唯一の責任 9



 日没後、神父に見送られ外に出ると、雨は豪雨と化し、ひっきりなしに城下町に降り注いでいた。遠くの空が時折光を放ち、雷が灰色の山裾を浮かび上がらせる。あの向こうから、セラとケインが戻ってくるのを信じ、サーラは石畳煙る城下町を駆けていった。
 王城の周辺まで来たものの、アルトが昼に侵入した裏口には見張りの姿がない。それどころか、正面の城門も無人である。アリエルが扉の横にあるレバーを操作すると、すんなり扉は開かれた。
 城内は不気味な程静まり返っており、明かり一つ見当たらない。メラの松明を頼りに、慎重に足を進める。
「ぎゃっ!」
 何かにけつまずいた鈍い音とモエギの悲鳴に、アルトとアリエルがぎょっとする。ジャックがいたら、すかさず豚が絞め殺されたような悲鳴と形容するだろう。
 アルトが足元を照らすと、床には兵士が倒れていた。しゃがみ込み様子を見ると、どうやら眠っているようで、随分と気持ち良さそうによだれを垂らしている。
「はあ……。眠っているだけで良かった。モエギ、びっくりさせるなよ」
「だって、こんな真っ暗だと何がいるか分からないでしょ!」
 抗議の声を上げるモエギに、サーラは苦笑いを浮かべる。そういえば、酒場にいた頃も、モエギは怪談話には乗り気ではなかった。
「こんな所で眠っているなんて、他の人たちはどうしてるのかな……」
 モエギより、アリエルの方がよほど冷静である。アルトは食堂の方へ進み、扉を開けると辺りに松明を向けた。
 すると、ある者はテーブルでスプーンを手にしたまま、ある者は樽にもたれた格好で、またある者は配膳の途中だったのか、盛大に汁物をぶちまけたそばで倒れ込んでいた。共通するのは、皆先程の兵士と同様、すやすやと寝息を立てていることだった。
「これは……ノアニールの村と同じような現象か?」
 眉をひそめるサーラに、アルトはいや、と首を横に振った。
「あの時は、どの人も眠っているというより、時間そのものが眠っていた。きっと、偽王か大臣が城の人たちを眠らせたんだ」
 また、城仕えの兵士や侍女たちは皆人間のままで、魔物化はしていないが、潜入時に襲ってきた一部の兵士は精神支配を受けていたとアルトは推測した。だが、今はそういった兵士すらなりを潜めている。
「偽王側は、小細工なしに俺たちが直接来るのを待っていて、あえて普通の人々をおとなしくさせているんだ」
「それは、それ相応の自身が、奴らにもある……ということだな」
 アルトは無言でサーラにうなずいた。物々しい静寂が、緊張を高めていく。
 サマンオサの王城は、階層があまりない分一階は高さ、敷地共に広く、その中心に謁見の間を大きく構えている。扉の前まで来ると、互いに視線を通わせ、ひと思いに開け放った。
 真っ先に飛び込んできた光景に、サーラたちは縫い止められたようにその場に立ち尽くした。
 二階分までそびえる壁には暗幕がかけられているが、正面のステンドグラスには、両手を手枷でつながれ、ジャックがぐったりと張り付けにされていた。篝火に照らされた姿は、至る所に殴打の痕跡が残っている。
「ジャック!」
 モエギの悲痛な叫びにも、ジャックは反応せず、身動きひとつしない。痛ましい仲間の姿に当惑していると、笑みを含んだ声が響き渡った。
「待ちくたびれたぞ、我に仇なす者どもよ」
 一斉に構えると、玉座の陰で、恰幅の良い人影がうごめいた。
「そもそもは、その悪運の良い娘が余計な真似をしたお陰で、忌まわしき者どもをこの国に招く形となった。サイモンの娘よ、お前たち親子はどこまで我の邪魔をするのだ?」
 人影には見覚えがあった。アリエルの前に立ちはだかり、サーラは剣の切っ先を向ける。
「貴様か……! 大臣!」
「ほう、あの業火の中から逃げてきおったか。今度こそ焼け死にたいとみた、ならば望み通りにしてやるわ!」
 大臣が両手を掲げ、下卑た笑みを放つと、途端に左右の暗幕が燃え上がった。
「さあ、仲間の命が惜しくば、サイモンの娘を差し出せ。案ずることはない、陛下が一瞬のうちに父の元へ送って下さるわ!」
 耳障りな笑い声に舌打ちし、サーラはアリエルに声をかけた。
「アリエル、ここは私たちに任せろ。奴は」
「待って」
 突如さえぎったかと思うと、アリエルは身体を震わせながら一歩進み出た。
「アリエル!? 何を……!」
 アルトも引き止めようとするが、少女の鋭い眼差しは、サーラたちが何と言おうと介入させまいと、拒絶すら漂わせていた。
「わたしを、国王の元へ連れて行きなさい。その代わり、あの人を今すぐ解放して!」
 毅然とした態度に、大臣は感心したようにわざとらしいため息をつく。
「シゲルに連れ戻された時とは別人のようだな。国王陛下は上階の寝室におわす。寝起きの陛下は、それはそれは機嫌が悪い故、お前のような小娘はなぶり殺しにするやも知れぬ」
 舌なめずりをする大臣に憤りを感じ、サーラが息を吸うと、アリエルが視線だけをこちらに戻した。
 わたしに任せて。そう言われたような、気がした。
 炎はしだいに壁を這いずり回り、ジャックにまで火の粉が飛散していく。一向に目を覚まさないジャックと、アリエルを奥の扉へ連行する大臣にしびれを切らしたのか、モエギが烈火のごとく飛び出した。
「待ちなさいよっ! ジャックを解放するまで、アリエルは行かせないっ!」
 アルトとサーラもそれに続くと、大臣はアリエルを突き放し、煩わしいと言わんばかりに手をかざした。
「小賢しいわっ!」
 立て続けに魔弾を打ち込まれるが、モエギは床に転がりくぐり抜けると、勢いのままに宙返りし、大臣のあごを蹴り上げた。
 ぐほっ、と大臣は仰け反り、さらにモエギは素手で肥えた腹に拳を叩き込む。仕上げに回し蹴りを放つと、大臣はくぐもった悲鳴を上げ、呆気なく壁際に沈んだ。白目を剥き、口からは泡まで吹いている。
「この男、ギラやイオまで使えたのか……?」
 魔弾を剣圧で相殺したアルトは、滑稽な程伸びている大臣に驚きを口にした。おそらく、洞窟での攻防時、モエギを吹き飛ばしたのもイオの爆発だったのだ。
 二の轍は踏まない。モエギは穢れを払うように両手をはたき、憤然と大臣に蔑みの眼差しを送ると、頭上に吊るされたままのジャックを仰いだ。
「ジャック! 今助けるからね!」
 手枷の鎖は、壁に杭で打ち付けられているが、踏み台を使っても届きそうにない。その間も両側の壁から、焼け落ちた暗幕があちこちに燃え移り、入口の扉にまで及んでいる。
「くそっ、どっちが余計な真似だ……!」
 燃えさかる炎と大臣を忌々しげに睨み、サーラが手をこまねいていると、アリエルが声を上げた。
「アルト! わたしの手枷をジャックさんが外してくれたように、メラを!」
 アルトはすぐに合点がいったようで、護身用の刃が欠けた短剣を取り出すとアリエルに尋ねた。
「今は、ジャックと俺以外に魔法の使い手がいない。君もギラを使えたのなら、一緒にメラも唱えられるよな?」
 アリエルが勿論、とうなずくと、アルトはジャックを捕らえる鎖めがけ、詠唱に入る。アリエルも瞳を閉じた。
「空気を焦がす、生まれし灯火……」
 二人の瞳が、同時に見開かれる。
「メラ!」
 ぼっ、と火玉が左右に放たれ、鎖を赤く燃え上がらせる。金属が溶ける頃合いを見て断ち切るのだろうが、短剣は一振りしかない。
「アルト、もう一方は……」
 サーラが自身の剣を持ち替えるが、それより早くモエギがどこからか鉄槍を拾ってきた。ただ一心にジャックを救おうとする親友の横顔を見て、サーラは剣を収めた。
 鎖が熱に染まり、目に見えて緩んだ瞬間、アルトとモエギがそれぞれの武器を鎖に向かって投げつけた。刃が突き刺さり、乾いた音が鳴り響く。色とりどりの破片をまとい、垂直に落下するジャックをモエギの両手が受け止めた。
「ジャック!」
 ぼろぼろにくたびれたジャックに、モエギが涙ながらに呼びかける。端正な顔も所々腫れ上がり、もはや自力ではどうすることも出来ない程痛めつけられたのが伝わってくる。
 銀髪の男は、無理矢理起こされた悪がきのように、眉根を寄せた。
「ん……? あれ?」
 若葉色の瞳が、息を詰め覗き込んでいるモエギを捉えると、弱々しい笑みがこぼれた。
「何だよ、その、今際の際みてえなツラはよ……」
「だって……だって……っ」
 覆い被さるようにモエギがしがみつくと、ジャックは安心しろ、と励ますように、モエギの腕をつつく。自らも安堵したのか、再び気を失ってしまった。
 おそらく、自分とシゲルの姿がだぶったのだろう。アリエルは神妙な面持ちで、二人を眺めていた。
「皆! ここはもう危ない、上に行こう!」
 呼びかけると、アルトはモエギと二人がかりでジャックを支え、奥の扉に逃げ込んだ。残された大臣が気の毒だったが、今はそこまで気を回す余裕はない。
 上階では、諸悪の根源である偽王が高枕で眠っているはずだ。そして、ラーの鏡もきっと、その手中にある。
 今宵、一国を貶めた愚王は永遠に葬られる。仲間たち、そしてサマンオサの民が信じた、閉ざされし未来を手にすべく、サーラは階段を駆け上がった。



 身体にのしかかるジャックの重みが、彼の受けた仕打ちを物語っている。共にジャックを支えるモエギの表情は、たとえ相手が何者でも許すまいと、怒りに満ち満ちていた。
 階段を上り終えた所で、アルトはアリエルにジャックを預け、廊下で待っているよう言い聞かせた。アリエルは何か言いたげだったが、ひとまず了承した。
「下から火が上ってくるかもしれない。アルト、あまり時間はかけられないぞ」
 サーラに向かってうなずき、部屋の扉に手をかけようとすると、アリエルに呼び止められた。
「待って! もし、ラーの鏡を使うのなら、鏡の周りに古代文字が刻まれているはず。その呪文を唱えないと、鏡の力は発揮出来ないの!」
 確かに、サーラの話では、最初に鏡を手にした時は何の効果も得られなかったという。古代文字を確認することなく、鏡は奪われてしまった。
「あの鏡に何て書いてあるか、アリエルは知ってるの?」
 モエギが目を丸くする。いくらサマンオサを守護する一族だとしても、洞窟の奥深くに保管されていた鏡を目にしたことはないはずだ。だが、アリエルは動じず答えた。
「はい。呪文は、『大地を抱く母なる女神よ、その――」
「誰じゃ?」
 何の前触れもなく、扉が開いた。部屋の中から、おどろおどろしい、乾いた血糊の色をしたローブを身に纏った老人が顔を覗かせている。つい今しがた目覚めたとは思えない、爛々とした眼だ。
 顔のつくりは、幽閉されていた国王そのものだが、骨格にそぐわない肉付きをしている。何より、人相が明らかに、人のものとは思えぬ歪み方をしていた。
 品定めするように、硬直するアルトたちを一人ひとり見回すと、偽王はもう一度尋ねた。
「わしの眠りを妨げるのは、誰じゃ?」
 大臣よりも数段、禍々しい妖気を放つ双眸は、別に誰でも良いのだと語っていた。
 アルトはアリエルとジャックを守るように腕を伸ばし、偽王を睨み据えた。
「お前のせいで……どれだけの人が傷付き、命が失われたと思ってるんだ? よくも、サマンオサの人々を貶め、自分だけが悠々と眠れたものだな」
 偽王は全く意に介さず、鼻であしらった。
「何を言うかと思えば。どの世も争いを生み出すのは、貴様ら人間であろう? 事の発端は、あの嫉妬にまみれた男にある。わしは、あの男に力を貸したまでよ」
「貴様らのような、人間の弱みにつけ込む血も涙もない輩を葬るのもまた、人間だというのを思い知るがいい」
 サーラの凍てついた眼差しを受け、偽王は愉快そうに口の端を歪めた。
「ほう……。貴様が、あのお方の心酔する女か。成程、わしの目から見ても美しい。人間にしておくには惜しい程だ」
「あのお方……? もしかして、ジャックが言ってた黒幕のこと?」
 モエギのつぶやきには反応せず、偽王は部屋から円形の物体を抱えてきた。
 それは、まさしく、サーラたちが奪われた国宝、ラーの鏡だった。
「あの男は、愚かな民を欺き続けるため、この鏡を貴様らに渡すまいと躍起になっておったが……ここまで来れば、その必要はない」
 偽王は、ぞんざいに鏡を放り投げた。とっさに受け止めると、まるで大砲の玉でも食らったかのような衝撃が走る。アリエルが鏡を渡すよう訴え、アルトは異様な衝撃に戸惑いつつも鏡を譲る。
 鏡を抱えた少女の瞳は、怒りも悲しみも通り越し、ただ目の前で悠然と構える悪を討つ。それだけを、見据えていた。
「小娘よ。その鏡に映るものを目にした時、真の絶望が貴様らを飲み込むだろう。さあ、やってみろ!」
 諸手を広げた偽王に、アリエルは寸分の迷いもなく鏡を向けた。
「――大地を抱く、母なる女神よ。その懐に宿りし水鏡が映すは、偽りから解き放たれし、真実の化身!」
 瞬間、まばゆい光が鏡面から放たれた。偽王は臆するどころか、祝福を受けるがごとく、全身に蒼々とした光を浴びる。偽王が内側から発光すると、アルトたちは揃って視界を覆った。だが、そっと腕の間から覗き見ると、目を潰されそうな光のはずが、全くまぶしくない。
 怖々と腕を下ろすと、アリエルもまた、一点に集中する聖なる輝きを正視していた。
「アルト、あなたも平気でしょう?」
 アリエルは至って冷静だった。アルトがぎこちなくうなずくと、彼女はこちらを見た。
「それが、一族の血を引いている証よ」
 突如、光が膨れ上がり、たちまち異形の姿を成した。壁が押し潰され、変形に耐え切れず破壊されていく。輪郭は縦横無尽に膨張し、ついには寝室に収まり切らず、野太い雄叫びと共にまるまる一部屋を打ち破ってしまった。
 崩落する壁と相まって、未だ止む気配のない雨がたちまちアルトたちを水浸しにする。丁度国王の寝室が王城の突出した部分だったようで、遠目に町並みが見渡せた。
 偽王を取り巻いていた光が消え失せると、気丈に振る舞っていたアリエルも、落雷に浮かび上がった巨大な姿に息を止めた。サーラとモエギも目を開けると、偽王の正体を目の当たりにし、茫然と天を仰いだ。
 現れたのは、みずぼらしい毛皮を一枚纏っただけの、緑色の皮膚をした巨人だった。岩のような手には、人ひとりがしがみ付くので精一杯の棍棒が握られている。
「あの姿、本で読んだことがある……。とてつもない怪力で、全てをひねりつぶす……トロルよ!」
 指を突き付けるモエギをぎょろりと一瞥し、トロルと呼ばれた巨人は舌を出して大笑いした。地鳴りと大差ない轟音に耳をふさぐと、トロルは蟻でも眺めるかのようにアルトたちを見下ろした。
「ぶははははっ! 言っただろう、お前たちのようなちっぽけな存在など、一握りで潰せるのだと!」
 奴は、自らを同属の中でも極めて凶悪な、ボストロールだと名乗った。だからこそ、本物の国王を怪力でねじ伏せ、ラーの鏡を投げつけた時異様な衝撃をもたらしたのだ。
 棍棒をなめる恍惚の表情は、これからアルトたちを存分にいたぶる、殺戮の悦びを禁じ得ないように映る。奴にとっては、本来の姿の方が好都合という訳だ。
 だが、相手が何であろうと、選ぶのはただ一つ。
「アリエル、ジャックを頼む」
 アリエルは我に返ると、ぐったりと濡れるジャックと鏡を一緒に抱きかかえた。サーラとモエギは既に各々の武器を手に、頭上の魔物を見上げている。
 アルトも向き直ると、父が遺した大剣の柄を握りしめ、一斉に飛びかかった。
 トロル属は、図体は大きいが機敏さに欠ける。上手く立ち回り、確実に一撃を重ねていけば、勝機は見えるはずだ。
 まずは一太刀、サーラがたるんだ足に斬りつける。続けてモエギが腹に蹴りをお見舞いするが、弾力で吸収されてしまう。着地した所に、棍棒がうなりを上げて振り下ろされた。
「このっ!」
 モエギは難を逃れ、アルトが入れ替わりに棍棒を横に斬ろうと試みる。が、木で出来た棍棒の幹とかち合い、刃がはまってしまった。必死に格闘していると、棍棒を伝って虚脱感が全身を襲った。
 この感覚は、何度か経験したことがある。ルカナンという、相手の防具や筋肉を軟化させる補助魔法だ。
 アルトがひるんだ一瞬の隙をついて、トロルは棍棒ごとアルトをひきずり倒した。調度品の残骸に身体を強打し、激痛に顔をしかめる。普段の数倍はある衝撃に、意識がもうろうとしてくる。
「よくも、アルト君を!」
 怒声が上がった。トロルの背後に回り込んでいたモエギは背骨あたりを蹴飛ばし、さらに鉄の爪でむき出しの背中を斜めに引き裂く。トロルの叫びが響き渡ると、サーラが駆け寄ってきた。
「アルト! しっかりしろ!」
 抱き起されると、剣を握っていないことに気付き、思わず棍棒を見やる。大剣は、アルトがめり込ませた状態のまま置いてけぼりになっていた。
「剣が……! アルト、私が取り戻すから待っていろ!」
 サーラはすぐさまトロルに向かっていく。暴れ狂うトロルから身をかわすモエギは、いつしか髪がほどけ顔に貼り付いている。
 猛威を振るう棍棒の一撃から跳躍すると、サーラは自身の剣で棍棒を頭から叩き割った。しかし、真っ二つに割れた棍棒の片割れはただの木片で、アルトの大剣はトロルが持つ方に残ったままだ。
「返せっ! それは、オルテガ様の……!」
 サーラが骨付き肉のような手首を横に斬ると、トロルはますますいきり立つ。さらに手を狙い、棍棒を離させようとするサーラに、トロルがもう片方の手で拾った壁の残骸を投げつけた。身をかばったサーラに、棍棒が向けられ目に見えて脱力する。
「サーラっ!」
 痛みをこらえ、アルトが飛び出すより早く、サーラは横殴りにされ城壁の端まで吹っ飛んだ。紅い鮮血が名残を描き、雨と混じる。
 あと寸分の所で落下する位置に、サーラは倒れている。血だまりが、包み込むように咲いた時、全身の血が沸騰した。
 アルトはずぶ濡れになりながら、やみくもにトロルに向かっていった。奴は血痕が残った棍棒を上機嫌でなめている。
 許すものか。このような、快楽をむさぼる悪の化身を、誰よりも許すものか――!
 単身トロルの懐へ突っ込んでいくアルトの背に、思いがけず声が届いた。
「アルト! マホトーンを使えっ!」
 反射的に立ち止まり、振り返ると、アリエルに抱きかかえられながらジャックが上半身を起こしていた。
「気持ちだけで、奴らは倒せねえんだっ! しっかりしろっ!」
 鬼のような形相で、一人囮となりアルトたちを逃がしたジャックこそ、気持ちが先走っていただろうに――しかし、アルトは瞬時に魔法を繰り出した。
「マホトーンっ!」
 光の輪がトロルを取り囲み、収縮した後弾ける。奴も魔法が封じられたのが分かったのか、標的をアルトに変え盛大に吠えた。
「ジャック、目が覚めたんだ……!」
 アルト同様、サーラが痛恨の一撃を食らい真っ青になっていたモエギも、一瞬だけ顔を輝かせる。勢いをつけトロルに飛びかかり、爪の連撃で両目をつぶした。
 顔を押さえながらのたうち回るトロルを横目に、モエギは片隅で気を失ったままのサーラの元へ走り、ひざまずいた。
「サーラっ! お願い、目を覚まして!」
 胴着が血に染まるのも構わず、モエギは泣きそうな声を上げてサーラを揺さぶる。アルトは怒り狂うトロルの棍棒を目がけ言い放った。
「ベギラマ!」
 途端に棍棒が炎上し、叩きつけられる。アルトはその中から剣を取り戻そうと手を伸ばしたが、トロルは痛みを堪える赤子のように身体を丸めると、思わぬ行動に出た。
 丸めた自身の身体ごと、トロルは猛烈な勢いで転がった。その先にいたモエギは完全に不意を突かれ、成す術もなくサーラともつれ合い落下していった。
 アルトは凍りついたように、その光景を眺めることしか、出来なかった。
「モエギっ! サーラ……っ!」
 ジャックも声の限り叫ぶが、やはり満身創痍なためか、それきり彼の声は途絶えた。アリエルが呼びかけているが、再び意識を失ったのだろう。
 ここからだと、三階建てから落ちるのと同様である。下は土や枯草とはいえ、二人はただでは済まないだろう。
 度重なる、仲間の打ちのめされるさまに、アルトは唇を血がにじむ程噛んだ。
 俺のせいだ。俺の、ほんのささいな失敗が、皆を陥れた。
 雨に打たれ、拳を床に打ち付ける。稲光が視界の片隅をかすめ、轟音が後を追って響き渡る。教会を出た時は遠雷だったのが、すぐ近くに迫っていた。
 すると、耳元で鈴の音のような声がした。
「痛みを消し去りし、癒しの祈り……ホイミ」
 殴りかかる雨が一瞬静止し、回復魔法の柔らかな感触がアルトを包み込む。小さな身体が、アルトの背に寄り添っていた。
「アリエル……」
 少女を見やると、彼女は前方に視線を向ける。起き上がったトロルは、手探りでアルトたちを捜しているようだ。
「アルト。あなたはここに来て、何か力が増しているのを感じたはず」
 早口で説くアリエルの意図が分からず、アルトはトロルの近くで燃えている炎と、大剣を見つめた。激しい雨に打たれても尚、アルトが放った炎は煌々と、別世界のもののように揺らめいている。
「ベギラマ……」
 ぼうっとつぶやき、アルトはふいに、アリエルを伴い城内を駆け抜けた時のことを思い出した。
 とっさに発動させたベギラマは、あの時初めて成功したものだった。ジャックと何度練習しても、成功しなかったというのに。
 視線が絡み合うと、アリエルもまた、サーラたちの身を案じ痛切な表情を浮かべていたが、瞳には鋭い光が射していた。
「わたしたちは誰よりも、大地の女神の恩恵を受け、ルビス様の愛情に守られている。アルト、あなたには今、成すべきことが分かるはず」
 それは、ほんの数刻前まで、自分たちが守り通さねばと頑なに思っていた少女の言葉ではなく、神の啓示に等しかった。アリエルの手を借り、立ち上がる。
 神経を研ぎ澄ませると、地の底から湧き上がる気は眠れる魔力を増幅させ、天からの雷鳴が今か今かと、秘められた力の解放を心待ちにしている。
 炎の中から父の大剣を手にすると、トロルが気配を察知したのかこちらに耳を立てる。アルトは、剣の柄を右手のみに持ち替えると、アリエルに下がるよう伝えた。
 大剣を掲げると、空を覆う暗闇の雲が、吸い寄せられるかのように一極に集中する。渦巻く雲をなぞるように電流が走り、孕んで膨れ上がっていく。
 アルトは力を振り絞り、大剣を投げつけた。剣は神槍のごとく醜い腹を貫き、トロルは地響きにも似た絶叫を上げる。自然と、言葉を紡いでいた。
「お前を……許さない。全ての命よ、裁きとなって降り注げ!」
 天にかざした左手に、呼応するように無数の力が集まる。
 それは、心に秘められし、聖なるいかずちの名。
「ライデイン!」
 荒ぶる雲から、一筋の青雷が注ぎ込まれ、剣を伝い悪の化身を穿った。
 トロルは、断末魔の叫びを上げることすらかなわず、ほとばしる光が止んだ時には炭となって巨漢を沈めた。
 アルトは、腕を這う弾けるようなしびれを感じながら、ゆっくりと手を下ろし、その場に膝から崩れ落ちた。豪雨にさらされているというのに、うだるような熱が全身を侵食している。
 役目を果たしたのか、雨雲は急速に遠のいていった。代わりに、ほんのささやかな瞬きが、一つ、またひとつと、紺碧の空に灯っていく。
 星たちは連なり、荒廃したサマンオサの地を、優しく照らす。まるで、散っていった魂が、星となり故郷に帰ってきたように。
 サーラと、モエギを助けなければ――星空から目を離し、歯を食いしばり立ち上がった時だった。背後から、アリエルの悲鳴が上がった。
「アリエル……!?」
 振り返ると、全身に炎をまとった大臣が、よろめきながら階段を上って来た所だった。皮膚は焼けただれ、顔は既に元の面影を失っている。
「熱い……苦しい……全てが、にくい……」
 うめきながら手を伸ばしてくる大臣から顔を背けられず、アリエルはジャックを抱えたまま、涙声で問う。
「どうして……あなたはどうして、そんな風になってしまったの……!」
 彼女にとっては、彼もまた同じ、サマンオサの民だった。だが、彼はもう、ただの亡者でしかない。
「アリエルに、手を出すな!」
 アルトは剣を残したまま駆け付け、アリエルの前に立ちはだかる。すると、二人の目の前で、大臣は火柱となった。熱風が押し寄せ、アルトはアリエルをかばい覆い被さる。
 大臣自身の炎が勢いを増したようには見えない。魔法によるものだろうが、中級魔法のメラミをさらに上回る火力だ。
 一体、何が起こったというのだ? 轟音が止み、顔を上げる。
 大臣の成れの果ての中に、寒々しい漆黒の珠が転がっている。珠が割れると、黒い炎が湧き上がり、暗紅色の光を放つ水晶となって浮かび上がった。
 水晶は偽王のローブと同じ、血の濁った色を宿している。腹の底がざわつき、何故か胸騒ぎを覚える。
 水晶はアルトの頭上で、一際輝いた。
『見事でした。貴方もやはり、血は争えぬようですね』
 どこからともなく聞こえる、まだ年若い男の声。むき出しの心臓のごとく、水晶は声と同調し、不穏な光を放つ。
『しかし、お遊びが過ぎました。人間同士を争わせるより、手っ取り早く魔物たちに侵略させていたら、もっと鮮烈な絶望でこの国を滅ぼせたでしょうにね』
 魔物でも、先程のボストロールのように知能があれば、人間と同等の言葉を発することが出来るという。だが、今耳にしている声は、限りなく人間に近いものだった。
「お前か……陰で人間を操り、人々の苦しむさまを傍観していた奴は」
 低く尋ねると、水晶は応えるように揺らめいた。
『貴方がたには、そのように捉えられるでしょうね。ですが、それこそがわたくしの命じられた務めであり、悦び……』
「ふざけるな! お前のような外道に、これ以上世界を侵させたりしない!」
 ジャックの言った通りだ。この声の主程、胸くそが悪い奴をアルトは知らない。その代わり、奴が苦しめてきた人々をよく知っている。
 剣を手にしていたら、間髪入れず水晶を叩き斬っていただろう。空の手で拳を作り、怒りに震わせる。
『それは結構なことで。では、この国はひとまず、貴方がたにお返ししましょう。わたくしは主様にご報告せねば』
 水晶が高く舞い上がる。アルトは怒号を上げた。
「待てっ! 散々人の国を荒らしておいて……お前は一体何なんだ? 主っていうのは、バラモスのことなのか!?」
 睨み上げていると、水晶はアルトの目線まで下り、答えた。
『わたくしは、バラモス様直属の参謀、デラルド。この世で最も、ルビスとその眷族を尊び、憎む者ですよ……――』
 穏やかだが、一片の情も感じられない声が遠ざかると同時に、水晶は火の玉と化した。アルトが素手でそれを殴りつけると、火の玉はかき消され、辺りに静寂が満ちる。背後で、アリエルが身じろぐのが伝わった。
「アルト……」
 少女の声は、困惑と、それまで押さえつけていたやり場のない怒り、悲しみがないまぜになっていた。アルトは振り返らず、拳をゆっくり開閉させる。
「くそっ……何が楽しくて、こんな真似をするんだ……」
 再び拳を握る。持て余した怒りは、手中を赤く染めた。アリエルが立ち上がり、腕に手を添える。
「アルト。サーラさんとモエギさんを、助けに行かなくちゃ。……ね?」
 口ではたしなめていても、指先のぬくもりが語りかける。今はあなたの大切な人のことを考えて、と。
 アルトは力なく拳をほどき、アリエルに小さく、うなずいた。