」
「そんなに、かしこまらなくていいよ」
 口では言ったものの、アルトの笑顔はぎこちない。アリエルもうなずくが、何と切り出せば良いのか、言葉を選んでいるようだ。サーラとしては、それより憮然としたまま同席しているシゲルが気にかかった。
「シゲル。お前は、ずっと黙ってそこに座っているつもりなのか?」
 アリエルに咎められるが、サーラはそのまま続けた。
「私もアルトも、お前の気持ちは分からなくもない。だが、こうしてルイーダさんや酒場の者を傷付けた張本人と平気で膝を突き合わせていられる程、私たちはお人好しではないぞ」
 シゲルは暗い瞳で、口元を結んだままだ。アリエルが弁護するより早く、アルトも問いかける。
「君は、多分誰かに『黒い宝珠』というのを渡されたんだろ? 良ければ、まずそのことを教えてくれないか」
 青年はアルトを一睨みすると、何で、と薄い唇を動かした。
「何で、そんなこと教えなきゃいけないんだよ」
「シゲル! どうしてアルトにそんな口利くの?」
 アリエルの叱責を受けても、シゲルは取り繕いもせずアルトを睨んだままだ。アルトは目をそらすことなく答える。
「俺たちの仲間が、君と同じものの被害者になっているんだ。それに、あの晩焼け死んだ大臣の亡骸からも、凍えるような黒い色をした珠が出てきたのを見た。俺たちは、それが何なのか少しでも知りたいだけだ」
 真剣なアルトの眼差しを受け、アリエルにも諭されたシゲルは、闇の中に閉じ込められていた記憶を、少しずつ語り始めた。
「……アリエルを守るため、大臣に従うことになった時、おれはあいつから黒い珠を埋め込まれた。初めて目にした時、ただの珠なのに、本能的に怖い、と思った」
 シゲルは得体の知れない珠を拒否したが、無理矢理体内に入れられたという。触れ合った所から、溶け込むように。
「あれが、おれの中に入っている時の記憶は、途切れ途切れにあった。どこから湧いたのか、おれの身体を物騒な鎧が包んで、ぬらぬらとした剣を握っていた。言われるがまま、第一兵隊長に任命されて、偽の国王に刃向かう奴を捕らえては牢屋にぶち込んだ」
 常に疑問がつきまとった。何故、こんなことをする羽目になったのだろう。それはしだいに、義父と、アリエルへの憎しみへと変貌を遂げていった。
「そんな時、アリエルがアリアハンで匿われている、連れ戻せと命令があった。あの酒場で、アリエルが飛び出してきて衝突した時は、一瞬だけおれを蝕んでいたものが薄れた。けど、すぐに戻って……あの女主人を斬ってしまった」
 シゲルはどこか、自身を傍観している意識も持っていたという。それはおそらく、侵されずに残っていた元のシゲルの心だと、クラリスが教えてくれたらしい。彼の告白には、涙が混ざり始めていた。
「おれは、沢山の人を傷付けて、自分を助けようとしてくれた人間すらいたぶって……。あのクラリスって奴は、それでも赤の他人のおれを、真っ黒な闇から解放してくれた。だけど、おれは……親父やアリエルを守るための力が欲しかった。あいつはそれに気付いて、おれを利用しやがったんだ……」
 震えるシゲルの肩を、アリエルがそっと包む。だが、シゲルはアリエルの手を押し退け、サーラとアルトを見据えた。瞳には涙が盛り上がっている。
「許して欲しいとは言わない。だけど、目が覚めて、自分のしたことを考えると、怖くてたまらなかった。あんたたちに、合わせる顔がなかった……」
 振り絞るような懺悔の言葉は、かつての恋人の死に際を思い起こさせた。シゲルはあの男とは違うというのに、何故か似通ったものを感じたのだ。
 うなだれるシゲルを、アルトは黙って見つめていたが、ふいに立ち上がるとシゲルの胸元に掴みかかった。
「アルト! やめてっ!」
 アリエルが止めるも、アルトはシゲルに顔を近付け、思いを吐き出す。
「お前が辛かった気持ちは、少しなら分かる。だけど、目を背けたら駄目だ。それに、お前が本当に謝るべき人は俺たちじゃない。そうだろ?」
 アルトは手を放し、サーラを見やる。ルイーダの顔を浮かべながら、サーラも傷心の青年に語りかけた。
「ルイーダさんは、お前の気持ちを分かってくれる。辛いだろうが、いつか会いに行って欲しい。その方が、お前にも、アリエルのためにもなるのではないか?」
 シゲルは声を詰まらせ、一度だけ深くうなずくと、部屋の外に出ていった。すぐさまアリエルが後を追うが、程なくして一人で戻って来た。シゲルが、自分に構わず例の話をするよう言ってくれたらしい。アリエルは気丈に振る舞い、代わって感謝を述べた。
 シゲルは、まだ若い。現実から逃げずに、己の過ちを受け入れ、いつか乗り越えられる。そう信じてやりたい。
 話は本題に入ることとなり、アリエルはまず、普遍的な精霊神ルビスの伝承について、語った。



 かつて、精霊たちの楽園が危機に陥った時、それを救うため神となったのが、炎を司る精霊でもあったルビスだった。
 精霊神となったルビスは、結局楽園の崩壊を止められず、その欠片を集めて新たな世界を創造した。
 その際、彼女を慕うエルフの一族から一人の姫君と、その中で最も美しい娘を選び、力を分け与えた。姫君はルビスの眷族の長として、彼女の代行者となった。娘はルビスを守護する戦乙女の頭となり、彼女たちの剣さばきは舞うように美しいと称賛された。
 そこでサーラは、ルビスに仕える戦乙女だったという母レイラのことと、数日前に見た、母の記憶と思われる夢について話してみた。
「母は、テドンの森で目覚めた時、一振りの剣を手にしていた。また、夢ではルビスの身代わりになれなかったと、詫びていた。伝承で語られている以外に、推測出来ることはないか?」
 アリエルは、サーラが所持していた細身の剣を思い出したのだろう。慎重に言葉を並べた。
「戦乙女の頭は、植物の装飾がついた剣を持っている姿が描かれているのを見たことがあるわ。サーラさんのお母様が、どこから来たのかは分からないけれど……きっと、命に代えてもルビス様をお守りする、特別な戦乙女だったんだと思います」
「私は、母とそっくりだと、亡き義父が言っていた。その私が、そこにある肖像画と瓜二つだと、セラに言われたのだ。見せてくれないか」
 ようやく肖像画の必要性を理解したアルトも、固唾を飲んで待ちわびる。アリエルは、自身の半分程ある肖像画の布を厳かに取り払った。
 途端、アルトは大きく目を見開き、射抜かれたように硬直した。サーラも、まるで合わせ鏡を見せられたような錯覚に陥る。
 写実的に描かれた、肖像画の女性は、まぶしそうにルビーの瞳を細め、ほんのりと頬を染めて微笑んでいる。色白ながらも血色の良い肌を、純白のローブが引き立て、髪は鮮やかに燃える真紅の巻き毛である。
 まるで絵の中で生きているかのような力強い表情と、髪の色を除けば、サーラを描いたと言われても誰も疑わないだろう。
 もし、ルビスの偶像が世界に置かれていたとしたら、母は、サーラは今頃どうなっていただろう。ごく一部の者しか知ることのないルビスの姿は、知られてはいけない理由でもあるのだろうか?
 また、母も、ルビスと同じ容姿をしていたのなら、夢で耳にした身代わりというのも、母にもたらされた特別な務めだったのだろうか。
 はやる鼓動を落ち着かせようと、胸に手を当て、ふとアルトを見やる。
 青年の横顔は、もう二度と会うことのない人間と再会した時の驚愕と、胸の奥底から湧き出るような、こんこんとした思慕が、入り乱れていた。
「アルト……?」
 怖々と呼ぶと、アルトは弾かれたように身震いし、頭を抱えた。じっと見守っていたアリエルは、丁寧に布をかけると元の場所に肖像画を戻した。
「わたしも、サーラさんを初めて見た時、生き写しかと思った。だけど、あなたはわたしたちと同じように泣いて笑うし、人のために落ち込んだり、怒ってくれる……」
「なら、何だというのだ? こんなの、何か特別な意味なしに、有り得ることではないだろう!?」
 贋作が、本物を見せられたようなものだ。取り乱すサーラをなだめたのは、アルトだった。
「ごめん、サーラ……。あの絵の中の人と、サーラは違う。何故だろう……あの絵の人がルビスなんだとしたら、俺はどうして、こんなに懐かしくて、胸が苦しいんだ……」
 アルトは胸元を押さえ、いつになく苦しそうに、息をついている。アリエルもまた、痛みをこらえるような表情を浮かべていた。
「わたしも、父さんに初めてこの絵を見せられた時、どうしようもなく切なくて、涙が止まらなかった。父さんも、母さんを見つめるのと違って、まるで……昔の恋人を見つめているような顔をしていたの」
 サーラはそっとアルトの背中を撫で、少女に問う。
「アルトやお前がこんな風になるのは、お前たちが元々、同じ一族だったということに関係があるのか?」
 アリエルは無言でうなずき、今度は全く耳にしたことのない伝承を語った。



 精霊たちの楽園には、精霊と人間の血を同時に宿す、一人の青年がいた。
 彼は楽園に波紋を広げ、彼が持っていた黒の宝珠がある者に降りかかった。黒の宝珠に取り込まれたその者は、魔王となった。
 楽園が崩壊する時、地上へと降りていった青年と魔王は、光と闇の存在となり、後の世で常に相反する定めとなった――
「……その青年は、大地の女神の息子とされているの。わたしと、アルトは、その末裔なのよ」
 アルトは、しばらく何の反応も出来ず、自身の中で逡巡しているようだった。サーラも、にわかには信じ難く、さらに説明を求める。
「大地の女神の進言で、わたしたちの祖先は血を途絶えさせないため、二つに分かれた。一方は、大地の女神から賜りし、三つの神器を守るため、この地に根ざす『守護者』。もう一方は、世界を渡り歩く『放浪者』……」
 どちらがどちらなのかは、サーラにも予想がついた。アルトも理解はしたようだが、納得は出来ていない。
「……そんなの、母さんや、爺ちゃんは一度も話してくれなかった。爺ちゃんだって、父さんの父親なら、そのことぐらい分かってたはずなのに」
「それは、放浪者の一族の方が、先祖の血を濃く受け継いでいるからよ。だからこそ、あなたやオルテガ様、おじい様は自分の血脈を知らずの内に封じ、生きてきた……。知っているはずがないのよ。だけど、その血脈が必要とされた時、そのことをあなたたちに教えるため、代々血脈の歴史を守ってきたのが、わたしや父さんだったの」
 また、血を分けた時から、二つの一族は一世代に一人しか生まれなくなったという。アルトは、自身の手をじっと見つめた。
「あの時……あいつを倒した、ライデインの力も、君にはなくて、俺や父さんしか使えないってことなのか?」
「そうよ。わたしや父さんはその名を知っていても、発動させるための力はない」
 ボストロールを倒した経緯が、ようやく分かった。しかし、アリエルやアルトの血脈をたどると、疑問が湧く。
「ならば、何故お前はルビス信仰に傾倒しているのだ? 本来崇めるべきなのは、大地の女神ではないのか?」
 すると、アリエルは布をかけた肖像画をちらと見て、目を伏せた。
「それは……はっきりとは、分からないの。だけど、この国は元々信仰の厚い土地でもあるし、わたしが思うに……先祖はおそらく、ルビス様と特別な関係にあったのだと思います」
 サーラの胸に、ある不安がよぎった。
 アルトは、古からの血脈故に、ルビスと酷似した自分を愛するようになったのか?
 まだ年若いアリエルには、聞くこともためらわれる。アルトに真偽を尋ねようとしたが、それもみっともない気がして、サーラは胸を覆うもやに耐えた。アルトが心配そうに見つめるが、サーラは何でもない、と首を振ってみせる。
「……そうすると、俺は生まれた時から、バラモスと戦う宿命だったってことだ。だけど、俺はたとえ宿命でなくても、奴らを許せない理由がある――」
 そこで、アルトは唐突に言葉を切り、目を見開く。
「アルト、どうした……?」
 微動だにしないアルトに、サーラが触れようとすると、彼はゆらりと立ち上がった。何かを、確信したかのように、双眸は遥か遠くを見据えている。
 アルトは部屋を飛び出した。ここにはないものを追うように。
「アルト!」
 サーラとアリエルが同時に叫ぶが、古い邸宅を打ち鳴らす足音は急速に遠のいていく。
「一体、何だっていうんだ……。私は、ルビスとは違うのに……」
 廊下に出た所で、壁に手をつき、しおれた花のように首を垂れる。アリエルが寄り添い、即座に否定した。
「サーラさん、アルトはあなたとルビス様を混同したりなんかしない。少なくとも、わたしが見た限りでは、アルトはあなたのことをずっと優しく見守っていた。それに、わたしたち一族がルビス様に抱く想いは、もっと、悲しい……」
 向き直ると、少女までもが泣き出しそうに顔を歪めている。サーラはすまない、と詫び、きゃしゃな肩を抱いてやった。
「色々、話してくれてありがとう。私はアルトを追うから、お前はシゲルの元に……」
 アリエルは、肩に置かれたサーラの手に自身の手を重ねた。小さく、ふっくらした手のひらは、温まった土のぬくもりを感じさせた。
「サーラさん……。どうか、これからも、アルトの力になってください。わたしも、父さんを助けるために、サマンオサのために、頑張るから」
 決意を胸に、毅然と前を見つめ誓うアリエルが、いつかのアルトの姿とだぶって見えた。
 もう二度と、過ちを犯させたりしないと、確かな光を携えた瞳。その輝きを、そばで守るのが、自分の使命――
 サーラは澄んだ瞳に、静かに微笑みかけた。



 あいつだ。あいつだったのか。
 命を弄び、心を狂わせ、森を焼き尽くしたのは――
 希望が芽生え始めた町並みを顧みることなく駆け抜け、教会に突き当たった所でジャックとモエギの姿が見えた。
「おう、アルト。血相変えてどした……」
 顔も見ずに走り去る。二人の呼び止める声を背に、正門を目指す。
 あの、水晶の声の主が何者なのかは分からない。ただ言えることは、奴がルビスとその眷族、ひいてはサーラとその母に異様な執着心があること。そのためにテドンを滅ぼし、サーラの元恋人をけしかけ、黒い宝珠で人間同士のいさかいを引き起こしたということだ。
 門番の兵士たちが、猛然と向かってくるアルトを何事かと凝視するが、一瞬のうちに後方へ切れていく。山の麓までがむしゃらに走っていくと、岩にけつまずいて派手に身体を投げ打つ。
 うつぶせに倒れたまま、アルトは息を荒げ、勢い任せに地面を殴りつけた。拳が切れ、泥と血にまみれても、アルトは繰り返し土に拳を打ち付けた。
 やがて疲れ果て、仰向けになると、視界いっぱいにのどかな淡い空が広がる。
 あの晩のように、いっそ雨雲が世界中を覆ってしまえば、この力一つで奴に怒りの鉄槌を落としてやるのに。
「くそったれが……」
 毒づいて、視界を閉ざす。らしくない言葉が出たが、心の中でかぶりを振る。
 もう、ためらわない。後悔もしない。情けをかけるに値しない輩は、全てこの手で滅ぼす。
 血を握りしめるアルトの火照った身体を、サマンオサの大地は何も言わずにただ、抱いていた。
 頬をかすめる風が、ほんのわずかに、青臭さを漂わせていく。風に乗って、よく馴染みのある気配がした。
「全力疾走、完全無視からの日なたぼっこか。それにしちゃ、随分と穏やかじゃないね、アルト君」
 気だるい気分で目を開けると、普段着のジャックが傍らで膝をつき、血まみれの右手を診てくれた。ホイミの詠唱で、怒りに染まった手のひらが徐々に癒えてくる。アルトは黙ったまま、汚れが消えていくのを眺めていた。
 治療が終わると、ジャックもよっこらしょ、と年寄りくさいかけ声を上げて隣に寝そべる。両手を組んで枕にし、同じようにして空を見上げていると、荒々しいだけの怒りは引いていった。
「いや〜、男二人でこんな所でほげーっとしてたらさ、門番の奴ら怪しんでるだろうな。オレは気にしないけど」
 何も聞かず、他愛のない会話をしてくれるジャックの存在に心なしか安堵して、アルトは自然とつぶやいた。
「……許せない奴がいるんだ」
 今すぐに、葬り去ってやりたい。ただ、殺してやりたいとさえ、思う。そう話すと、ジャックは上半身を起こし、身体をひねってこちらを見下ろした。
「割と真面目、生真面目、クソ真面目。お前はどうしようもないクソ真面目だから、本気すぎてこえーよ」
 最上級の真面目に位置付けられ、アルトも起き上がりすさんだ表情でジャックを見る。彼はおどけてみせた。
「何つう顔してんだよ」
 笑っているが、目は明らかにアルトを心配していた。
 膝を立て、抱くとその中に顔をうずめる。自分でも、ひどい顔をしていると分かっている。
「……俺は、アリエルとは違う。彼女は、どんな苦しみ、悲しみに追いやられても、自分の信じるものを静かに見据えている。それに対して、俺は大切なものを傷付けられたら、怒りで我を忘れてしまうんだ」
 傷付けた者には、どんな制裁も厭わない。だが、あの晩ジャックが言った通り、気持ちだけで仇敵は倒せない。
 ジャックはうーん、と天を仰ぐ素振りをする。顔を上げると、返答があった。
「それは、人それぞれなんじゃねえの。アリエルちゃんは、むしろ意識的に冷静でいることで、自我を保っているような気がするけどね。ほら、親父さんはまだ助けた訳じゃないんだしよ」
 アルトは目を見張った。ジャックの洞察力には、時々目の覚めるような思いがする。それに、とジャックは人差し指を立てた。
「オレは、お前はちゃんと怒る時に怒れるようになったと思うよ。ただね、怒るタイミングを見極めなさい。いっつもブチギレてっと、サーラさんに嫌われちまうぞ?」
 ニヤリと笑うジャック。彼はいつもの調子で、見事に核心を突いてしまった。返す言葉もない。
 怒りの感情に囚われたアルトを見て、サーラが喜ぶはずがない。それがたとえ、サーラの故郷を滅ぼした者への、憎悪の表れだとしても。
 今頃、サーラもアルトを案じて後を追ってきているだろう。立ち上がり、ジャックに向かって微笑む。肝に銘じておく、と目で告げて。戦友は満足そうに笑みを返し、互いに泥をはらうと城下町へ戻ることにした。
 宿屋の手前で、サーラと並んで待ち構えていたモエギは、瞬く間にアルトたちを取り囲むと角を立てた。
「もう、二人して何やってたのよ! アルト君まで、サーラを心配させるんじゃないの!」
 姉のように説教され、アルトは小さくなるばかりだった。サーラと向かい合い、ごめん、と頭を下げる。眉尻を下げ、こちらを見つめるサーラの瞳は、肖像画のルビスと比べるにはあまりにも、儚げだった。
 愛する人には、来るべき時まで奴のことを告げないでおこう。こんな思いに苛まれるのは、自分だけでいい。
「今まで知らなかったことが一気に分かって、混乱したんだ。ジャックとモエギにも話すから、聞いてくれないか」
 全てを語ることは出来ない。だが、旅支度をしながら、ゆっくり話そう。父の大剣は鍛え直しているし、まだ発つには時間がかかる。
 それから、サーラと二人きりの時間を作って、ちゃんと伝えたい。この血がざわめくのは、遥か昔の感傷。自分が最も守りたいのは、今目の前にいる、愛しい人だけなのだと。
 神父に呼ばれ、教会に戻る仲間の後ろで、アルトはサーラのなめらかな手をそっと握った。



 客人が去り、がらんとした生家を歩き回る。
 さっきまでは自分の部屋にいたはずが、シゲルの姿はない。庭師に尋ねても、見かけていないと首を横に振られた。
 人との接触を避けているシゲルが、町の方に出ていったとは思えない。残すところは、荒れ放題の裏庭だけだ。
 陽射しに照らされた台所を抜け、裏庭に続く勝手口に手をかける。案の定、鍵がかかっているはずの扉が開いた。
 扉を開けると、町の外壁と二重になって邸宅を囲む白い柵が見え、土に重なって枯草が無造作に倒れている。シゲルは左の隅で、壁にもたれていた。
「シゲル……」
 枯草を踏みしめ、歩み寄る。本当はシゲルが部屋を出ていった時、ずっとそばについていたかったのだが、本人がアルトたちの元に戻るよう気を遣ってくれたのだ。
 シゲルが教会で目を覚ました時、邪気がはっきりと消え失せたのを感じ取った。だが、シゲルは己の過ち故に心を閉ざしてしまった。クラリスにはかろうじて礼を述べていたが、この家に帰って来てからは、庭師や時々手伝いに来る父の馴染みの者ともろくに話そうとしない。ただ、奉仕労働をする囚人のように、黙々と家の掃除をしていた。
 一方、アリエルは教会の難民たちの世話や、家に残っていた品物を城や民に提供したりと、様々な対応に追われていた。そのため、シゲルとも改まって話せずにいたのだ。
 シゲルの過ちには、アリエルに対するものも含まれているのだろう。話しかけると返事はしてくれるが、自らアリエルに声をかけることは、ほとんどなかった。
 アリエルはシゲルの隣に並び、前庭の八分の一程しかない裏庭を見渡す。昔はここで野菜を育てたり、こっそり花の種を植えたものだ。
 ふと、あの花が咲く頃だ、と思い出す。アリエルは柵の下にしゃがみ込み、枯草をかき分けた。
「あ……」
 手を止めた中に、橙がかった黄色の花が、ひっそりと咲いている。シゲルを呼ぶと、彼は同じようにして膝を曲げ、花に目を留めた。
「覚えてる? この花、ちゃんとした名前があるんだけど、わたしはシゲルの花って言ってきかなかった。だから父さんも、わたしがこの花を見せると、今年もまたシゲルが咲いたって、言ってくれたよね……」
 その父は、理不尽な仕打ちにより、花も愛でることすらかなわない場所に隔てられた。
 父に、この花を見せたい。早く、今年も咲いてくれたのだと、子供の頃にかえったように伝えたい。
 刺すような痛みを抱えていると、視線の端で、きらめくものがよぎった。
 シゲルは、声もなく両頬を濡らしていた。花と同じ、陽を浴びた色の瞳を震わせて。
 アリエルは服が汚れるのもお構いなしに、シゲルに抱きついた。互いの熱く溢れる涙が、染み渡っていく。
 シゲルが最後に家を出た時は、アリエルが泣きじゃくった。城の一室では、こぼれ落ちるシゲルの涙を、拭うことも出来なかった。
 だけど今は、こうして悲しみを分かち合える。この国も、アリエルたち自身も、大きく変わってしまったけれど。
 アリエルの腕の中で、シゲルは想いを吐露した。
「おれと、お前はずっと、兄妹として育ったけれど、おれは一度も、お前を妹だなんて思わなかった」
 それは単に血のつながりがないからでも、シゲルに本当の妹がいたからでもない。言葉にせずとも、体温が物語っている。
「だけど、その気持ちが、闇につけ込まれた。お前を失うことが怖かった。おれじゃなくて、アルトを頼ろうとしているのが悔しかった。だから、力ずくでも繋ぎ止めようとした。それは、本当のおれが、そうさせたんだ……」
 黒い宝珠がもたらすおおよその影響は、アルトから聞いていた。全ては、愛情、善意の裏返し。ただ、シゲルの場合は、本当の心が強く働きかけた部分もあったという。
 アリエルは幼子をあやすように、自分より一回り大きなシゲルの身体をさすった。持て余していた蕾が、心の中で花開いていく。
 愛しさに気付くのは、春の訪れに、よく似ている。
「シゲル。もう大丈夫だよ。たとえ、誰が何と言おうと、本当に悪いのはシゲルじゃないって、わたしが何度でも言ってやるの」
 アリエルはシゲルの頬を拭い、こぼれんばかりの笑みを向けた。
「わたしたち、もう兄妹はやめよう。だけど、父さんは父さんしかいない。一緒に、わたしたちの父さんを、迎えに行こう?」
 泣き濡れても尚、健気に笑う花を、シゲルは自らの手で抱きしめた。何度もうなずき、想いは唇に乗って届く。
「アリエル……好きだ。出会った時から、ずっと」
 胸に満ち溢れる想いごと抱き、アリエルは温かな涙が新たにこみ上げるのを感じた。
「わたしも、大好きだよ。シゲル」
 シゲルに抱く想いは、微塵も悲しくない。ただ、喜びが二人を包んでくれる。
 心の中で、父に呼びかける。必ず、迎えに行く。そうしたら沢山話そう。サマンオサのこと、アルトのこと、アリアハンのこと。それと、シゲルとの、これからのこと。
 最後に、父が肌身離さず携えていた、一振りの剣を思い出す。鏡と、杖と共に、大地の女神から賜ったあの剣を、アルトに渡さねばならない。剣はおそらく、父と共にある。
 生ぬるい頬を撫でるのは、待ちわびていた薫風の便りだった。