唯一の責任 7



 サマンオサの城下町から南にそびえる山地を越え、さらに南下した所にある洞窟に、ラーの鏡は保管されているという。アルトたちと早朝に分かれ、サーラとモエギ、そしてセラとケインは山の中腹に差しかかっていた。
 徴兵に駆り出された者たちが軒並み魔物に襲われ、命を落としていると聞いていたため、サーラたちも常に警戒しながら先を進んでいた。だが、遭遇したのは魔の力を帯びた大猿と大亀のみで、いずれも群れではなく一度に数匹程度だった。これにより、サーラは魔物討伐に向かった兵士団が、意図的に各地で魔物に壊滅させられたと確信した。
 魔法の使い手三人が城下町に潜入したため、もっぱらサーラたちはセラの容赦ない呪文攻撃に助けられていた。喜々として大猿を真空魔法で切り裂く彼女に、内心魔物並みの恐怖を感じつつも、肩を並べて闘える力量を持つ夫婦は頼もしい限りであった。
 天を仰いでも、一向に曇天から陽が差す気配はなく、それどころか小雨が降るようになった。山林は未だ冬の名残を残したままで、一行は寒々しい山道をひたすら登る。
「あ〜、お腹空いた〜。ねえ、一回休憩しない?」
 最後尾を守るサーラの前方でモエギが立ち止まり、空腹を訴えた。朝早くにルイーダの酒場で朝食を摂ったきり、水しか口にしていないため、サーラも賛同した。
「そうだな。どこか、雨をしのげる所を探して昼食にしよう」
「待ってました! セラ、昼ご飯にしよう!」
「昼食はいいけど、あんたはピクニックにでも来たようなうかれようだね」
 先頭から無邪気に振り返ったケインを、セラが呆れたように見上げる。妻の皮肉にも、彼は謎の照れ笑いを返すのみだ。
 岩がせり出し、丁度ひさしのようになっている場所を見つけると、魔物の気配がないことを確認しその場に落ち着く。ケインが鼻歌を歌いながら聖水を振りまいている間、セラは酒場の女衆から渡された弁当の包みを広げた。たちまちモエギが歓声を上げる。
「わ〜っ、おいしそう!」
「あら……随分手の込んだ昼食だね」
 セラも感心したように息を漏らすと、慌ててケインもすっ飛んでくる。いかほどのものか、サーラも覗き込んでみた。
 竹皮を敷いた編みかごの中に、肉厚の葉野菜で巻いた包みが所狭しと詰め込まれている。葉の中からはタレをまとった牛肉や、赤や黄といった細切りの野菜が顔を出しており、見た目にも食欲をそそる。それとは別に、堅焼きの拳ほどのパンが人数分用意されており、練り込まれたくるみの粒がうかがえた。
 早速モエギが肉を巻いたものに手を伸ばし、大口を開けて頬張ると、目をきゅっと細めて何とも幸せそうな表情になった。
「おいしー! この甘辛いタレとお肉が最高! 全部食べたいくらい!」
「ちょっと待ってくれ、全部食べるのなら僕が全力で阻止するからな!」
「あんたら、譲り合いとか分け合いの精神はないのかい!」
 即座にセラに叱られ、「あたしは例えで言ったのに……」とモエギがしょんぼりする。サーラは苦笑しつつ、野菜を巻いた方を口にしてみた。こちらは鶏肉をゆでて裂いたものも混ざっており、酒場の者たちの心遣いに感謝しながら、ゆっくりと様々な触感を楽しんだ。
 セラはケインが手を出しすぎないように監視しつつ、一口大にパンをちぎって口の中に入れると、満足そうにうなずいた。
「ねえ、セラさんたちって二人で旅をしてたんでしょ? どっちが料理当番とかってあるの?」
 比較的誰とでも打ち解けるモエギは、セラとも数日の間で慣れ合ったようだ。セラは肉を巻いた方ばかり取るケインから一巻き奪うと、モエギに与えた。
「大体はこの人にやってもらってるよ。ワタシは家を出るまで料理とか、一切やったことなかったから」
「そういえば、セラどのの出身はどこなのだ?」
 サーラが尋ねると、セラはわずかに身構える。ほんの一瞬のことなのだが、彼女はやはり、サーラが精霊神ルビスの肖像画と酷似していることが気になるのだろう。とはいえ、ケインやモエギが気付かない程度の反応なので、気にしないようにしている。
「……そういえば、バタバタしていてそういう話もしてなかったね。ワタシは、ロマリアの教会の娘だったのよね」
「えっ!? あの、立派な教会の?」モエギが身を乗り出す。
 かつて、アリアハンを発って間もない頃、初めてロマリアを訪れた時、アルトが無邪気な瞳で美しい教会を眺めていたのを思い出す。サーラの胸に懐かしさがこみ上げた。
「そう。うちは厳しくてね、神学の勉強以外ろくなことをさせてもらえなかった。物心ついた時からワタシは、あの教会を出て、世界のことを知りたいと思ってた」
「じゃあ、ケインさんとはどこで知り合ったの? 聞きたいな〜」
 元々人の馴れ初め話が好き、という以上に、モエギはどこかそわそわとした様子でセラに期待の眼差しを向ける。確かに興味深い話なので、サーラも手を止め、じっと視線を送ると、セラは無造作にパンをむしり出した。
「ああもう、ピクニック気分なのはあんたたちも一緒かい! ほら、あんたの出番だよ!」
 セラは夫に丸投げすると、むしったパンを口に放り込み、だんまりになってしまった。ケインは微かに頬を染める妻を見て、生き生きと話し始めた。
「いやあ、セラとの出逢いは昨日のことのように思い出せるよ。あれは四年前、僕がポルトガ城の兵士をクビになった頃だった」
 理由は不明だが、クビになったのは何となく納得がいく。黙々とパンを食するセラの隣で、ケインは夢見心地の乙女のように目を細めた。
「セラと出逢ったのはね、ポルトガの関所の手前だった。通りかかったセラが、魔物に襲われた僕を助けようとして怪我を負って、僕が介抱したのがきっかけさ」
「何だか、ややこしい出逢いだな」
 サーラのつぶやきに、モエギもこくこくとうなずく。
「セラは女性の身一つで、巡礼の旅を始めたばかりだった。僕はそんなセラの力になりたいと思い、冒険者となって一緒に旅に出たんだ」
「へえ……。セラさんは、それを簡単に許したの?」
 問いかけられ、セラは喉が詰まりそうになったのかむせた。ケインに背中をさすられながら、何とか答える。
「最初は、身の回りのこともそつなくこなすし、便利そうだなと思って承諾したのよ。その代わり、指一本でも触れたら八つ裂きにするって契約を交わしてね」
 セラだと本気でやりかねない、とサーラは内心冷や汗をかいた。だが、何故その結果夫婦となったのだろう。
「僕はもう、セラに一目惚れだったから、八つ裂きにされないようにするので必死だったよ。だけどまあ、旅は道連れ世は情けと言ってね、夫婦になったんだ」
「……あたしたちが聞きたかったのは、今ケインさんがはしょった所なんだけど」
 モエギが気を削がれたように肩を落とす。すると、セラは嘆息を挟み、思いの外穏やかな声で付け加えた。
「ワタシは、この通りの性格でね。家族も周囲も、ワタシを恐れてご機嫌をうかがうばかりだった。だけど、この人は臆せずにワタシに接するし、何を言っても動じないのよ」
 それはそれでどうかと思うが、彼女は怒鳴りつける場面でなければ、夫のことを普通に呼んでいることに気付く。さらに、セラはこんなことを言った。
「だけど、ワタシは一回だけ、この人に本気で叱られたことがあってね。まあ、普段はこんなだけど、それがきっかけで気持ちが変わった訳」
 初めて見るセラのしおらしい姿に、ケインは当時のことを思い出したのか、しきりにうなずいている。
「うんうん。まあ、時々セラの言葉運びは死の呪文に等しいけど、これでも僕のことを信頼してくれているんだよ」
 子供をあやすように頭を撫でるケインの手をひっぱたくと、セラは法衣についたパンくずをはらった。
「まあ……ある一つの出来事が、関係を変えたりするのは、よくあることかもね。それよか、あんたが何であのちゃらついた男を好きなのかの方が、よっぽど興味があるけどね」
「なっ……!?」
 モエギは素っ頓狂な声を上げ、全身をわなわなとさせる。
「べっ、別に、あたしとあいつは何でもないし! セラさんたちと違って、話すようなこともないし……」
「お〜っ、やっぱり僕の読みは正しかったね! さあさあ、お兄さんお姉さんに話してごらん!」
「ケインさんはあたしのこと何歳だと思ってるのよ!?」
 例のちゃらついた男とそう歳の変わらない夫婦にあたふためくモエギ。その後方で、何かの影がうごめいたような気がして、サーラは素早く剣の柄に手をかけた。
「お喋りは後にしろ! 何か……いる!」
 モエギたちもすぐさま臨戦態勢に入るが、魔物が飛び出してくる気配はない。だが、林の奥からじっとこちらを見つめる者を捉え、サーラは眉をひそめた。
 姿形は人間だが、奇妙な面を被っている。しばらく睨んでいると、腰みのを揺らして斜面を下っていってしまった。
 何者かと訝っていると、セラが構えを解き、ため息混じりに髪をかき上げた。
「あれは……確か、この地に古くから住んでいるシャーマンだね。厄介なのに見つかっちまった」
「そのシャーマンとやらも、バラモスの息がかかった者たちなのか?」
 セラはこちらを見ず、厳しい面持ちで林の向こうを見つめている。
「元々は南の洞窟を守るため、その周辺に集落を構えているっていうけど、あの様子だと偵察に来て、誰かに報告しに戻っていった、って所だね」
「それじゃあ、このまま下っていくと闘う羽目になるかもしれないってこと?」
「だろうね。食事の後は運動、運動!」
 ケインは鋼の剣を抜くと、軽い身のこなしで空を斬った。剣を抜くと別人のように表情を引き締めるケインに負けじと、モエギも使い込んだ鉄の爪を右手にはめ、準備運動を始めた。
「日が暮れる前には、洞窟に着きたいものだな……急ぐぞ!」
 サーラが号令をかけると、一行は手早く荷物をまとめ、先を急いだ。



 依然、女装したままのアルトは、シゲルに扮したジャックと共に、角部屋の扉の前で足を止めていた。アリエルが本当にいるのか確証は持てないが、金の花模様をあしらった青い扉が、王族の子女用の部屋であることをうかがわせている。
 ジャックはひとつ息を吸うと、荒々しく扉を叩き、呼びかけた。
「おれだ。いるなら返事をしろ」
 潜入時から、ジャックの演技力はなかなかのものである。無機質な声が届いたのか、程なくして扉の向こうから返答があった。
「……シゲル?」
 か細い、少女の震えた声。息を呑むアルトの隣で、ジャックは扉を開けようとしたが、鍵がかかっているらしくびくともしない。
「内側から開けてくれ」
 口にして、ジャックは苦笑してみせる。表情が動くと、シゲルの顔は一転してごく普通の青年に映った。やや間があって、戸惑い気味な返事が耳に届く。
「こっちからは、開けられないよ。侍女の人が、外側から鍵をかけたら、内側からは開けられないって言ってた」
 ジャックは曖昧に相槌を打つと、アルトに『力ずくで開けるぞ』と口の動きだけで示した。
「でも、そんなことしたら他の兵士が来るんじゃ……」
「ならお前、これからしらみつぶしに鍵持ってる奴捜すのか? 本物のシゲルが持ってたら余計面倒なことになるぞ!?」
 あくまで小声で、アルトの懸念をはねのけるジャック。渋々従うことにしたアルトは、自分の衣裳を気にかけつつも問いかけてみた。ここまで来たら、正体を偽る必要はない。
「……君は、アリエルかい?」
 彼女は、シゲル以外の人間が間近にいると思わなかったのだろう。分厚い木製の扉を挟み、手のひらを押し付ける音がした。
「あなたは……もしかして」
 驚愕に満ちた声は、互いを認識するのに十分だった。アルトはジャックにうなずきかけると、同時に扉に向かって体当たりを開始した。
 なりふり構ってなどいられない。ようやく、辿り着いたのだ。
 扉は頑丈だったが、特に魔法などで封じられてはおらず、物理的な衝撃を辛抱強く与えることで裂け目が生じた。身体の痛みもものともせず、渾身の力を振り絞り扉にぶつかると、勢い余ってアルトたちは破壊した扉に突っ伏した。倒れた扉の振動は、おそらく城中に伝わったことだろう。
 ほこりが舞う中、咳き込みながら身体を起こすと、部屋の隅で何かをかばうようにうずくまる少女の姿が見えた。
 くたびれた旅装を纏うきゃしゃな肩を震わせ、怖々とアルトを見上げる双眸は小動物のように黒々としている。少年のような短いくせっ毛の黒髪が、かえって彼女の幼さを強調させていた。
 はっきりとアルトの姿を確認した少女は、目に見えて硬直した。よもや、海を越えてまで追い求めた英雄の息子が、このような姿で駆け付けるとは夢にも思わなかっただろう。いっそ下着姿の方がましだ。
 いつの間にか元の姿に戻ったジャックを恨めしげに一瞥すると、アルトは放心状態に近い彼女に歩み寄り、屈み込んだ。
「こんな格好で、初めましてって言いたくないけど……。俺は、オルテガの息子の、アルト。君を、助けに来たんだ」
 出来るだけ優しく話しかけると、少女は茫然とアルトを見つめたまま、手枷のついた腕を緩めた。その拍子に美しい長毛の猫が飛び出し、アルトの匂いをふんふんと嗅ぎ回ると、少女に向かって一声鳴いた。まるで、大丈夫とでも伝えるかのように。
「手を出してごらん、お嬢ちゃん」
 背後から起き上がったジャックが声をかけると、少女は銀髪の輝きに吸い寄せられるようにして、両手を差し出した。ジャックは短剣を取り出すと、メラを唱え手枷を熱し、固さを失った鎖を断ち切る。甲高い音が鳴りやむと、少女は自由になった手首を押さえながら二人を交互に見、澄んだ瞳で名乗った。
「わたしは……アリエル。あなたが、アルト……それと、ジャック?」
「あら、オレのことも知ってるの?」
 ジャックが新緑の瞳を瞬かせる。アルトは女装している事情を説明しようとすると、アリエルが視線をさまよわせていることに気付いた。
「……シゲルは、どこ?」
 心ここにあらずといった様子のアリエルに、ジャックが種明かしをすると、彼女は急に取り乱した。
「どうしよう、このままじゃ、シゲルがまた誰かを傷付けてしまう……!」
 今にも部屋を飛び出しかねないアリエルを押さえつけ、アルトは彼女を落ち着かせようと言葉を紡ぐ。
「アリエル、シゲルのことは俺たちの仲間が助けてくれる。君は今すぐ、俺たちとここから逃げるんだ!」
「でも……っ!」
 渋るアリエルの両肩に力を込め、アルトは語気を強めた。
「俺たちは、君とシゲルをもう辛い目に遭わせないために、ここに来たんだ! だから、俺と一緒に来い!」
 アルトの鬼気迫る表情に、アリエルは言葉を飲み込んだ。さらに目で訴えかけると、彼女もしっかりと見つめ返し、うなずいた。
 すると、廊下の向こうから鎧の軋む音と共に複数の足音が聞こえてきた。予想はしていたが、早速騒ぎを聞きつけたようだ。ジャックが立ち上がり、八重歯を覗かせる。
「おうおう、暇人どものお出ましか。アルト、ここはオレが何とかするから、アリエルちゃんを連れて逃げろ!」
「ジャック!?」
 言うなり、ジャックはモシャスを唱えると、たちまちアリエルに変身した。当の本人は子供のように目をぱちくりさせ、ぽつりとつぶやく。
「わたしが……もう一人?」
 足音は廊下の角まで迫っている。ジャックは少女の愛らしい顔をいからせ、アルトたちを追いやった。
「行けっ!」
 本人も目にしたことがないであろう、凄まじい形相に気圧されるようにして、アリエルは自らアルトの手を引っ張り部屋を飛び出た。後ろ髪をひかれる思いでジャックを見やると、少女の顔には彼自身の覚悟が宿っていた。
 後は頼んだ。互いに意思を通い合わせ、アルトはアリエルを匿い兵士たちの群れに突進していった。あまりの速さと、もつれ合う二人の姿をはっきり捉えられず、半分以上の者が突き飛ばされてよろめく。
「侵入者だ! 引っ捕らえろ!」
 広間に出ると、さらに十人程の兵士が群がっており、後方からも五、六人が迫ってくる。アルトはアリエルをかばいながら、唸り声を上げてしなってくる槍を護身用の短剣で退ける。
「脅威を薙ぎ払いし、吹き付ける火炎! ギラッ!」
 ふいにアリエルの手中が閃いたかと思うと、炎の渦が後方の兵士たちを足止めした。確か、サイモンは魔法の心得がなかったと聞いたことはあったが、どうやらアリエルには魔法の才があるようだ。
 アルトも同じくギラを発動させ、襲いかかる兵士たちをひるませながら、先程までいた地下牢を目指す。牢屋の守衛ならば、事情を理解してくれるはずだ。
 そこで、アリエルがじゅうたんに足を取られ転倒した。好機を逃さず、数人の兵士がアリエルを狙い槍を振り上げる。アルトは即座に間に入り、短剣で槍の柄を阻む。痛烈なしびれに顔をしかめながら、無意識的に詠唱した。
「ベギラマッ!」
 たちまち燃え上がる槍を容赦なく兵士に押し返す。炎を帯びた槍は床に転がり、じゅうたんに火が燃え移ると、兵士たちは恐れをなし立ち往生した。炎上する城内を青ざめた顔で凝視するアリエルを起こし、アルトは一目散に地下牢へ転がり込んでいった。



 上の階の騒々しさが伝わっていたのだろう、守衛の中年の兵士はいきなり飛び込んできたアルトに何事かと問い質してきた。だが、アリエルを伴っていることを知ると、他の見張りに誰一人通さぬようきつく命じた。
 牢屋の者たちも、皆鉄格子にかぶり付きこちらをうかがっている。アルトは息を切らしながら、アリエルと守衛に尋ねた。
「この奥に、本物の国王がいるんだったよな?」
 アリエルは父から聞いただけなためか、守衛を仰ぐ。守衛はそっとアリエルの肩に手を置いた。
「……そうか。サイモン様は、この奥を抜け、娘のお前に陛下のことを伝えたのだな。そのように手引きしたのも、我々があの方ならばと、望みを託したため」
 おそらく、顔見知りなのだろう。アリエルは一礼し、思いつめた表情で語った。
「父のこと、ありがとうございます。父はきっと、自分の身にもっと危険が及ぶのを承知の上で、わたしに会いに来てくれたんです。父はもうこの国にいないし、わたしも捕まってしまったけれど……アルトが助けてくれた」
 アリエルはかろうじて微笑んだが、胸の内は父と引き裂かれた悲しみ、悔しさに満ちているだろう。アルトは呼吸を整え、自分たちの作戦を守衛に打ち明けた上で、更なる考えを表明した。
「俺は今からアリエルと、この先にいる国王陛下を城下町へ連れ出す」
「……陛下を?」
 眉根を寄せる守衛に、アルトがさらに続けようとすると、アリエルが割って入った。
「ほとんどの人は、国王様が偽者にすり替わっていると気付いていません。本物の国王陛下を白日の下に晒し、今わたしたちの国を狂わせているのは全く別の存在だと知らせるように、父は言い残したんです……」
 国を追われても尚、サイモンの意志は英雄の子たちに息づいていると悟ったのだろう。守衛はついて来るように手招きをし、奥から一抱えの布袋を持ってくると、牢屋の突き当たりを右に曲がった行き止まりで足を止めた。
「ここの壁を押すと、回転して奥の通路へと進めるようになっている。一本道を行けば、陛下のおわす牢屋が左手にあり、さらに進むと城下町へと出られる」
 それと、と守衛は布袋を丸ごとアルトに押しつけた。中には兵士用の小ぎれいな着替えが入っており、守衛はしかめっ面でアルトの侍女姿を眺めた。
「その格好で陛下をお救いするなど、無礼にも程がある。返さなくていいから、それを着ろ」
 ぶっきらぼうな守衛の心遣いに、アルトは素直に感謝を述べた。既に侍女の装いはずたぼろになっていたし、守衛の言うことはもっともである。
 手早く着替えを済ませると、壁の向こうへ進む前に、アリエルが守衛と向かい合い祈りを捧げた。
「あなたたちのような、道を違わず信条を貫く者と、全ての罪なき者たちに、光が訪れんことを……」
 一心に頭を垂れるアリエルは、話に聞いた通り精霊神ルビスの敬虔な信者のようだ。守衛も静かに目を閉じ、祝福を受けていたが、顔を上げると暗い面持ちで告げた。
「……本当は、サイモン様も脱獄の際、陛下をお連れしようとしていた」
 アルトとアリエルが揃って目を見開くと、守衛は視線を落とした。
「だが、陛下はご自身が逃れることで、城下町の方に直接被害が出るのを恐れ、ここに留まられた。さらに、脱獄を手助けした我々が罪に問われぬよう、サイモン様は我々を脅して脱獄したという虚言を口にし、重罪となったという」
 アリエルは顔面蒼白になり、息をするのも忘れその場に立ち尽くした。それでも地下牢の兵士たちに疑いがかけられ、上司の自分をかばって二人の兵士が刑に処されたと、彼はこぼした。
「お前たち……特に、アリエル。お前に話すには、あまりに酷なことだとは思う。我々を許し難く思うだろう。だが、サイモン様の意志を、決して無駄にするな。お前たちがこの国を救おうというのなら、我々はこの身をもって追撃を食い止める」
 しだいに、一階の方から兵士たちの足音が迫ってくる。守衛は切実な瞳で、行くように促す。アルトが頭を下げ、アリエルに声をかけると、彼女は白い手を震わせ、守衛の固い拳に触れた。
「……あなたも、死なないで。そうじゃないと、父さんもわたしも、あなたを許さないから」
 アリエルは踵を返し、アルトを横切り壁に手をつく。少女の細い身体に、あまりにも沢山のものを背負って。



 隠し通路には一切の明かりがなく、アルトはメラの灯火を松明代わりに、湿っぽく細長い通路を早足で進んでいった。後方から争いの声が飛び交うのも、時間の問題だろう。
 ようやくまともな服装に戻り、足取りもいくらか軽くなるはずが、むしろ心身共に重みが増すばかりだった。何度目かの角を曲がった所で、無言で後をついて来たアリエルがふいに立ち止まる。
「どうしたんだ?」
 振り返ると、アリエルは来た道をしばし見つめ、口を開いた。
「わたしたちを逃がして、ひどい目に遭わないかな。ジャックさんも、わたしのふりをして、ひどい扱いを受けていないかな……」
 か細い囁きに、守衛の告白を受けても彼らの身を慮っているのが伝わってくる。同い年だと聞いているが、アルトは妹に接するように、アリエルの肩に手をかけた。
「心配するな。まだ兵士同士なら深刻なことにはならないだろうし、ジャックは君や俺よりずっと強かで、上手く立ち回れる奴だから」
 本音としては、敵の陣中に一人残ったジャックが同じく心配だったが、今はサーラたちやクラリス同様、離れている仲間を信じるしかない。
 アリエルは向き直ると、光の失せた目を伏せる。
「でも……わたしのせいで、沢山の人が傷付いた。父さんやシゲル、ルイーダさんだけじゃない。わたしと同じ船に乗っていた、沢山の人たちが海に投げ出された時の悲鳴が、今でも思い出せる……」
 アリエルは、アルトより頭一つ小さな身体を強張らせ、絞り出すような声で吐露する。
「わたしは、父さんやシゲルを助けると誓ってこの国を出たけど、その間に沢山の人が犠牲になった。そして結局、わたしの力では誰も助けられなかった……。このままじゃ、わたし、父さんに顔向けが」
「アリエル」
 ひたすら自分の無力さを悔いるアリエルを制し、アルトはあえて厳しい口調で問いを投げかける。
「もう、起こってしまったことを悔やんで何になる? 君のそんな姿を見たら、サイモン様は怒るだろうな」
「……父さんが?」
 アルトは強くうなずいた。
「確かに、君がアリアハンで匿われたからシゲルがやって来て、ルイーダさんたちが巻き込まれたのはある。だけど、一番傷付いているのは君だ。それなのに、まだ自分を責めていたら、サイモン様も怒るよ。君は誰よりも勇気を持って、この国を出たはずなのに」
 痛みをこらえるように、アリエルは小作りな唇を噛み、こちらを睨んだ。
 こんな眼差しを、以前も向けられたことがある。心を引き裂かれ、これ以上の痛み、苦しみがあるかと瞳の奥で叫ぶ、愛する人の記憶。
 目の前の少女がいたたまれず、アルトはそっと、いたわるようにアリエルを包み込んだ。親愛の念を込めて、懸命に語りかける。
「ルイーダさんやシゲルは、君を守るために戦ったんだ。サイモン様は、平和が戻ったサマンオサで、君に笑って生きて欲しいから、自らを犠牲にして出来る限りのことをしたんだ。
 もう、一人で全てを背負わなくていいんだ」
 身体を離すと、アリエルの表情が一気に崩れ、瞳にはたちまち涙が盛り上がった。だが、彼女はしゃにむにそれを振り払う。決して泣くまいと、一心に口を結び、アリエルは答えの代わりに深くうなずく。
 彼女はきっと、アルトが想像するよりもずっと凄惨な光景を目の当たりにしてきたのだろう。その胸中は計り知れないが、彼女の瞳にはわずかながら、光が戻っていた。
 アリエルは、自らも再び戦うことを決意したのだ。祖国を、大切な者を、取り戻すために。その時まで、もう自分を責めまい、と。
 アルトはそれ以上言葉をかけず、勇気付けるようにうなずきかけると、再び歩き出した。
 暗がりの中をしばらく進んでいくと、左手に松明以外の明かりを発見した。通路の左右に、小部屋程の広さを持つ牢屋が向かい合せになっている。
 左手の牢屋を覗き込むと、古びたチェストの上に置かれたろうそくの明かりがぼんやりと中を照らしている。簡素なベッドにはやつれた白髭の老人が伏せっており、アリエルは老人の顔を見るなり突き破るような勢いで鉄格子にしがみ付き、呼びかけた。
「国王様!」
 やみくもに鉄格子を揺らすアリエルを止め、アルトは鍵なしで開けられるように取り替えられている錠を外した。アリエルはすぐさまベッドに飛びつくと、力なく目を閉じているサマンオサ国王を揺さぶった。
「国王様、わたしです! サイモンの娘、アリエルです!」
 呼びかけに対し、国王はうっすら黄玉色の瞳を開き、虚ろな目付きでアリエルを捉える。アルトも隣に寄り添い、しぼんだ毛布に手をついた。
「国王様、俺はアリアハンのオルテガの息子、アルトです。アリエルと共に、貴方を助けに来ました」
 サマンオサ国王は、いくつかの名をつぶやき、しわだらけの手を差し出した。やせ細った手を、アリエルが厳かに両手で包む。
「そうか……大きくなったの。そなたは、父の面影がある」
 後の言葉はアルトに向けられたものだった。アルトは目礼すると、事の次第を説明した。
 サイモンがここを訪ねた時から、状況は大きく変化している。アルトたちが駆け付けた今、それでもここに留まろうとは思わないはずだ。
「どうか、俺たちと共に、城下町の方へ避難して下さい。貴方が無事だと知れば、どれだけこの国の人たちが心強いか……!」
 国王は徐々に視点が定まってきたようで、じっとアルトの訴えに耳を傾けていた。だが、しばし天井を見上げ、独り言のようにつぶやいた。
「……臣下に、まんまと騙され、玉座を明け渡したこの儂を、今更国王と崇める者がおろうか」
 アルトたちが目を見張ると、国王は遠い目で語った。
「政務大臣は、儂の国政方針に、以前から不満を持っておった。何故国を挙げ、魔物討伐、ひいては魔王バラモスを討つため、施策を講じないのか……と。儂はそれよりも、国と民の安全を第一に考え、サイモンのような勇猛な者たちを出兵させず、国防に従事させた……」
 確かに、大臣の言うことも一理ある。アリアハンこそ、魔王討伐のため諸国の援助を請い、アルトを送り出してはいるが、他国では同じように討伐隊を派遣するか、精鋭を向かわせるといった大々的な対策をほとんど行っていない。事実問題、大体の国がサマンオサと同じく、脅威を増す魔物たちから民の安全を守ることで手一杯なのだろう。
「ということは、大臣は政変前から、軍事に力を入れようとしていたのですか?」
 アリエルの問いに、国王は力なくうなずいた。
「しかし、サイモンは儂と同じ考えで、凶悪な魔物が多く棲息する国内の安全対策を重視した。この国の英雄であり、多くの者から慕われるサイモンの意見が尊重されるのが、当然の風潮としてあった。そうした鬱屈が、限界に達したのだろう……。ある日、大臣は、国宝である変化の杖を無断で持ち出し、儂と瓜二つの何者かを玉座に据えおった」
 国王は抵抗したというが、自身の偽者に人のものとは思えない怪力で打ちのめされ、あえなくこの地下牢に幽閉されたという。
「儂に牙をむいた、あの大臣は、最早正気の沙汰ではなかった……。だが、あやつの考えを、儂はもっと汲んでやるべきだった。人望厚く、サマンオサの大地を古くから守護する一族である、そなたの父を、儂もまた、一人の人間として尊敬しておったのだ……」
 アリエルは何度もうなずき、国王の手を強く握りしめた。サイモンとアリエルが特別な一族であるというのは、初耳だった。そのことについて詳しく知りたかったが、今は言及するのははばかられた。
 大臣は国の繁栄のため、国王とサイモンは国を守るため。双方の強い気持ちが溝を深め、そこに魔王側はつけ込んだのだ。
 アルトは人間同士のいがみ合いを利用し、破滅させようとする存在を明示した上で、国王に切願した。
「この国の人々が事の発端を知ったとしても、貴方がこの国のことを誰よりも考え、誰よりも苦しまれているのは、皆分かるはずです。サマンオサが邪悪な者から解放された時、再び民は、貴方にサマンオサを導いて欲しいと願うはずだ!」
 ひたむきなアルトの語りかけを聞き終えると、国王の顔に悔しさと、悲哀が入り混じったような表情が生まれた。
 国王はおぼつかない動作で上半身を起こし、すかさずアリエルが背中に手を添える。国王はうつむき、感極まったように骨ばった身体を震わせた。
「口惜しや……。臣下の心は離れ、儂はこの国に最も必要な者を、無下にしてもうた……。許せ、サイモンの娘よ……」
 きつく握りしめた毛布に、ぽつぽつと雫がしみを描く。国の動向は、守衛が世話をしながら知らせていたのだろう。アリエルも涙を滲ませ、ぬくもりを与えるように、頭を国王の肩にそっと置いた。
「父さんは……父は、必ず生きています。どうか、父が帰るその日までに、国王様が再びこの国を、蘇らせてください……」
 英雄の子たちの願いを直に聞き、国王は自らを奮い立たせるように、ゆっくりと顔を上げた。
「オルテガの息子、アルトよ。このような、荒んだ国に救いの手を差し伸べてくれたこと、深く感謝する。儂はこの通り、今はただの老いぼれた身。すまぬが、儂をアリエルと共に、連れ出してはくれまいか。儂を、民のもとへ……」
 アルトは承諾すると、アリエルと協力して国王を支え、牢屋を出るとさらに奥へと歩き出した。
 幽閉され、やせ衰えた身体は痛々しい程だったが、その胸に希望の光が再び灯ったのを、確かに感じた。



 やがて階段に行き着き、上った先の天井を慎重に持ち上げると、出た先は教会の墓地だった。いつの間にか雨が降っており、アリエルは国王を支えながら、雨を弾く墓石を見下ろす。
「そういえば、父さんが会いに来てくれたのも、ここだった……」
 薄手のローブしか身に着けていない国王を気遣い、アリエルの先導で裏口から教会に入ると、アルトは神父を呼びに行った。
 神父はただでさえ切羽詰った様子だったのが、国王とアリエルに引き合わせると、その場にへたり込んだ。様々な思いがないまぜになったのだろう、しばらくの間ろくに口を利けずにいた。
「神父様、心配かけてごめんなさい。まずは国王様を静かな部屋へお連れして。それから、教会にいるみんなに、本物の国王様が無事だったことを伝えて欲しいの」
 馴染み深い間柄なのだろう、神父はアリエルの頼みを聞き入れると、恐れながら、と国王の身を預かり二階の方を向いた。だが、国王は素直に応じず、神父を見据える。
「儂のことは構わぬ。アリエルと共に、民のもとへと案内してくれぬか」
 国王直々の願いを間近で聞き、神父は途端にうろたえる。無理もない、本来は滅多に接する機会がない存在なのだ。アリエルは国王の切なる思いを汲み、代わりに国王を支えると礼拝堂へ向かった。アルトも背後を守るようついて行く。
 礼拝堂は絶えず難民のざわめきで満たされていたが、アリエルと国王が姿を見せると、誰かが声を上げ、二人に集約されるように静まり返った。国王は自らの身体のみで立つと、一声放った。
「皆の者。未だ薫風の便りも遠いこの国は、魔の手に脅かされ、儂の名を騙った何者かが牛耳っておる。儂はこの国の王でありながら、城の奥底に身をやつし、ついにはサイモンを失った。全ての責任は、この儂にある」
 難民たちは、様々な視線を投げかける。驚き、戸惑い、中にはやり場のない怒りを宿して。それでも、矢面に立つがごとく、国王は微動だにしない。堪え切れず、アリエルが国王の前に立ちはだかる。
「みんな! 国王様はもう十分に苦しんでいる。今は何を言っても、苦しいのはみんな一緒だと思うけど……もうすぐ、サマンオサは解放される!」
 悪政が続き、身体を丸め、脅え暮らしてきた民にとって、にわかには信じ難いことだろう。滞った不満が次々と、非難となって国王とアリエルにぶつけられた。アルトが出ようとすると、神父が二人をかばうようにして民を鎮めにかかり、アリエルは国王を守るようにこちらへと戻ってきた。
 国王と、国を追われた英雄の娘が、どれだけの思いで今日まで生きてきたか、アルトは声の限り訴えたかったが、アリエルも国王も、口をつぐみ支え合いながら、ゆっくりと廊下を進んでいくのみだった。
 すると、国王が突然膝から崩れ落ち、とっさにアルトも身体を支えに入った。おそらく、無理をして民の前に姿を見せたのだろう。数分も経たずに神父も戻り、民のことはシスターに任せてきたと沈痛な面持ちで述べた。
 打ちひしがれた民は、希望を持つ心すら潰えてしまったのだ。彼らの混沌とした思いが解き放たれるのは、確かな平和が再び訪れた時なのだろう。国王やアリエルは、アルトよりずっとそのことを理解しているのだ。
 二階の宿泊者用の客室に国王を通すこととなり、その際神父が発した言葉に、今度はアルトたちが驚く番となった。
「実は、つい先程、教会からさほど離れていない道端で、シゲルとクラリス様が倒れているのを見つけ、こちらに保護した所でして……」
 アリエルはそれを聞いた途端、脇目もふらず客室へと走っていった。部屋に着くと、四台備えてある寝台の一つにアリエルはしがみつき、しきりにシゲル、と呼びかけている。
 意識がもうろうとしている国王を慎重に寝かせると、神父に国王を任せ、アルトはベッドに突っ伏し全身を震わせるアリエルのそばに膝をついた。
 力なく横たわるのは、まさしくジャックが化けた通りの、脂気のない黒髪とあどけなさをわずかに残した青年だった。憔悴しているが、安らかな寝息を立てており、クラリスによる浄化が成功したことを悟った。
 緊張の糸が切れたのだろう、周囲を顧みず嗚咽を漏らすアリエルの肩をそっと叩き、アルトは隣の寝台に移る。
 同じく、眠りについているクラリスもまた、元々色素の薄い肌が透けてしまいそうな程青白く、消耗の激しさを表していた。確か、ジパングで破邪の術を使ったジャックも、数日目を覚まさなかった。しばらくはあの勝気な声も発せられないだろう。
 国王の容態を見ていた神父は、ひとまず落ち着いたことを告げ、横に並びクラリスとシゲルを交互に見る。
「シゲルが、徴兵後大臣の手駒として、物騒な鎧を着込んであちこちに出向くのを見かけていました。あの時の張りつめた表情を見て、あの子を取り巻く重圧は、あまりにも似つかわしくない、と胸を痛めたものです」
 神父はおそらく、幼少時から彼らを見守ってきたのだろう。クラリスに視線を戻すと、神父は深々と頭を下げた。
「倒れている二人を見つけた時、シゲルには、主に――ルビスに抱かれているような、安らかな眠りが訪れていました。クラリス様は危険と隣合わせで、あの子を救ってくださった」
 クラリスの頭には、包帯が巻かれている。頭部から流血していたというが、軽傷だったらしく、アルトは安堵のため息をついた。
 心配すること、なかったな。懸念を見事断ち切ったクラリスに、心の中で詫び、労いの言葉をかける。
 ひとまず、サイモンの子たち、そして国王を無事保護することが出来た。あとはラーの鏡と、一人城内に残ったジャックが戻れば、いよいよ作戦は大詰めとなる。
 しかし、やむを得ず城内で騒ぎを起こしたため、兵士たちが教会に詰めかけてくる可能性も大いにある。アルトはシゲルのそばに貼り付いたままのアリエルに声をかけた。
「アリエル。君はこのまま、シゲルのそばにいてくれ。彼がいつ目覚めてもいいように」
 顔中を涙で濡らしたアリエルに微笑みかけ、アルトは背を向けた。
「俺はジャックや、他の仲間が戻るまで、この教会を守る」
 荷物を預けてある別の部屋に向かおうとすると、呼び止める声がした。
「アルト!」
 振り返ると、アリエルは朝露に濡れた野花のように笑った。
「遠くから、一度も会ったことのないわたしたちのために、ありがとう……」
 可憐に、だがしっかりと地に根ざし、面を上げる花のような少女は、自分と似ていると形容するのがためらわれる程、穢れのない心を小さな身体に秘めている。アルトは目を細め、力強くうなずき部屋を後にした。
 窓辺に立つと、雨足は強くなる一方で、南の空に向かいどんよりとした雨雲が立ち込めている。アルトはふいに、仲間の賑やかな声と、愛する人の笑顔を想う。
 どうか、無事でいてくれ――今はただ、暗然たる王城と、空の彼方に願うばかりだった。