唯一の責任 8



 ぬかるむ山道を降り、下山した所で、雨は本降りになった。一面に広がる草原に足を踏み入れると、くるぶしまである枯草の匂いがむっと立ち込める。
 サーラたちは各々の外套でしっかり寒風から身を守り、足を速めた。遥か前方には、洞窟と思われる岩場を囲う、城程の面積を持った湖が浮かんでいる。
「遠目に見ても、何者かの姿は見当たらないが……」
「もしかして、あたしたちより先に鏡を持ち出そうとしているのかも……急ごう、サーラ!」
 サーラとモエギが率先して駆け出す。背後から、ケインの意気揚々とした声が追いかけてきた。
「もし、鏡を持ち出してくれていたら、僕らがちょちょいと奪い取れば楽だね!」
「あんた、たまにはいいこと言うね! ワタシらが逆に待ち伏せして、出てきた所を叩きのめすのも面白いじゃないのさ!」
 乗り気なセラに、ケインはひゃっほうー! などと妙な歓声を上げる。物騒かつ、血気盛んな夫婦に閉口しつつも、彼らの威勢の良さを見習うべきか、とサーラは真面目に考えてしまう。
 時折休みつつ、陽が暮れるより早く湖のほとりに辿り着いたサーラは、息を切らしながら辺りを観察した。
 湖には橋が渡されており、ぽっかりと浮かぶ小島に岩場がそびえている。洞穴には竹で出来た柵があり、おそらくシャーマンたちが備え付けたものと思われる。
 サーラたちは周囲の様子に気を配りながら、古びた橋に足を乗せる。雨で湖は増水し、水面が荒ぶり足元に水しぶきが飛ぶ。
 一際、水面が大きく揺らいだその時、湖の中から水が腕の形を成して伸び、サーラの足首に絡み付いた。
「何だ……!?」
 腕はみるみるうちにサーラの足を這い、剣で断ち切るもののすぐに形を蘇らせてしまう。
「大気を舞いし、唸る真空! バギっ!」
 セラが真空魔法を飛ばすと、刃となった風が腕を分断させ、甲高い悲鳴のようなものが上がった。まとわりついていた水が弾け、辺りに飛び散る。その直後、ケインも同様にうねり狂う水に腕を捕らえられた。
「このっ! 放しなさいよっ!」
 モエギが意思を持つ水を掻っ切るが、やはりすぐに結合してしまう。続けざまに放ったセラのバギにより事なきことを得たが、サーラたちは早急に橋を渡り切った。
「何、今の!? 湖の亡霊とか!?」
 打撃が効かない相手が苦手なモエギは、脅えながら身をすくめる。セラは氾濫する湖を睨みつけ、忌々しげに歯噛みした。
「大体あんたの言ったことで正解だよ。実体がない、影のような魔物……おそらく、そいつが水に乗り移っていたんだね」
 あまり遭遇したことがない魔物に、サーラも背筋に寒気が走るのを感じた。
「猿や亀より、ずっと厄介だな。こうなったら、洞窟の中に避難するぞ!」
 剣の柄を握り直し、柵に突進すると、雨雲が頭上に集中し視界が暗くなった。
 その途端、閃光と共に落雷が落ち、サーラはとっさに剣を突き立て飛び退いた。剣が避雷針となり直撃はまぬがれたが、ここに来るまで雷は目にしていない。急激な雲の変化からして、明らかに人為的な力が働いたものだ。
「雨乞いか……? いかにも、シャーマンがやりそうなことだな」
 ケインも愛用の剣を手に警戒する。サーラも、自身の剣を再び手にし声を飛ばした。
「さっきの奴か!? 姿を見せろ!」
 四人とも背中合わせになり、目を光らせていると、洞窟の柵が開いた。瞬時に剣を向けると、暗がりから丸々と肥えた、身なりの良い男が現れる。男は悠長に口髭を撫でつけながら、意地の悪い笑みを覗かせた。
「先回りしておいて正解だったわ。貴様らのような部外者に、国宝を奪われる訳にはいかぬからな」
 人間にしては、目元が異様に尖っており、怪しげな光を宿している。サーラは、かつて相見えた者と似たような瞳のぎらつきに確信を持った。
「貴様が、サマンオサの政務大臣とやらだな。人道を外れ、魔の者に堕ちた貴様などに、ラーの鏡を渡すものか!」
 剣を突き付けると、大臣は鼻であしらい、諸手を広げた。
「何を偉そうに。賢王と謳われながら、国防ばかりに徹する臆病な老いぼれに代わり、我こそがこの国を、ひいては世界を治めるのだ!」
 哄笑を響かせる大臣と向き合いつつも、モエギたちは口々に囁き交わす。
「何あいつ……今すぐ殴ってやりたいんだけど」
「大臣のくせに、随分頭悪そうな奴だね」
「いやあ、身の程を全くわきまえていなくて、ある意味感心するなあ」
 好き勝手に評価する三人の声は、全く届いていないようだ。大臣が指を鳴らすと、洞窟から揃いの面を被ったシャーマンがぞろぞろと出現し、サーラは身構える。その中に、原色の織物をかけた包みを持つ二人組を見つけた。おそらく、あの包みがラーの鏡だ。
 元々、この洞窟と鏡を守護する役目を担うはずの者たちに、サーラは怒りがこみ上げた。
「お前たち! このような愚劣極まりない者に従い、宝をいいようにさせるというのか!?」
 シャーマンたちの反応はなく、面の裏の表情も全くうかがえない。大臣は無駄だと言わんばかりに胸を反らした。
「何をいったところで、この者たちは我の命令以外聞かぬわ! 行け! サマンオサの至宝を狙う不届き者を始末するのだ!」
 大臣の号令により、槍や杖を持ったシャーマンたちが一斉に飛びかかる。彼らもまた、大臣と同様に邪悪な力で操られているのだ。だが、よほどでない限り殺生は裂けたい。
「モエギとケイン殿は彼らを上手く気絶させろ! セラどのは援護を頼む!」
 それぞれの声が上がり、サーラは迫り来るシャーマンたちを相手取る。峰打ちや体術を駆使し、着実に倒すよう立ち振る舞った。
 幸い、個々の戦闘力は人並みで、さらにセラがピオリムの呪文で後押ししたのもあり、サーラたちの敵ではなかった。二十人近くいたシャーマンの半分以上をのしたところで、残るは大臣を取り巻く五人、鏡を持つ二人となった。
 相手が並の冒険者ではないことを悟ったのか、大臣は苛立たしげに声を荒げた。
「くそ……っ! おい、鏡を渡せ!」
 大臣は半ば強引に鏡を奪い取ると、そのまま地面に叩き付け足蹴にした。さすがにシャーマンたちがうろたえると、大臣は唾を吐き散らし叫ぶ。
「真実を映す鏡など、我には必要ないのだ! さあ、その者どもを蹴散らせ!」
「至宝とか言ったくせに、やることなすことめちゃくちゃだよ……」モエギがうんざりとため息をつく。
 シャーマンたちは何やら呪文を唱え始め、骸を冠した杖を湖にかざした。次の瞬間、サーラは全身に何者かが巻き付いたような悪寒と締めつけに襲われた。身じろぎしてもびくともせず、他の三人も同様に身動きが取れないようだ。セラが雨に濡れた髪を振り乱す。
「ちっ! さっきの奴を操っていたのも、あんたらかい!」
「僕たちを拘束して、鏡が割れるのを指をくわえて見てろってことだな! あっ、指がくわえられない!」
 この期に及んで、とぼけたことを口走るケインには構っていられない。サーラはがんじがらめになりながらも、セラに向かって声を張り上げた。
「セラどの! 奴らの呪文を封じてくれ!」
 セラは目の動きで了解すると、シャーマンに向け凄みを利かせた。
「呪術を封印せし、沈黙の訪れ! マホトーン!」
 シャーマンたちがひるむと同時に呪縛が解け、サーラとモエギ、ケインが総出で彼らを気絶させた。大臣は一人、取り憑かれたように鏡を踏みつけているが、一向に割れる気配はない。
「くそっ! こんなもの! 我に真実など要らぬわっ!」
 わざわざ持ち出させたというのに、大臣自身はまるであの鏡を忌み嫌うように扱っている。狂気じみた大臣の行動を見かねて、サーラは止めに入った。
「よせ! お前も元々は人間、サマンオサの民だろう!? 何故そこまでする!?」
「サーラ、無駄だって! あの人、もう邪悪な力に囚われちゃってるんだよ!」
 モエギはふいに、何かに気付いたように言い留まる。こちらに目もくれず、鏡と格闘する大臣に忍び寄ると、大臣の手首を掴み、かけ声を上げた。体重をものともせず、鮮やかに背負い投げを決めたモエギに、ケインが勝手に拍手を送る。
「サーラ! 今のうちに鏡を拾って!」
 急いで鏡を拾い上げ、土にまみれた織物を取り払うと、サーラは言葉を失った。
 金の縁取りと青の宝玉に彩られ、さらに古代文字が刻まれた円盤の中に、澄みきった水鏡がはめ込まれている。鏡は瞠目するサーラを映すのみで、それ以上の働きを成そうとはしない。モエギが大臣をねじり伏せながらさらに声を荒立てる。
「それを、大臣にかざして! この人もきっと、『黒い宝玉』に侵されてる!」
 妖気をたたえた瞳、突拍子もない行動に加え、実際に被害者となったモエギが断言することで、サーラも合点がいった。胴を覆い隠す程の鏡を胸に抱え、大臣に向ける。しかし、特に何かが起こることはなかった。単に対象物を映すだけでは駄目なのかもしれない。
「セラ、その鏡は、本当に国宝なのかい?」
 ケインがつぶやくと、間髪入れず鈍い音がした。肘鉄でも食らったのだろう、苦悶の声を上げるケインにセラの毒舌が炸裂する。
「あんた、真っ先にワタシが間違ってるような言い方をするなっていうの! サーラさん貸して、古代文字ならワタシが読めるから」
 セラに鏡を渡そうとすると、爆発音が起こった。隙をついて、大臣がモエギを吹き飛ばしたのだ。
 うずくまるモエギを横目で見やり、大臣は手をかざす。念力のような術であっという間にラーの鏡を奪うと、大臣は先程までとは別人のように、不敵な笑みを浮かべた。
「我としたことが、私情に振り回されてしもうたわ。我に必要なくとも、あの方には献上せねばなるまい。貴様らはここで、往生するがよいわ!」
 大臣は紺色のマントを翻すと、空中に舞い上がり衝撃波を放った。すると、倒れ込んでいるシャーマンたちの身体が一瞬にして発火し、うねり狂い出した。サーラがモエギを助け起こす間に炎は燃え上がり、鼻が曲がりそうな悪臭が充満する。肉と、骨が焼ける匂いだ。
「セラどの! ケイン殿! キメラの翼で、城下町に……!」
 炎に隔たれ、姿が見えなくなった二人に呼びかけたものの、サーラは手持ちのキメラの翼を数え、愕然とした。
 手元には、人数分の四つ。だが、支給された残りを持っているのは、城下町にいるアルトだけだ。
 キメラの翼は、移動魔法のルーラと違い、一つで移動できるのは一人のみ。所持していない限り、移動は不可能なのだ。
 サーラはモエギを支えながら立ち上がると、精一杯叫んだ。
「二人とも、今行く! 一緒に、戻らねば……!」
 おびただしい量の煙にむせ返りながら、何とか二人のいる方へ向かおうとすると、燃えさかる轟音に紛れてセラの怒号が聞こえた。
「馬鹿言ってんじゃないよ! ワタシたちは大丈夫だから、あんたたちだけでも仲間の所へ帰りな!」
 この、渦巻く炎の中で、何をもって大丈夫だとぬかしているのだ。激しい咳き込みの後届いたのは、出会ってから初めて耳にする、ケインの至極まともな声だった。
「僕たちも必ず戻るから、構わずに行くんだ! ここでのたれ死ぬようでは、クラリス様に面目が立たないからね!」
 彼らは、強がりでなく、何があっても必ず生き延びるつもりなのだ。ここでまごついていては、瞬く間に四人とも業火の餌食となってしまう。
「サーラ! 早くっ!」
 モエギの悲鳴に近い叫びに気圧され、サーラはキメラの翼に祈りを捧げる。空高くに放った翼が、黄金色の光を放つ。
 移動魔法特有の揺らめく波動に包まれ、意識が途切れる直前、炎が全てを焦がした。



 城下町の正門前に降り立っても、身体を取り巻く焦げ臭さはなかなか消えなかった。サーラはその場から動くことが出来ず、ついさっきまでいた方角を茫然と見つめる。
 サマンオサの情勢やアリエルたちの事情は把握していても、肝心の偽王側については、知らないことが多すぎた。大臣の能力は、もはや人間を超越している。
 セラとケインは、せめてサーラたちだけでも助かるよう、本当はわざと希望を込めて言い放ったのではないか? 考えれば考える程、サーラは自責の念に駆られていった。
「サーラ……大丈夫?」
 モエギの声で我に返ると、サーラは吐息を震わせた。白い息は、雨に打たれ霧散していく。
「何故、このような事態を想定して、彼らにもキメラの翼を持たせていなかったのだろう……。しかも、まんまとあの鏡を奪われてしまった……」
 どこか、自分の中に慢心があったのだ。今まで様々な出来事を乗り越えてきた、今回もきっと上手くいく、と。
 サーラは外壁に拳をぶつけ、痛烈な衝撃を報いとして、微動だにせず受け止めた。今度は頭を打ちつけようとすると、モエギに無理矢理外壁から引きはがされた。
「サーラ、やめてよっ! そんなことしても、セラさんたちのためにならないよ!」
「だが、私のせいで……!」
 やみくもに頭を振るサーラを押さえつけ、モエギは普段見せることのない、厳しい眼差しを向けた。
「サーラだけのせいじゃない。あたしだって油断したし、セラさんたちもああなるとは思ってなかったよ! だけど、必ず戻るって言われた以上、あたしたちもそれを信じなきゃ!」
 それは、自身にも言い聞かせるための言葉なのだろう。モエギは口元を強く結び、耐え難い悔しさを懸命に抑えようとしている。
 サーラがすまない、とうなだれると、モエギも手を離し、互いに沈黙したまま町の中に入った。
 洞窟に向かう前、クラリスが教会ならば自分たちを受け入れてくれるはず、と口にしていた。それだけを確認し合い、さびれた町並みの中を黙々と歩く。
 やがて教会が見え、扉を叩くと、神父らしき壮年の男性が出迎えた。だが、神父はサーラの顔を見るなり、この世のものではない存在と対面したかのように激しくうろたえ始めた。まだ焦げ臭い匂いがするのだろうか、とぼんやり思うが、アリアハンで聞いたセラの話が蘇る。
 ほとんどの者が目にしたことのない、精霊神ルビスの肖像画をセラに見せたのは、まさしくこの神父なのだ。
「あの! あたしたち、怪しい者じゃなくて、ここに仲間が……」
 理由を知るはずがないモエギが言い募ると、奥からぱたぱたと誰かが駆け付けてきた。
「神父様、どうしたの?」
 現れたのは、やや短めのくせがある黒髪をした、小柄で愛らしい顔立ちの少女だった。サーラに目を留めると、彼女もまた、大きな瞳をこぼれんばかりに見開く。淡い桃色の唇が、ルビスさま、と音もなくつぶやいたのが、はっきりと見てとれた。
 だが、彼女は神父より分別がつくようで、中に入るよう告げるとすぐに奥へと通してくれた。濡れねずみのサーラたちに手近なタオルを渡し、少女は麻のワンピースをさばき、応接室の扉を開け放つ。
 そこには、一通の文書と険しい目付きで向かい合う、アルトが座っていた。
「アルト!」
 たまらずサーラが呼ぶと、アルトは弾かれたように顔を上げた。
「サーラ! モエギ! 無事だったのか!」
 アルトが呼んだ名に、少女もまたサーラたちに注目する。アルトは文書を手に目の前まで来ると、視線をさまよわせた。
「あれ、あの二人は……?」
 一部始終を話すと、束の間明るさが戻ったアルトも肩を落とした。傍らで話を聞いていた少女は、おずおずと進み出、ためらいつつも口を開いた。
「あの……。こんな時に、話すのも心苦しいのですが……。わたし、アリエルといいます。ルイーダさんと、アルトから、あなたたちのことも聞きました」
 サーラとモエギは、揃って少女の方を向く。この少女が、サイモンの娘アリエルだったのか。聞く暇もなかったが、彼女がここにいるということは、アルトとジャックは作戦に成功したのだ。
 アリエルは丁寧に礼を述べ、同時にルイーダの酒場での件を深く詫びた。
「ルイーダさん、クラリスさん、それと、セラさんとケインさんも、わたしを守ろうとして闘ってくれました。なのに……結局はシゲルが、ルイーダさんたちを傷付けてしまった」
 服の裾を握りしめ、アリエルはきつく目を閉じた。
「あなたたちにとって、ルイーダさんがとても大切な存在だっていうのを知りました。なのに、こんなこと言ったら、図々しいと思うけれど……どうか、シゲルを許してください」
 ルイーダの声が脳裏に浮かぶ。あの子が、憎みきれなくて、と。
「シゲルは、本当は絶対、あんなことをする子じゃないんです……! 恨むのなら、わたしを恨んでも構わないから、お願い……!」
 涙混じりに訴えるアリエルを見下ろし、困惑を覚えつつアルトに視線を移す。シゲルのことを尋ねると、アルトは二階の方を見上げた。
「大丈夫。クラリスが、破邪の術でシゲルを救ってくれたんだ」
 今は二人とも、客室で眠りについているという。彼女はシゲルを救うことで、アリエルの助けになったのだ。
 クラリスが目覚めたら、労いの言葉をかけよう。サーラは屈み込み、ひたすらに頭を下げるアリエルの顔を覗き込んだ。
「アリエル。顔を上げてくれないか」
 そっと面を上げる少女に、サーラは微笑みかけた。
「お前も、今までどんなに辛かっただろう。シゲルの行いは、簡単に許せるものではないが……ルイーダさんも、私たちも、本当に許してはいけない者を知っているから、お前たちを責めたりはしない。だから、もう心配するな」
 アリエルは潤んだ瞳でサーラを見つめ、ありがとう、と小さく囁いた。同時に、不思議そうに首を傾げる。
「あなたは……似ているけど、違う」
 アリエルのつぶやきの意味は、サーラにしか理解出来なかった。否、サーラですら、まだひどくおぼろげな事柄なのだ。彼女もまた、例の肖像画を目にしたことがあるのだろうか。
「と、とにかく、アリエルとシゲルのことは大丈夫みたいだね。良かった」
 モエギが明るく笑いかけたが、笑顔は長く続かなかった。
「ねえ、アルト君……あいつは?」
 途端に、アルトとアリエルの表情が曇る。確かに、ここにいるべきはずの人間が、もう一人足りない。
「アルト。ジャックに、何かあったのか?」
 サーラが尋ねると、アルトは握っていた文書を広げてみせた。色あせた羊皮紙には、固まった血のようなインクで、こう書かれていた。

『逃げ遅れた銀色の鼠を一匹、捕らえてある。
 鼠の命が惜しくば、今日中にサイモンの娘を連れて謁見の間を訪れよ。
 さもなくば、鼠を一握りで潰すと思え』

 アルトは低い声音で、王城に潜入した時のことを打ち明けた。さらに、王城から脱出した後、追っ手が来ないかアルトが見張っていると、一人の兵士がこの文書を手に教会を訪れたのだという。
 モエギはあらぬ方向を見つめ、拳を握りしめる。
「あいつ……何、やってるのよ。いつもならここで、勝手にふざけたこと言ってるでしょ……」
 口調は変わらないが、血の気が失せている。震える拳を見て、アルトが弁護した。
「ジャックは、何回もモシャスを唱えていた。精神力が底を尽きて、抵抗出来なくなったのかもしれない。ごめん、俺の責任だ」
 重苦しい空気がのしかかる。ジャックまでもが、魔の手にかかってしまったというのか。しかも、アリエルと引き換えに人質となって。あの男にとっても不本意極まりないだろう。
「奴らは、そうまでしてお前を狙うというのか? 一体何故?」
 アリエルに問うと、少女は胸の前で手を組んだ。
「……それは、多分、わたしや父が、魔王と相反する一族の血を引く者だからです。そして、アルトも、元はわたしたちと同じ一族なんです」
「何だって……?」
 当のアルトも聞かされていなかったのだろう、まじまじとアリエルを見つめる。それはすなわち、オルテガとサイモンも単なる盟友ではなく、遠縁の親族だったということだ。
 サーラやモエギも目を見張る中、アリエルは静かに告げた。
「その話は、全てが終わってからします。どうか、あの人を助けるために、わたしも城へ連れて行って」
 アリエルの口振りからして、アルトは彼女を再度連れ出すことを渋っていたのだろう。必要以上に誰かを危険に晒したくない、いかにもアルトらしい気遣いである。だが、アリエルの申し出と、落ち着いたたたずまいに、サーラは少女の揺るぎない意志を感じ取った。
 万が一、何かあったとすれば一族の話を聞けぬままになるかもしれない。しかし、彼女は必ず仇敵を討ち、サマンオサが解放されると信じている。その上でアルトに頼んでいるのだ。
 それは、セラたちと同じく、最悪の事態より未来を目指し、そこに在り続けようとする、ひたむきな心の表れなのだ。
 サーラは、おめおめと城下町に戻って来た時とは別の意味で、自分の浅はかさを思い知った。守らねばならない、と一心に追い求めていた少女もやはり、英雄の子であったのだ。
 アルトは、アリエルの真っ直ぐな眼差しを受け止め、意を決したようにうなずいた。
「分かった。日が落ちたら、四人で行こう。今晩で、決着をつける」
 サーラもモエギも、同様に心を決める。
 雨雲は、もうすぐ闇に染まろうとしていた。