唯一の責任 6



 大陸の西側に険しい山脈が連なり、さらに三方を山に囲まれた平地にサマンオサの王城は存在する。早朝にアリアハンを発ち城下町に降り立つと、鬱々とした暗雲が立ち込めており、人気は全く感じられなかった。
 南の山道を越えた先にある洞窟を目指し、サーラとモエギ、セラとケインが早々に発つのを無人の門前で見送ると、クラリスは小さくため息をついた。
「私はともかく、セラたちにここまで協力してもらうことになるなんて……」
「クラリス、心配することないよ。あの二人のお陰で入国が出来たんだし、二人ともごく当たり前のように協力を申し出てくれただろ?」
 同い年のアルトに励まされ、クラリスはそうね、とうなずく。
「はいはい、オレたちも早速潜入するよ〜。まずは聞き込みってことで、そこのでかい看板の宿屋に行ってみっか。クラリスは特に離れないでね。たとえオレのことが嫌でも」
「誰もそこまで言ってないでしょ」
 いとこ同士の軽口の叩き合いに苦笑し、アルトは城下町に足を踏み入れた。クラリスを挟み、しんがりをジャックが務める。
 暦では冬が去ってしばらく経つというのに、花壇や広場には枯草が無造作に被さっており、土ぼこりが冷たい風にまかれ吹き荒れる。春の訪れすら閉ざされているかのような寒さに、アルトとジャックは外套をしっかり着込み、クラリスはフード付きの丈の長い外套を押さえつけた。
 町民はおろか、見回りの兵士すら見当たらない。石畳の道は泥にまみれ、建物には落書きや破損した箇所がいくつも見受けられる。あらゆる窓には板が打ち付けられ、中には廃屋同然の民家もあった。さらに、路地の隙間には亡骸らしきものが沈んでおり、草陰などでも同様の影が目につく。予想以上の荒廃した有様に、アルトたちは極端に口数が少なくなった。
 城下町の正門から最も近くに店を構える宿屋も、数回ノックしてようやく錠が外された。主人らしき中年の男が億劫そうに顔を見せる。
「突然すみません。俺たちはアリアハンから、サマンオサの情勢を調査しに来た者です。宜しければ、話を伺えませんか」
 アルトは丁寧な口調で尋ねたが、何かに脅えるような目付きで、主人は話すことなどない、と扉を固く閉ざしてしまった。
「けっ。相当疑心暗鬼になっちまってるな。宿屋がこんなんじゃ、大体の所はろくに話も聞けねえだろうよ。クラリス、他に目ぼしい所あるか?」
 クラリスはしばし考えを巡らせ、宿屋からさらに前方に見える十字架を指した。
「アリエルは、この国から亡命する前、沢山の民と共に教会にいたというわ。おそらく、あそこなら大丈夫」
 早速教会を目指し、しばらく歩いたところで、民家の陰から薄汚い服を纏った数人の男が現れ、行く手を阻んだ。手には棍棒や、くさり鎌が握られている。
「ようよう、ずいぶんと景気の良さそうな連中だなあ。なあ、おれたちにも何か恵んでくれよ」
 潜入の際なるべく目立たぬよう、外套で身を隠す以外に、ジャックは賢者のローブではなく着慣れた軽装にしているのだが、やはり外部からの者は身なりで判断がつくのだろう。
「お前たちに用はない。痛い目を見たくなければ、さっさとそこをどいてくれないか」
 アルトがクラリスをかばうように牽制すると、男たちは品のない笑い声を上げた。
「なら、他に何の用があるってんだよ! そうだなあ、そこのかわいこちゃんと遊ばせてくれるんなら、通してやってもいいけどな!」
 男の一人が、どうぞどうぞ、と道を譲る素振りをしてみせる。今はまだおどけているが、目は据わっている。
 こんな所で道草をくっている暇はない。アルトが剣の柄に手を伸ばすと、背中を突かれた。
「アルト、そいつらを引きつけろ。面白おかしく」
 そっと視線だけを向けると、ジャックがあとはオレらに任せろ、と口の動きだけで付け加える。クラリスもこくこくと首を振るので、アルトは思いつくままに男たちを挑発した。
「お、お前らのようなボロ布野郎に、この子はやらないからな! さっさとどけよ、この甲斐性なし男どもが!」
 最後は例の鬼嫁が発しそうな台詞を口にしたのだが、効果はてきめんだったらしい。男たちは身を震わせ、一斉に武器を構えた。
「んだとーっ! このガキ、ぶっつぶしてやらぁ!」
「アルト、下がって!」
 言われた通りとっさに身を引くと、ジャックとクラリスが代わりに前方に出、手のひらをいきり立った男たちにかざす。
「ラリホー!」
「そんで、バシルーラ! 出来れば魔物のいないなるべく遠くに!」
 立て続けに魔法を浴びた男たちは、眠りにつくと同時に城下町の外へ放り出された。アルトが呆気に取られていると、クラリスが軽く肩を叩く。
「もう、アルトったら。慣れないことしたわね」
 ここ数日、ずっと張りつめていたクラリスの表情が緩んでいる。さらにジャックが背中をはたいた。
「アルト、ご苦労さん。いや〜、あいつらの傷見事にえぐっちまったな」
 半分楽しげに、もう半分は不憫そうに、男たちを飛ばした方向を眺めるジャック。おそらく、残兵か食いはぐれの浮浪者だったのだろう。アルトもわずかばかり同情を覚えながらも、先を行くことにした。
 一連の様子を見てか、幸い浮浪者にはその後からまれることなく、古めかしいが立派な教会の敷地に入る。裏は墓地らしく、奥には墓石が並び、手前にかけておびただしい数の木の十字架が立てられていた。
 扉を叩くと、神父と思われる黒の法衣姿の男性が応対した。中からは難を逃れてきた人々のざわめきが聞こえる。壮年の神父は宿屋の主人と同じく、疲労困憊といった顔をしていた。
「どなた様ですかな。城からの使いでしたら、お引き取り願います」
「違うって! こんな美男美女があんなとこに仕えてると思います? はい、コレ見たら分かるっしょ」
 アルトとクラリスの色々と突っ込みたい気配を無視し、ジャックは袖をまくって賢者の証である腕輪を見せた。神父は腕輪とジャックを交互に見、ぽかんと口を開ける。見かねたクラリスが割って入った。
「私たちは、サイモン様の娘アリエルからこの国の情勢を聞き、調査にやって来た者です。私とこの銀髪の男はダーマ神殿の賢者、それと彼は、アリアハンのオルテガ様の息子、アルトです」
「ダーマの……それと、あの、オルテガ様の……?」
 半ば信じられないといった様子の神父に、アルトも一礼する。
「生前、父がサイモン様にお世話になりました。俺たちはこの国を救うためやって来たのです。どうか、まずは話を聞かせてください」
 アルトの真摯な態度に、神父は三人をぐるりと見渡すと、厳かに胸の前で十字を切った。
「おお……。ルビスよ、これも貴女の思し召しか……。よくぞ、おいでくださいました。外は危険です故、少々手狭ではありますが、中にお入りください」
 アルトとクラリスが会釈し、神父の後について中に入る。ジャックが腕輪に袖を被せながら横に並んだ。
「サマンオサの英雄サイモン。その盟友、オルテガ。お前の親父さんの信頼は、ルビス様にも引けを取らねえよ」
 今までは、何かにつけて父の名を引き合いに出されることがうとましく感じられたが、今は父とサイモンの絆が、何よりも心強い。アルトはうなずいてみせた。
「父さんとサイモン様の絆のように、俺にはサマンオサを救う義務がある。そのためには、何だってやる」
 決意を示すアルトの隣で、ジャックが意味深な笑みを浮かべた。
 教会の礼拝堂は、難民でごった返していた。女子供と老人が大半を占め、徴兵により夫や息子を失った者、家や店を追われた者、多額の増税により貧困に喘ぐ者、病にかかった者など、様々な事情の者を一手に引き受けているという。世話をして回っている数人のシスターを含め、どの顔を見ても疲弊しきっている。
 奥まった所にある応接室に通されると、まずはアリアハン国王から持たされた食料や薬草などの救援物資を手渡した。神父はアリアハン側の援助に深く感謝すると、互いに腰を下ろし話を始めた。
 サマンオサの現状は、アリエルが口述した内容と難民の事情に、いくらか詳細を足したものだった。逆に、アルトたちが偽の国王のこと、アリエルとシゲルの一連の出来事を伝えると、神父は何ということだ、と頭を抱えてしまった。政変の理由ははっきりしたようだが、神父の様子からして、アリエルが兵士団に捕らえられたことは公になっていないらしい。
 民の混乱は十分に煽られている。アリエルの拘束を触れ回ることなく、手中に握っているだけならば、偽王側はおそらく、アルトたちをおびき寄せる段階に入っているとジャックが見解を示した。
 神父は偽王側の企みより、サイモン親子の安否をひどく気にかけており、クラリスが思いきって尋ねた。
「あの……サイモン様とアリエルは、精霊神ルビスと特別な繋がりがあるのですよね。彼女らを失ってはいけないのは勿論ですが、彼女らとルビス様の繋がりとは、一体何なのですか?」
 うなだれていた神父は、たるんだ頬の肉を撫で、押し殺した声で答えた。
「それは、あのお二人の口から、伝えるべき者にのみ語ること。わたくしの口からはお話し出来ませぬ」
「はあ……。となると、奴らはその二人に何か、語られたらマズいことがあって、執拗に狙っていた訳だ」
「そうすると、サイモン様もアリエルも、いずれは……」
 その先は言えなかった。否、言う必要はない。
 アルトたちはサマンオサの地を踏み、こうして民の苦しみ、狂気を目の当たりにした。遥か海を隔てたアリアハンで地団駄を踏む時間は、とうに過ぎ去ったのだ。
 アルトは立ち上がると、拳を掲げた。
「奴らの狙いが何だろうと、俺たちが絶対に助ける! 俺たちがここに来たんだ、サマンオサは絶対に、屈したりしない!」
「アルト……」
 クラリスがアルトを仰ぎ、神父もつられるようにして腰を上げると、すがるようにアルトの手を取った。
「おお……貴方はやはり、英雄の名を引き継ぐに相応しいお方だ。アルト様、賢者様、どうか貴方がたに、精霊神ルビスのご加護があらんことを……!」
 震える声は滲んでいた。アルトが力強くうなずくと、クラリスとジャックも周囲を取り囲んだ。
「そうよ。私たちがいる限り、もう誰も苦しませたりしないわ!」
「だな。それじゃあいっちょ、やりますかね!」
 ってことで、とジャックはアルトに視線を合わせ、不気味な笑みを向けた。
「そのためには、何でもやってくれるんだよね? アルト君」



 小一時間程して、アルトは二階の客室でげんなりと姿見に映る自分と対面した。
 逆立てている髪はクラリスが懸命に下向きに梳かし、王城で侍女として働いていたという娘に借りた使い古しの制服は、深い青のワンピースに白の前掛けと頭飾りのセットである。
 仕上げにわしゃわしゃと髪を乱し、ジャックは傍らで満足げに息をついた。
「よーし! 一丁上がり!」
 いいように遊ばれた気がするが、これも立派な作戦のうちなのだ。その証拠に、遊びであれば加担することのないクラリスが口元を覆い、肩を震わせている。
「クラリス……そんなにおかしいのか?」
「だって……あなたのこんな姿、滅多に見れないじゃない。サーラさんに見せてあげたいわ」声が完全に笑っている。
「そんじゃ、名前をつけよう。そうだな、『剛毛のアルマ』でいこう!」
 高らかに宣言するジャックに対し、クラリスは何よそれ、と吹き出す。アルトは先程の高揚感をすっかり失ってしまった。
「剛毛のアルマって、何」
「仮名よ、仮名。お前結構有名人でしょ? うっかり本名とそのままの姿で城に行こうものなら、何が起こるか分からないからさー」
 ジャックの弁には一理あるが、何故女装の必要があるのだろう。確かに、作戦では変装して城内に潜入すると聞いていたが、アルトとしてはサーラには見せたくない。
 むくれるアルトには構わず、ジャックは居住まいを正すと、口元を引き締めた。
「で、作戦はこうだ。まず、オレはアルトと一緒に城の近くまで行って、適当な兵士を見つけたらモシャスで化ける。そしたら、侍女の『アルマ』をある罪で城内に連行する。それは『アルマ』が、おそらく城内に捕らわれているアリエルを逃がしたからって設定だから。そうすりゃ、オレたちはある意味正当な理由で、城内に潜入出来る」
 ジャックはクラリスに視線を移す。
「一方、クラリスはここに残って、『アリエル』として難を逃れてきたことにする」
「え? それは、囮ってことか?」
 いまいち理解出来ないアルトには、クラリスが説明する。
「そうよ。あなたたちは、隙を見て本物のアリエルを助ける。一方で、アリエルが逃げ出したと知れば、真っ先にあの人――シゲルが後を追ってくるはず。私がその時、破邪の術でシゲルを浄化するのよ」
 シゲルがどこにいるのかは不明だが、彼はアリエルに異様な執着心を持っているという。アリエルが逃げたとなれば、信憑性に関わらず、我先にと連れ戻しに来ると踏んだのだ。
「そうなると、オレらが気を付けるのは、本物のアリエルがまだ捕らわれているのをバレないようにすることだ。ま、その辺は上手くやるからよ、クラリスは出来るだけ分かりやすくシゲルをお迎えしてやってくれ」
 クラリスが素直にうなずくと、アルトは困惑して訴えた。
「だけど、シゲルはルイーダさんを手負いにした程の剣の使い手なんだろ? クラリスが危険」
「くどいわよ、アルト」
 アルトの懸念を一刀両断し、クラリスは腕を組み軽くアルトを睨んだ。
「過保護なのはお母様だけでいいのよ。私だって、そう何度もしくじる程馬鹿じゃないわ。それに、私は実際にアリエルと接した数少ない人間の一人。私じゃないとこの作戦は不可能なのよ? それに、ジャックだってモエギさんを助けられたんだもの、私だって、あの人を救ってみせるわ」
 今までにない程、クラリスが使命感に燃えているのは、おそらくアリエルとシゲルのためなのだろう。アルトはそれ以上何も言えず、ジャックは居心地悪そうに頭を掻いている。
 アルトは進み出、クラリスに微笑みかけた。
「分かったよ。それは、クラリスにしか出来ないことだ。君を信じるよ」
 すると、クラリスは緋色の瞳を瞬かせ、戸惑いがちに首を傾げた。
「変ね……。一瞬、あなたがアリエルに見えたの。その格好のせいかしら?」
「オイオイ、モシャスの練習のしすぎだろ?」
 大真面目に考え込むクラリスに、ジャックは肩をすくめるといつもの笑みを覗かせた。
「まっ、それはアリエルちゃんを助け出す時に確かめればいいってこった」
 アルトもそうだな、とうなずくが、しばらくはスカートの心もとない感覚に慣れそうもなかった。



 城下町は依然として人の気配が少ないが、アルトとジャックはなるべく人目につかぬよう気を払い、王城の近くまでやって来た。教会で酒場の女衆が持たせてくれた昼食を平らげてきたので、城内も昼時だろう。
 アルトたちは王城の裏にある茂みに身を潜め、見張りの兵士の様子をうかがうことにした。
「そろそろ、昼飯で交代をする頃だ。交代したばかりで気の抜けた奴を狙う」
「そうだな」
 アルトは普段通り返事をしたのだが、ジャックはいきなり目くじらを立て始めた。
「分かってねーな、お前は今『剛毛のアルマ』なんだぞ!? どんなに髪の手入れをしても剛毛過ぎて毎晩悩んでる乙女なんだぞ! 叩き込め!」
「……その設定は叩き込む必要ないよな?」
 冷静に返すと、ジャックはわざとらしいため息をついた。
「あーあ、アルト君は出会った頃はあんなに可愛かったのに。いっちょまえにオレをあしらうようになっちまって」
「そんなことより、裏口から誰か出て来たぞ」
 ジャックの袖を引っ張り、アルトは裏口の方を注視する。
 退屈そうにあくびをしていた兵士が、交代を告げられ中に入っていく。代わりに見張りについた兵士はまだ年若く、満腹のためか眠たげに目をこすっている。ジャックはアルトに目配せし、音もなく近付いていった。
 何かを刺すような音の後、見張りの兵士は声を上げることなく地面に崩れた。アルトも素早く駆け寄ると、ジャックは手のひらで毒針を弄びながら兵士を見下ろした。
「おひるごはんの後は、ゆっくりおねんねしましょうね〜。それっ!」
 鈍い爆発音と共に、ジャックは幽体離脱したかのように年若い兵士と化した。そばかすや、視界を心配したくなる程の糸目まで瓜二つだ。
 これが、クラリスと猛特訓したという、モシャスの魔法なのだ。
「すごい……双子みたいだな」
 感心するアルトに、ジャックは器用に片目をつぶると、いきなり本物の兵士が腰に下げていた鉄製の手枷を分捕りアルトに装着した。
「という訳で、作戦開始! お前はアリエルに同情した、心優しい大女ってことでヨロシク!」
 容姿も声も全く別人なのだが、中身はジャックのままである。アルト――もとい、アルマはとりあえず沈んだ雰囲気を装い、おとなしく連行されることとなった。
 中に入ると、どうやら厨房の勝手口だったらしく、外とはまるで異なる熱気が押し寄せた。大勢の侍女がせわしなく立ち回り、太い女性の声があちこちに飛ぶ。食堂とつながっているようで、奥の方では兵士たちが長テーブルに座り昼食にありついている。まじまじとは見られないが、匂いからして、香ばしく焼き上げた鶏肉のソテーだろう。城内の人間は比較的待遇が良いらしい。
 ジャックに連れられ進んでいくと、兵士の一人が声をかけてきた。
「おい、お前ついさっき交代しに行ったばっかりじゃないか。その女は?」
 かろうじて女と認識されたことに安堵する。ジャックは他人の声でひょうひょうと答えた。
「ああ、ついさっき茂みに隠れていたのを捕らえたんだ。大臣様から見つけ次第捕らえるように言われていたのさ」
 兵士は大臣の名が出たためか、それ以上は追及しなかった。そんな命令出てたっけ、とぼやく者もいたが、大した関心ごとではないらしく、皆鶏肉に夢中だった。
 食堂を抜けると、正門と謁見の間に通じる広間に出た。青に金の線が入ったじゅうたんが敷かれているが、ぽつりぽつりと燭台の明かりが灯るのみで、城内は陰鬱とした空気が漂っている。ジャックが顔を上げるよう小声で伝えた。
「何だ、この城……全然光が射さねえし、天井に何かずらっと絵画が描かれてるけど、暗くて分かんねえ」
 言われてみると、視界は不明瞭だが、何やら宗教画らしきものが天井を埋め尽くしている。信仰深い国なので、精霊神ルビスの神話を物語っているのだろうか。
 立ち止まっていると近くの兵士に不振がられるため、ジャックがそれとなく牢屋の場所を尋ね、地下に降りることとなった。
 人一人が通れる程度の狭く急な階段を下りていくと、かび臭い空気が鼻にまとわりつく。金属製の扉の前で、守衛と思わしき眼光鋭い兵士がすかさず立ちはだかった。
「どうした、不敬をはたらいた者か?」
 他の兵士と違い、年齢も重ねており、隙のない立ち振る舞いだ。ジャックは臆せず敬礼する。
「はっ。罪に問われ、大臣様の命により城から脱走したのを先程捕らえたところであります!」
「大臣が……? おい、女。一体何をした」
 質問を投げかけられ、アルトは小出しにしてきた虚実を話して良いのか悩んだが、精一杯女性らしい声色で返した。
「お……私は、アリエルという子が可哀想で、人知れず彼女を城の外へ逃がしました」
 慣れない裏声を不審がられないか、内心ひやひやしたが、守衛はでっち上げた嘘に声を荒げた。
「何だと……!? しかし、大臣は今朝早く、南の洞窟へ発ったばかり……。となると、あいつの出番か」
 考えを巡らせ、守衛はジャックに向けて命を下した。
「ご苦労だったな。この女はこちらで牢に入れておく。お前はシゲルにそのことを話し、アリエルを捕獲するよう伝えろ」
 思わぬところで分かれる羽目になり、アルトはとっさにジャックを仰いだが、名も知らぬ若い兵士の顔は小さく微笑んだ。
「はっ! ただちに知らせて参りますっ!」
「おそらく兵舎にいる! 任せたぞ!」
 踵を返し、去っていくジャックを困惑しながら見送ると、守衛は改めてアルトに向き直った。
「お前の気持ちは分からなくもないが……大臣が戻ってきたらすぐに斬首刑だぞ。せいぜい帰りが遅くなるのを祈ることだな」
 ぶっきらぼうだが、どこか同情が感じられる言葉だった。アルトとしては洞窟に向かったサーラたちのことも気になったが、おとなしく空いている牢屋に入れられる。
 まさか、本当に牢屋に入れられるとは思っていなかった。薄汚れたござの上に座り込み、辺りを見回す。用を足すための壺が置かれている以外は、必要以上のものが見当たらない。岩壁には罪人が刻んだと思われる端的な言葉が残り、こけがあちこちにはびこっている。
 所在なげなアルトに、向かいの牢屋の男が新入り歓迎の挨拶を投げかけてきた。
「おめェ、やっちまったな! だがよくやった!」
 かかか、と歯の抜けた口を見せて笑う男を、もう一人の見張りが制止した。他の罪人たちも興味深そうに視線を寄越してくる。仲間が増えると、退屈しのぎになるのだろう。
 ここに捕らえられている者は、元々の罪人というより、偽王に刃向かったため投獄された者が大多数を占めているのだろう。向かいの男は視線が合うと、一方的に身の上話を始めた。
「おれァ、城下町にある格闘場で調教師をやってたんだけどよ。調教した魔物たちの保有者資格を奪われちまって、王様に抗議したらこのザマさ。こんな世の中じゃ、野に帰ったらあいつらみんな、凶暴になっちまうよォ……」
 男にとっては、手塩にかけた可愛い魔物たちだったのだろう。それが今、徴兵に駆り出された一般民を襲っているかもしれない。赤の他人であるアルトでも、その心情は何となく分かる。調教師の男が嘆く隣で、別の牢屋にうずくまっていた禿頭の老人も訴え出した。
「わしゃ、徴兵令がかかった息子の出兵を何度も取り下げてもらうよう、頼んだんじゃ。息子は持病があって、とても出兵出来る身体じゃなかったというのに、何遍言っても無駄じゃった! わしはここに入れられ、息子は遠征に行ったきり、そのまま逝ってしまった……」
 老人が嗚咽を漏らすと、感化されたのか、あちこちからうめき声や、すすり泣く声が上がる。見張りが静まるよう言い聞かせても、一向に収まる気配はない。
 この地下に捕らわれた者は、皆それぞれ大切なものを守るために、もしくは不当な罪で狭苦しい牢屋に押し込められ、何も出来ずに苦しんでいるのだ。家族の名を涙混じりに唱える者もいる。
 この城に仕えている者たちは、理不尽な現状を知りながら見て見ぬふりをしているのか? 自分の保身だけを考え、愚王と大臣にへつらっているのか――?
 ふつふつと、腹の底から怒りがこみ上げ、アルトはなりふり構わず柵にしがみつき怒声を上げた。
「サマンオサの兵士たちは、ずっとこうして何もかもやり過ごして生きていくのか!? お前たちが仕えている奴は、この牢屋にいる人たちにも値しないんだぞ!」
「おい、静かにしろ! というか、お前男だったのか!?」
 見張りの兵士が動揺を露わにすると、先程の守衛がゆっくり近付いてきた。アルトの正面に立つと、目付きが一層険しさを増す。
「……お前、この国の者ではないな。そんな言葉をこの地下牢で放った者は、あの方以来だ」
 おそらく、サイモンのことを言ったのだろう。アルトも負けじと守衛に喰らいつく。
「そうだ。俺は、サイモン様と志を同じくした人をよく知っている。今のサマンオサの現状を知ったら、サイモン様はさぞ悲しむだろう。情けない、とな!」
「貴様! よそ者のくせに、知ったような口を利くな!」
 逆上する見張りの兵士を退け、守衛はじっとアルトを見据える。アルトはさらにまくし立てた。
「お前らは、サイモン様がいないと何も出来ないのか!? 謀反でも何でも起こして、このふざけた悪政をくつがえそうとは思わないのか!」
 懸命に訴えるアルトに、おそるおそる向かいの男が「そうだそうだ!」と加勢する。他の牢屋の者も次々に不満をぶつけるが、守衛は彼らに取り合うことなく、アルトを冷視したまま、口を開いた。
「……お前は、確かに飼い慣らされている我々とは違う。そういった発想も容易に口に出来るだろう。だが、お前のような若さだけでは、守れぬものがある。それを、我々は守っているのだ」
「……何を、守っているっていうんだ?」
 見張りの兵士が慌てて止めようとしたが、守衛は静かに答えた。
「国王陛下が、この先の牢屋でずっと伏せっておられる。我々は得体の知れぬ、玉座を陣取る何者かや大臣の目の届かぬ所で、陛下をずっとお守りしているのだ」
 岩のような無骨なたたずまいに、確固たる使命感が宿っていた。牢屋の住人たちは驚愕のあまり途端に静まり返り、アルトも言葉を失った。
 クラリスたちから聞いた情報の一つに、脱獄してきたサイモンが、獄中でサマンオサ国王と会ったことは含まれていた。だが、一部の兵士たちが偽王側の目を欺き、国王を守っているとは思わなかった。
 全員が全員、ただ保身のために偽王に従っている訳ではないのだ。それを知ると、アルトの怒気は徐々に落ち着いていった。守衛の頑なな表情が、わずかに揺らぐ。
「だが、我々はそれ以上の行動を起こせず、怠慢しているのは事実だ。いつの世も、人を、国をも動かすのは、お前やサイモン様のような気概のある者なのかもしれんな……」
 守衛の鋭利な目付きに陰りが差した時、鎧を軋ませながら何者かが地下に降りてきた。
 姿を現したのは、真っ直ぐな黒髪に艶のある黒鎧を着込んだ、アルトと歳の変わらない青年だった。守衛が彼に駆け寄る。
「シゲル、この……侍女の手引きで、アリエルが脱走した。ここには来ていないぞ」
「分かってる。用があるのはその侍女だ」
 話に聞いていた、アリエルの義兄・シゲルとの対面に、アルトは注意深く彼を観察する。黒塗りの鞘には幅広の剣が収められており、あの剣がルイーダを斬ったのだと思うと、再び怒りが押し寄せてくる。
 シゲルの命令で牢が開けられると、牢屋の住人たちがおれらも出せ、と口々に叫ぶ。シゲルは間髪入れずアルトの手を取り、連れ去るようにして階段へと戻っていく。
「おい、その侍女は……!」
「悪いな。こんな趣味だけど、おれの知り合いなんだよ。話を聞き出すだけだ」
 引き止めもものともせず、シゲルは堂々と広間を進み、左手の廊下の突き当たりで足を止めた。その拍子にアルトは手を振りほどき、間合いを取る。
「お前が……シゲルか。何の真似だ」
 すると、シゲルは突然笑みを浮かべ、煙にまかれた。逃げたのかと周囲を見回していると、よく聞き慣れた声がした。
「アルマちゃん、オレだよ、オレ」
 煙の中から姿を見せたのは、ジャックだった。アルトは呆気に取られ、脱力すると共に長いため息をつく。
「ジャックかよ……。本物かと思った」
「うんうん、そう思ってくれたならほんの一分足らずの接触で化けられたったことね。よっしゃよっしゃ」
 何やら勝手に手応えをつかんでいるジャックは、首を傾げるアルトに説明する。
「ほら、あの守衛のおっさんにシゲルのとこに行けって言われたっしょ? 本人が兵舎でボーっとしてたから、手はず通り教会の方に行くよう仕向けたのさ。そのわずかな接触を頼りにしたワケ」
 ということは、今頃アリエルに変化したクラリスが、本物のシゲルを迎え撃っているかもしれない。
「本人からは、何か邪気のようなものを感じたのか?」
 ジャックは深くうなずいた。
「ああ。モエギの時と同じものを感じた。だけど、シゲルが抱いている邪気は入り組んでいて、もしかすると本人の意識がまだ働きかけているかもしれねえ」
 予想通り、シゲルも邪気に操られているのがはっきりしたものの、クラリスが上手く破邪の術を使えるか心配だ。だが今は、彼女を信じるしかない。
「大臣も、南の洞窟に向かっているって言ってたな。サーラたちも上手くやってくれるといいな……」
 そちらの方は状況が全く分からないが、今はそれぞれの役目を果たすのみだ。アルトはかぶりを振り、ジャックに指示を仰ぐ。
「とりあえず、これでアリエルを助けられる。ジャック、彼女がどこにいるか分かるか?」
「おう。何かシゲルの奴、王女が逃がしたとかブツブツ言ってたんだわ。だから、怪しいのは王女様の部屋だな」
 うなずき合い、歩き出そうとしてふと、アルトは疑問を投げかけた。
「……あのさ、俺、この格好で助けに行くのか?」
 牢屋でタンカを切った時はすっかり忘れていたが、女装姿であのような口を利いていたのだと思うと、とてつもない恥ずかしさで身に着けているもの全てを投げ捨てたくなる。ジャックは思い出したように手を打ったかと思うと、再びシゲルに化け、意地の悪い笑みを見せた。
「そう。悪いけど、これも作戦のうちだから」
 シゲルの顔をした毒気のある微笑に苛立ちを覚えるが、ばったり兵士に出くわしたら困る、というもっともな言い分を盾にされ、アルトは肩を落とすのだった。



 クラリスは、墓地につながる狭い裏口で一人、掃除用具や樽などに紛れて息を潜めていた。礼拝堂の方からは、赤子の泣き声や慌ただしい物音が絶え間なく聞こえる。
 神父はモシャスの魔法を知った上で、せめて一時でもアリエルのふりをして皆に声をかけてくれないか、と懇願してきた。アリエルが教会にいた時は率先して皆を励まし、世話をして回ってくれたのだという。
 だが、クラリスはやんわりとそれを断り、シゲルがやって来るまでモシャスの魔法を使わないことにしていた。変化には時間制限があり、上級の魔法であるため精神力の消費も少なくない。それに、にわかにやって来た自分は、本当の意味でサマンオサの民を勇気付けることは出来ないと思ったのだ。
 昼を過ぎても、なかなかシゲルはやって来ない。クラリスはアリエルの気持ちになり、彼女ならば何と声をかけるか、どうシゲルに接するかをひたすら考えていた。
 アリエルとは、ほんの一時しかその場を共にしなかったが、彼女の純粋さは家族に愛され、大事に育てられてきた証のように思える。また、第三者の立場から見ても、アリエルとシゲルは兄妹とはいえ、血の繋がりはなく、互いに特別な感情を抱いているのが明白だった。
 だが、クラリスは生まれてこのかた、誰かに好意を抱いたことがない。恋物語の本や調べはたしなむし、神殿の若い神官や冒険者から羨望の眼差しを受けることも多々あったが、自身はそういったものに疎いことが秘かな劣等感となっていた。
 そんな私が、アリエルのように、あの人と接することが出来るのかしら――拭いきれない不安と向き合っている時だった。
「賢者様! シゲルが来ました! アリエルを、出せと……!」
 廊下から神父が駆け付け、青ざめた顔で外を指す。どうやら、アルトたちは首尾よく彼を差し向けてくれたようだ。
 クラリスは神父にうなずくと、モシャスを唱え、くたびれた旅装姿のアリエルに扮した。上手く化けられたのは、あんぐりと口を開ける神父が証明してくれた。
「正面の入口は開けないで。わたしが外から、彼の元に向かいます」
 アリエルの声で言うなり飛び出すと、春とは思えない突風が体温をさらう。墓地を抜け、教会の正面に向かうと、彼は扉をやみくもに叩いている所だった。息を吸い、呼びかける。
「シゲル! やめてっ!」
 明らかにびくりと身体を震わせ、こちらを見た瞳は、ルイーダの酒場で相見えた時と同じく光を宿していなかった。武装もあの時と同じだ。
「お前……どうして逃げた。また、おれを置いていくつもりだったのか?」
「違う! わたしは、シゲルを助けたいの! あなたは、操られているの!」
 酒場で交戦した時は必死のあまり分からなかったが、今はシゲルを蝕む邪気がまざまざと伝わってくる。シゲルはさも可笑しそうに小首を傾げた。
「おれが、操られている? 馬鹿なこと言うなよ。おれはただ、お前にそばにいて欲しい。それだけだ」
 一歩ずつ、シゲルが近付いてくる。クラリスは後ずさりしながら、出方を伺う。
 相変わらず、アリエルに対し狂気的な愛情を示してくる。言っていることは本心ともとれるが、表情も声音も無機質なため、正気でないことは十分に判断出来る。
「シゲル……わたしは、今のあなたにそんなこと言われても、全然嬉しくない。お願いだから、元のあなたに戻って!」
 本当のアリエルの分も、思いを込めて訴えるが、シゲルは訝しむように眉根を寄せた。
「ずいぶん、よそよそしいな。おれは、お前に『あなた』、なんて呼ばれたことないんだけどな?」
 見透かすような冷笑に、クラリスは心臓が大きく波打つのを感じた。
 詰めが甘かった。彼は誰よりもアリエルのことを知っているし、クラリスは本来の自分の感情を交えてしまった。所詮は付け焼刃ということか。
 これ以上は、ごまかせない。見切りをつけ、クラリスは自ら術を解いた。
「悪いけど、あなたの大事なアリエルはここにはいないわ。だけど、もう逃がさないわよ」
 シゲルはクラリスを認識すると、途端に不快感を露わにした。
「誰かと思えば、あの時の無能な女か。お前に用はない、アリエルの居場所を知ってるなら教えろ」
「あなたのような、平気で何の罪もない人を傷付ける人間に無能呼ばわりされるとは心外だわ。あの子のことなら、あなたが一番よく知っているんじゃなかったの?」
 腕を組み、皮肉たっぷりに言い放つ。すると、シゲルは王城の方を横目で見、口元をつり上げた。
「そういうことか。そうだよな、アリエルがおれを置いて逃げるはずがない。次に邪魔をしたら、お前もあの女のように斬ってやる」
 すぐさま引き返すシゲルを、クラリスも瞬時に追い、詠唱を開始する。
「行かせるものですか! マヌーサ!」
 無数のクラリスの幻影が行く手を阻み、それに紛れてクラリスも正面に回る。が、シゲルが瞳に力を込めると、幻影はたちまち消滅してしまった。
「邪魔をするなと、言っただろう!」
 シゲルが目にも止まらぬ速さで下段から斬り上げ、紙一重でかわしたものの、目の前で青い髪が散る。続けざまに繰り出された刃が額飾りを直撃し、クラリスはひび割れた石畳の上に投げ出された。
 衝撃でぐらつく頭を押さえると、血のぬめりが指先に伝わる。いつしか小雨が降り出し、土煙の匂いが立ち込めていく。
 痛みをこらえながら何とか身体を起こすと、シゲルは悠々とクラリスの頭上で剣を担いだ。
「こすい手を使うんだな、賢者とやらは。おい、無能なら無能らしく、そこに這いつくばって道を譲れよ」
 容赦ない罵倒を浴びせられ、クラリスはかつてない屈辱に歯を食いしばった。シゲルは剣の切っ先をクラリスの喉元に突き付け、細いあごを持ち上げる。少しでも反抗しようものなら、喉を掻っ切る気だ。
 ダーマ神殿の唯一の跡取りとして、崇められ、温室の花のごとく育てられてきた自分は、何と世間知らずで、不甲斐ないのだろう。アルトが心配するのは、ごく自然のことだ。無能の烙印も、何ら不思議ではない程に。
 だが、それを承知で、祖父は孫娘を外界に送り出してくれた。全く別の世界で育ったいとこは、半ば面白がるように、発破をかけてくれた。
 誰からも敬われながら、鬱屈とした思いを持て余すばかりだった自分を、解き放つのは今だ。
 クラリスは慎重に呼吸をすると、瞳を閉じ、構成を胸の中に描く。
「おい、早くどけろ。さもないと……」
 シゲルが剣を構え直す気配と同時に、クラリスは緋色の瞳を見開いた。
「氷像と化せ! ヒャダルコ!」
 ぴし、と乾いた音が鳴り響き、湿った地面を霜が覆っていく。みるみるうちに霜はシゲルの足元まで迫り、氷となってシゲルの身体を氷結させる。縫い止めるようにクラリスが眼力を送ると、抜き身の剣から両手、腕にかけてさらに氷の塊がシゲルを侵食していく。
「くそっ……! お前、おれをどうするつもりだ!」
 シゲルはがむしゃらにもがこうとするが、既に胸から上部以外は分厚い氷に包まれ自由が利かない。
 問いには答えず、シゲルの全身を氷漬けにすると、クラリスはふらつきながら立ち上がった。
 彼の黒鎧は補助魔法に耐性があり、さらに自ら低級の術を解く力もある。こすい手となじられた戦法では彼に太刀打ち出来ないと理解しつつも、人間相手にどこか躊躇していた部分があった。
 その甘さをかなぐり捨てなければ、いつまで経ってもお飾りのままでしか生きられない。自分も相手も傷付けずに、何かを勝ち得ようとするなど、ただの綺麗ごとに過ぎないのだ。
 目を剥いたまま凍れる彫像と化したシゲルを見据え、クラリスは視界を閉ざし、暗闇の中で禍々しい気を放つ物体を捉えた。その中に、ほんの小さな、星屑のような輝きが灯っている。
 あれが、危うくも残った、シゲルの本当の心――クラリスは自らの中にまばゆい光を生み出し、少しずつうねりを増幅させながら、シゲルを害する闇に伝わせていく。破邪の術は、教わらずとも自らの意思で操ることが出来るのだと、ジャックが語っていたのを思い出す。
 シゲルの内部に触れた瞬間、何かの残像がよぎる。いくつかの棺だったような気がする。
 自身の破邪の力を送り込み、闇をほどき、霧散させながら小さな光を目指す。その間、いくつもの記憶の断片がクラリスの意識を流れていった。牙を剥く魔物、入り乱れる血と涙、閉ざされた王城。たくましい男の背、何者かの下卑た笑み、声もなく崩れ落ちるルイーダ――
 彼の、わだかまった記憶の一つひとつを、クラリスは震えながらも自身の光で包み、吹き飛ばしていく。
 ふと、ジャックもこうして、モエギの心を覗くような心地で術を用いたのか気になったが、雑念を振り払い全神経を注いだ。
 膝に力が入らなくなり、クラリスは座り込みながらも、やがて闇を全て振り払った。その途端、シゲルの一番奥底にあったほんの一粒の輝きが弾け、瞳を閉じているのにもかかわらず頭の中が白く発光した。
 ゆっくりと舞い降りてきたのは、一面の色とりどりの花畑の中で、柔らかな黒髪を風になびかせる少女の姿だった。空色のワンピースが広がり、少女は振り向くと、橙がかった黄色の花を胸に抱き、こぼれそうな瞳で微笑みかけた。
 彼女が何かを口にすると共に、まるで自分の身体ではないような、痛切な想いが全身に染み渡った。
 唐突に我に返ると、気付けば胸元を強く押さえており、目尻からは涙が伝っていた。前方を見やると、氷は跡形もなく消滅し、シゲルがうつぶせに倒れている。氷どころか、剣も、鎧も何故か消え失せていた。
 そっと様子をうかがうと、彼は子供のように、頬を濡らして眠っていた。少年と青年の狭間にある、あどけない寝顔を確認すると、虚脱感に引きずり込まれるようにして、クラリスもその場に崩れた。
 しとしとと降る小雨に混じって、シゲルがアリエルの名を呼んだような気が、した。