唯一の責任 10



 宙を、舞っていた。
 背に翼がある訳でもなく、生身のまま、どこかへ弾かれていく。
 空を突き抜け、地層をさかのぼり、自らの意思などまるで無視するように、身体はどんどん争いの渦から、在るべき場所から遠ざけられる。
 やがて、もう一つの空が身体をまばゆく包み込んだ。闇に閉ざされた空ではない。太陽の光が大地を浮かび上がらせ、見守る世界。
 高く舞い上がった身体は、今度は急降下し、深い森の中に落ちていく。覆い茂る木々を鳴らしながら、陽だまりの中に投げ出される。途端、どこから来たのか、どこへ戻らねばならないのか、頭からすっぽり抜け落ちてしまった。握っている一振りの剣は、何も答えない。
 だが、薄紅色の唇は主の名を、自然と口にしていた。
 ルビス様、申し訳ございません。私が、身代わりになれなかったばかりに――



「サーラ!」
 呼ばれるがまま、サーラはぼんやりとまぶたを持ち上げようとしたが、泣き腫らしたように貼り付いている。胸のあたりから腹部にかけて、呼吸をすると不協和音がもたらされる。
 上手く空気を取り込めず、じっと顔をしかめていると、傍らで声がした。
「動かないで。あの時、ボストロールに何本か肋骨を折られているんだ。助けられなくて、ごめん」
 どうにかして、まぶたをこじ開ける。薄汚れた天井からして、どうやら、教会の一室らしい。窓の外は夕闇が迫り、空を茜色に染め上げている。
 サーラは首をもたげ、沈痛な面持ちの青年をじっと見つめた。
「……あいつは?」
「もう、大丈夫。俺が、倒したから」
 淡々と語る褐色の瞳は、サーラが意識を失う前よりもずっと、深く澄んでいるような気がした。乾いた唇を動かす。
「アルト。やったのだな、私たちは……」
 アルトが力強くうなずくと、サーラは安堵のため息を漏らし、再びまどろみの中に身を投じた。
 モエギやジャックは無事なのか、セラとケインは帰って来たのか、アリエルは……聞きたいことが山程あるというのに、舌がだるく、全く働かない。
 先程の夢は、続きを見ることはなかった。



 サマンオサの王城に、一筋の青雷が閃光を放ったのを見た者がいた。
 一人は、教会の神父。もう一人は、上階のただならぬ気配を察し、いち早く目覚めた地下牢の守衛だった。
 守衛は城中の者を叩き起こし、すぐさま城内の火を消し止めにかかった。神父はシスターと一般民を連れ、王城まで駆け付けると、傷付き深手を負ったアルトたちを教会へと運び込んだ。
 アルトは仲間たちが診察と手当てを受け、命に別状がないと言われてから、倒れるようにして眠りについた。空が白み始めるのと同時だっただろうか。
 目を覚ますと、アルトはまずサマンオサ国王に全てを報告した。偽王の正体、大臣の最期、その中から現れた黒い宝珠の呪いと、水晶を通して語りかけてきた黒幕の存在。国王は人間の弱みにつけ込む魔王の配下に憤りを漂わせながらも、尚も大臣を慮ってやれなかったことを悔いていた。
 幽閉されて久しい身体ではすぐに指揮を取ることは出来ず、国王は民や城の者たちの対応をアルトとアリエルに一任すると託した。
 続けて、休息を取っていたアリエルと共に、難民たちにも事の顛末を説明した。神父の熱弁と、傷付いたサーラたちを礼拝堂から運んだこともあり、民の何人からか怪我人の世話をしたいと申し出があった。国王とアリエルをなじったことを詫びる者も多数現れ、アリエルは民と涙を分かち合っていた。
 数日の間に、軽傷で済んだモエギや、クラリスも立ち回れるようになり、治療は一気にはかどった。その間シゲルも目を覚ましたが、彼は思い詰めた様子で、民には顔を見せず、ひっそりとサイモンの家へ戻っていった。シゲルがまともに口を利いたのはアリエルだけだったが、彼女に促され、クラリスとはいくらか言葉を交わしていたようだ。
 地下牢の守衛を始め、城の兵士たちも国王を訪ねてきた。賢王に仕える身でありながら、国と民を顧みることが出来なかった不甲斐なさを悔やみ、揃って床に頭をつける部下たちを、国王は決して責めなかった。むしろ、責任は全て自身にあると言い切る国王の苦悩を、兵士たちは肩代わりさせて欲しいと懇願する程だった。
 アルトも守衛と話したのだが、地下牢から全ての囚人を解き放ったと聞いた。囚人の何人かもアルトを訪ね、各々の形で感謝を表してくれた。
 そうしている間に、重傷だったジャックの意識が戻ると、真っ先にモエギが泣き付いていた。アルトとしては黒の宝珠や、デラルドと名乗った黒幕について話したかったのだが、クラリスやアリエルも入れ替わり立ち代わりジャックと話していたので、他の所用で立ち回ることにした。
 神父に労われ、一息ついていた時に、ようやくサーラが目を覚ました。出血が多く、最も重体だったサーラは意識がもうろうとしていたが、サマンオサにはびこっていた闇が去ったことに安堵すると、再び眠りに落ちていった。
 自分のせいで、サーラを危険に晒したことも気がかりだったが、それ以上に偽王やデラルドが残した言葉が引っかかっていた。
 奴らは、サーラの存在を知っていたのだろうか? それだけではない、デラルドは精霊神ルビスに異様な執着心を漂わせていた。また、ルビスの眷族というのは何をさすのだろうか。
 サーラの穏やかな寝息を聞きながら、アルトは一人、考えを巡らせていた。
 彼女が最も心配していたセラとケインは、一向に戻る気配を見せなかった。



 サーラが何とか寝食をまともに出来るようになったのは、サマンオサの地を踏んで五日目の頃だった。
 アリエルはシゲルが心配だと生家に戻り、教会には日中のみ顔を出す程度になった。難民の対応や荒れた家の片付けで手一杯らしく、アルトにはまだ例の話をしていないようだ。
 国王も個室に移り、時折兵士が訪れ指示を出すまでには回復しているという。兵士たちは総出で、城と城下町の修復にあたっているらしい。
 大人数用の客室は、すっかりサーラたちの居所となっている。城に蓄えられていた食糧が教会にも提供され、今はシスターや有志の民が作った昼食を各々の寝台や椅子で摂る時間だった。
 今日の食事は、豆の塩粥、芋のサラダ、保存食の堅焼きパンだ。質素ではあるが、療養中もしくは病み上がりの者ばかりなので、皆じっくりと味わっている。
「ああ、美味しい。何だか、ダーマの食事を思い出すわ」
 精神的な消耗が著しかったのみで、回復が早かったクラリスは、率先して皆の治療やダーマへのさらなる援助要請に奔走している。クラリスが座る寝台の向かい側で、ジャックは自分の寝台に足を投げ出しうんうんとうなずく。粥を口にすると、何かを思い出したのか渋い顔をした。
「あそこのは、ホントジジイが食うような飯ばっかだからな。つーか、まだ顔痛えんだけど……。くっそ、オレの美貌に嫉妬して鬼面道士に仕立てようとしたんだな」
 恨み節にいつもの軽口を挟むジャック。斜め向かいの椅子に座るアルトが苦笑を漏らす。
 ジャックはアルトたちを逃がした後、精神支配を受けた兵士に捕らえられ、二人の居場所を詰問されたという。そこで黙秘を貫いた結果、居場所を吐くまで殴られ続け、気を失ったのだ。おびただしい数の裂傷や内出血はクラリスによって治癒されたが、モエギは痛々しい傷の数々が脳裏にちらついたのだろう、ジャックの右隣で眉尻を下げた。
「あんなに殴られてたら、笑えないよ。ホント、心配したんだから」
 ジャックも、助け起こされた時の記憶が蘇ったのか、ばつが悪そうに伸びかけの髪を掻いた。
「いやあ、あの時ばかりはお化けキノコが天使に見えたわ」
「お化けキノコって、あたしのこと!? じゃあ、あんたは毒イモムシだからね!」
 二人のかけ合いに、客室がどっと沸く。こんな憎まれ口の叩き合いが出来ることすら、幸せである証拠なのだ。
 サーラはふと、さらに強烈なやり取りを交わす二人を思い出し、食事の手を止めた。
 彼らの捜索願を、サーラが伏せっている間にアルトが出してくれたという。兵士団が南の山に派遣されたのを聞いてはいたが、不安は根強く残る。
 アルトが気遣わしげな視線を向けるのが横目に見え、取り繕い別の話題を口にした。
「ところで、クラリス。シゲルはやはり、黒い宝珠に蝕まれていたのか?」
 話の矛先を向けられ、クラリスは表情を引き締めた。
「そうみたい。私も、あの人も目覚めてから一言二言しか話していないから、経緯は教えてくれなかったけど……。色んな人に顔向けが出来ないって、アリエル以外に心を閉ざしてしまったみたい」
 やはり、元はサイモンに育てられただけあって、根は真面目なのだろう。それ故、黒い宝珠に感化され正反対の傍若無人な振る舞いをしたのだ。モエギも同じ犠牲者として心配なのだろう、声の調子を落とした。
「あの子……かわいそうだよ。結局は同士討ちに利用されただけでしょ? それでも、自分のしたことを許せないんだろうけど……」
「おいおい、お前まで余計に落ち込むなっての。そういや、クラリスお前確か、あいつの心が見えたって言ってたよな? オレの時は何にも見えなかったんだけどよ、もしかしたら破邪の術はお前の方が才能あるかもしれねえな」
 明るい調子で木のスプーンを翻すジャックに、クラリスは素直に喜べないのかまつ毛を伏せた。
「そうかしら……。私が言えるのは、あの人を救えるのは結局、アリエルだってことだけよ。あんなにも、互いを想えるのが、私はうらやましい」
 ジャックは片眉を上げ、モエギも複雑な面持ちになる。サーラはいたいけな賢者の娘に、優しく声をかけた。
「クラリス。あの二人を再びつなぎ合わせたのは、紛れもない貴女だろう?」
「そうだよ。俺も、余計な心配してごめんな。アリエルも言ってたよ、落ち着いたらクラリスにお礼を言いたいって」
 アルトの励ましもあり、クラリスは緋色の瞳をうさぎのように潤ませ、ありがとうとつぶやいた。
 だが、サーラは礼を言われる資格はないのだと、心の中で返す。食事を乗せた盆を寝台に置くと、向かいの窓辺に立った。ボストロールを倒した夜以来、サマンオサには春のうららかな陽気が戻りつつあるという。
「サーラ……あの人たちなら、大丈夫だよ」
 アルトが控えめに声をかける。戻らぬ二人の雇い主も、サーラの心情を察し気遣った。
「サーラさん、自分を責めないで。私も、セラたちとはほんの一月も行動を共にしなかったけど、あの二人は何故か、不死身な気さえするの」
「そうだよ、サーラ。ほら、もしかしたらおいしそうな匂いを嗅ぎつけて、戻ってくるかもしれないし」
「何だよそれ。お前じゃあるまいし」
 何よ、とモエギとジャックがじゃれ合う。皆の心遣いは有り難かったが、サーラは部屋を出て、廊下にある窓から町の様子を見下ろした。
 城の兵士団と、自由が利く民が協力し、城下町の復興に着手し始めている。晴天の下、彼らはきびきびと働き回り、時折言葉を通わす表情は希望に満ち溢れていた。
 亡き者に報いるためか、はたまた残された国王と民のためか。いずれにせよ、サマンオサが再び活気を取り戻すのは、そう遠くない未来だろう。
 反面、悔いてばかりの自分は窓辺から動けずにいる。そのまま人々を眺めていると、背後に気配を感じた。紛れもない、アルトのものだ。
 腕が伸ばされ、背中ごとすっぽり包まれる。ふわりとアルトの体温が香ると、胸が燃えるように熱くなった。
 こんな時に、アルトの温かさに触れてしまうと、たちまち涙腺が緩んでしまう。悲しみに寄り添うように、アルトは何も言わず、サーラを抱きしめてくれた。
 じっと瞳を閉じていると、ふいに外が騒がしくなった。正門の方に兵士たちが何人も向かっていくのが視界に入り、サーラは窓際に食らいつく。
 正門前に、捜索隊と思わしき兵士たちに囲まれ、深緑の鎧と法衣姿の男女が倒れ込んでいる。サーラはなりふり構わずに飛び出した。
 寝間着のまま、人だかりをかき分け、兵士に揺さぶられている二人の目の前までやって来ると、サーラは思わず叫んでいた。
「セラ! ケイン!」
 うつぶせになっている二人は、あちこちに服の焼けた痕跡があり、全身はすすけて頬もげっそりとしている。鋭さをわずかに残した切れ長の瞳がサーラを認めると、その主は突然、笑い声を漏らした。兵士が何事かとおののいていると、彼女は呆れたように、しかしどこか、子供をなぐさめるような口調で、言葉を投げかけた。
「サーラさん……いい歳して、泣くんじゃないよ」
 頬に手を当てると、いつの間にか濡れている。ケインはというと、仰向けになり大の字に寝転ぶと、大きくため息をついた。
「ああ……昼ご飯の匂いを頼りにしてきて、良かったぁ……」
 もはや起き上がる力もない男の、まるで天国の雲に揺られているような笑顔を見て、その場にいた者は一斉に朗らかな笑い声を上げた。サーラを追ってきたアルトは丁度聞き逃したのか、目を白黒させている。
「サーラ、何で皆笑ってるんだ?」
 首を傾げるアルトに、サーラは泣き笑いを見せた。
「嬉しかったんだ。皆、嬉しくて、笑ってしまったんだ」



 捜索隊の手により、セラとケインは教会の客室に運び込まれた。
 といっても、客室はサーラたちが滞在する大部屋と、国王が療養している個室しかないため、まだ安静にする必要があるサーラと、そばについていたいというアルト以外が寝台を明け渡し、宿屋に移ることとなった。
 話によると、南の洞窟への山道が土砂崩れでふさがってしまい、彼らは迂回して城下町を目指したため、戻るのに日数がかかったらしい。その間はわずかな携帯食や、山の獣を狩ったりして飢えをしのいだという。
 しかし、満足のいく食糧が得られるはずはない。夫婦はサーラの隣の寝台に仲良く寝かされ、「血が足りない」「肉、じゃんじゃん持って来い」などと、怨念めいたうめき声を上げていた。
 空腹の亡者に対し、あるシスターは粥を持ってくると、食べることを考えられる内は大丈夫ですから、と微笑んだ。それを聞き、クラリスやモエギたちは心おきなく宿屋に向かっていった。
 セラとケインは食事の時間だけきっちり起き上がり、腹を満たすと睡眠に入るため、ろくに口が利けない。サーラとしては早く詫びたい気持ちでいっぱいだったが、アルトに諭され、二人の回復を待つことにした。
 話をすることが出来たのは、翌日の昼下がりだった。換気のために半開きにした窓から、調理の匂いが立ちのぼってくる。山間部に住まうサマンオサの民は芋をよく食べるようで、ほくほくと心が和む匂いだ。
 アルトは所用で出払っている。サーラはぼんやりと寝台に身を預け、身体がなまってくるため、そろそろ城下町の方を歩こうかと考えていた。
 ふと、左隣のセラに目を移すと、彼女は尖った鼻を持ち上げ、匂いを確かめると自然に目覚めた。視線が合う。
「……セラどの、具合は?」
 尋ねると、彼女はこちらに寝返りを打ち、薄く微笑む。
「せっかく良くなってきたのに、そんな堅苦しい呼び方されると、また寝込んじまうよ」
 言わんとすることを悟り、サーラは上半身を起こすと、セラの正面に両足を降ろした。向こう際で眠っているケインにも、と深々と頭を下げる。
「セラ、ケイン。私が至らぬばかりに、こんな目に遭わせてしまって、本当にすまなかった」
 返事はない。おそるおそる顔を上げると、セラは背を向けてしまった。当然の反応だ、そう思った時だった。
「ああ、急に具合が悪くなった。あんたにそうやって言われると、胸くそが悪い」
 刺々しい答えに、やはり簡単には許してもらえないことを痛感する。膝元の布を掴み、サーラはうなだれる。
「すまない……」
 すると、毛布を払いのける鈍い音が響き、ケインがうなり声を上げる。気付くと、セラはサーラの目の前で憤然と立っていた。
「いつまでも、ウジウジしてんじゃないよ!」
 見下ろす瞳は、苛立ちというより、どこかもどかしさを漂わせている。セラは腰に手を当て、まくし立てた。
「あのね、あんたに心配される程、ワタシたちはヤワじゃないんだよ。現に、こうして戻ってきて、ガツガツあんたの隣で食事してるでしょ? こいつなんか、腹さえ満たされればもう全快に等しいんだから」
 夫をあごで示すセラ。当の本人はまさに食べ物の夢を見ているようで、パエリア、と寝言を発し、だらしなくよだれを垂らしている。不覚にも笑ってしまう。
 セラは、しょうがないなとでも言いたげに、苦笑した。
「全く。あんたは、人間以外の何者でもないよ。つい最近出会ったばかりのワタシらのために涙を流して、思い詰めて。ほら、もっと言うことがあるでしょ?」
 促され、サーラも立ち上がると、心からの笑みを見せた。
「……無事で、良かった」
 セラは、サーラの微笑みに束の間言葉を失くしたかと思うと、頬を紅潮させそっぽを向いた。
「ったく……。本当に調子が狂うよ、あんたには」
 彼女を戸惑わせるのは、ケインとの馴れ初めくらいだと思っていた。だが、歯に衣着せぬ物言いには、セラなりの思いやりがにじんでいた。
 夕食の時間までは、セラの口から直接戻るまでの経緯を聞いた。炎の渦から湖に身を投げたこと、鎧の重量で沈みそうになったケインをバギで地面に巻き上げたこと。溺れかけたセラの手をケインが離すまいと掴み、顔を真っ赤にして引き上げたこと。
 その際、ケインが放った言葉を、セラは主に告白するように、そっと打ち明けてくれた。
「僕は、君を守るために一緒にいるんだ。だから、僕の手の届かない所に行くな――この人、昔同じことをワタシに言ったって、気付いているのかね」
 ケインが口にしたのは、かつてセラが一度だけ、彼に叱られた時の言葉だという。道中で語られなかった当時のことを、セラは遠い目で振り返った。
「ワタシは、昔はもっと人でなしでね。この人のことも、護衛として雇ったのに、何でついて来るんだろう、面倒だからどこかで巻いてやろうと思ってた」
 神妙な面持ちのサーラには弁解せず、セラは続ける。
「あれは……アッサラームを訪れた時だったかね。人が多いし、丁度良いと思って、本当にこの人を巻いてやった。解放感はあったけど、それは楽になるっていうよりかは、空虚なものだった」
 無理矢理これでいいのだ、と言い聞かせ、翌日には街を発とうとしていた矢先のことだった。セラは夜盗に襲われたという。
「どうもこの髪は目立ってね、目をつけられたのよ。でも、この人もワタシの髪の色を頼りに駆け付けてくれて、あっという間に賊どもを蹴散らしちまった」
 助けられても、彼を裏切った後ろめたさと、一人では身を守れない悔しさで、セラはケインを突き放した。その時、彼は普段とは全く異なる、押し殺した声で訴えたのだという。
 セラは柔らかな笑みをたたえ、子供のようにすやすやと寝息を立てる夫の寝顔を見つめた。
「この人の、怒ってるんだけど泣きそうな顔を見たら、自分のしたことを恥じたよ。ワタシはあまりにも、自分と周りに無頓着だった。そんなワタシを心から大事にしてくれる人を、悲しませたくない……柄になく、そう思ったよ」
「それが、貴女の気持ちを変えた出来事だったのか」
 セラはこくりとうなずき、いたずらっぽく笑った。
「プロポーズは、ワタシからしたんだ。ワタシについて来れるのも、ついて来てくれるのも、この人しかいないって、思ったからさ」
 サーラは目を細め、契りを交わす二人の光景を思い浮かべる。おそらく、ケインはむせび泣いたであろう。
「その話、モエギには、しても良いか?」
 すると、セラは片眉を上げた。自身を呪うように、額を覆う。
「しまった。ワタシとしたことが、お喋りが過ぎた……。しょうがない、あの子には話してもいいけど、男共には話すんじゃないよ」
「分かった。念のため、モエギにも言いふらさないよう、口止めしておこう」
 この風変わりな夫婦の馴れ初めが、モエギの良いヒントになればと願う。一方で、問題はむしろジャックなのかもしれない、とも思う。
 あれこれ考えていると、廊下から足音が近付いてきた。
「サーラ、と……セラさん。アリエルが来てくれたよ」
 顔を出したのは、平服のアルトと、アリエルだった。アリエルは真っ先にセラの元へ駆け寄り、手を取る。
「セラさん! 無事だったのね……。あの時は、本当にごめんなさい」
 毒舌家のセラも、アリエルにはかなわないようで、歳の離れた妹に接するようにくせっ毛を撫でつけた。
「あんたこそ、無事で良かったよ。ほら! あんた起きな! せっかくアリエルが見舞いに来てんのに、悠々と寝てるんじゃないよ!」
 豹変するセラにアルトとアリエルが目を剥くと、ケインは妻に毛布を没収され、不機嫌そうにうめいた。
「何だって……? ムニエル……?」
 よだれを拭い、目元をこするケインに一同が呆れ返る中、アリエルはケインの寝台に歩み寄る。彼は少女の顔を認識するなり、慌てて寝ぐせを押さえつけた。
「あ……アリエル? 君、紳士の寝込みを」
「襲うかこの馬鹿亭主!」
 すかさずセラに枕を投げつけられ、顔面を強打する恐妻家は、だよねー、とのんきに微笑む。サーラとアルトは互いに苦笑する。アリエルは二人のかけ合いにはらはらしていたが、ケインが全く堪えていないため、安堵のため息をついた。
「ケインさん、サマンオサまで来てくれてありがとう。アルトたち、みんなのお陰で、サマンオサは救われました」
「そうか……それは何よりだ。いやあ、僕らはほとんど何も出来なかったけどね」
 あっけらかんと頭を掻くケインに、アルトはやんわりとそれを否定する。
「いいえ。貴方たちがサマンオサを訪れたことがあったから、俺たちもそれを頼りにここまで来れたんです。二人とも、ありがとう」
 どこまでも礼儀正しいアルトに、ケインはのぼせ上がり、セラもむずがゆそうに笑う。出会った頃はどこか不釣り合いだったアルトの振る舞いも、今は立派な好青年の証となった。
 セラはふと、思い出したようにアリエルに質問を投げかけた。精霊神ルビスの、とは口にせず、例の肖像画は誰が描いたものなのか、元々の所有者は誰なのか、熱のこもった瞳で問う。あまり要領を得ない男二人はともかく、アリエルの目線は明らかにサーラの方へ向けられた。
 アリエルはしばしの間考えあぐねいていたが、意を決したように口を開いた。
「あの肖像画は、元々わたしの家に伝わるもので、おそらく描いたのもわたしの祖先だったと思います。先代の国王様の指示で、今は教会に保管されているけど……」
 そこで、アリエルはサーラとアルトの方を向いた。
「肖像画のことも含めて、アルトと、サーラさんにお話しなければいけないことがあります」
 改まったアリエルの申し出に、サーラは心臓が脈打つのを感じた。
「アリエル、良ければ、その肖像画を私にも見せてくれないか?」
 アリエルはもちろん、と快くうなずく。
「どういうことだ? その、肖像画っていうのは?」
 耳にしていない話題に及び、アルトは戸惑いを露わにする。セラは自身の介入出来ない領域だと察したのか、不服そうにはやし立てた。
「敬虔な信者として、ワタシも聞きたい所だけどね。何だか知らないけど、早いとこ説明してもらったら?」
「まあまあ、そうすねるなよ、セラ」
 別に、と口を尖らせる妻をなだめつつ、ケインは穏やかに提案した。
「大事な話なら、明日にした方がいいんじゃないかい? もう晩ご飯の時間になるし」
 気付けば、明かりを灯さないと手元が暗い程日が暮れていた。アリエルは素直に聞き入れ、明日家に来て欲しい、と帰っていった。彼女の背を見送り、アルトは手早く吊るされたランプに火を灯す。
「今日、俺が話を聞きに行ったら、サーラにも話したいことがあるって言ってきたんだよ。だけど、込み入った話ならゆっくり聞いた方がいいよな」
「そうそう。さっ、もりもり食べてぐっすり寝よう!」
「あんた、心おきなく食事したいからアリエルを追っ払ったんじゃないだろうね……」
 それは誤解だよ、と非難めいた声を上げるケインには構わず、セラは不機嫌そうに散らかした枕や毛布を拾い上げる。沈黙に混じって、食欲をそそる香りが漂う。
 肖像画に描かれた女神は、何を意味するのか。それはおそらく、自分の出生、ひいては母の謎に繋がると、サーラは一心に信じるのみだった。