唯一の責任 3



 アリアハン国王との内々的な謁見から程なくして、ダーマ神殿に書簡を送ったという知らせが城の使者から届いた。
 そもそも、アルトたちが最後にアリアハンから発ったのは、サマンオサの件を直接ダーマ側に要請するためだったという。よほどのことがない限り、彼らが移動魔法で駆けつけるのも時間の問題だろうと、ルイーダは励ましてくれた。
 ところが、その数日後、ルイーダの酒場を訪ねてきたのは、別の一行だった。
 来客を告げるベルが鳴り、扉を開け放った来訪者に目をやった酒場の人々は、水を打ったように静まり返った。ざわめきが失せたのを不思議に思い、奥の厨房で昼食の手伝いをしていたアリエルもこっそり、カウンターの向こう側を覗いた。
 入口では、朝もやの空気を宿した青髪の少女と、深緑の使い込んだ鎧を纏った温厚そうな男性、それと青の法衣がよく似合う、ややきつい目つきをした女性が、中の様子をうかがっている。
 青髪の少女は三人の中でも緊張した面持ちで、緋色の瞳をきょろきょろと泳がせている。誰かを探しているようだ。
 それまでジョッキいっぱいの麦酒をあおっていた戦士の男は、ぴゅう、と口笛を吹き、青髪の少女の前に立ちはだかった。彼は、登城した際にアリエルも遭遇した、ボルックという男だった。
「何だぁ? 冒険者になりに来たのか?」
 アリエルとさほど歳の変わらない少女は、美しい顔立ちと相反して、思いのほか低い声で返答した。
「違うわ。私は、ダーマ神殿より遣わされた賢者、クラリス。彼らは護衛のケインと、セラよ」
「ダーマ神殿の、賢者……?」
 酒場の人々はその響きに覚えがあるのか、再びざわめき出す。
 確か、アルトの仲間にも、ダーマ神殿の賢者がいるとルイーダが話していた。彼女も知り合いなのだろうか。
「ちょっと、賢者様。今回の件は内密的なものでしょ? いきなり正面から入らなくっても」
「そうそう、『たのもー!』とでも言わんばかりにね」
 おどける護衛の男性ケインを、法衣姿の女性セラが思いきりはたく。クラリスと名乗った少女は、背後の二人に構う素振りは見せず、目の前のボルックに問う。
「店主のルイーダという方に会いたいのだけれど、どちらにいらっしゃるのかしら」
「ああ、ルイーダさんなら野暮用で出払ってるよ!」
 アリエルの横をすり抜け、魔法使いのマリリンが声を飛ばした。彼女はカウンターから出ると、興味津々といった様子でクラリスに近寄った。
「ねえねえ、賢者様っていうことはさ、ジャックの知り合いなの?」
「ええ、彼は一応私のいとこだけど、あいつと一緒にしないで欲しいわ」
 ジャックという名が出ると、他の面々も彼を知っているのか、「あいつのいとこだと?」「それにしちゃあ、随分可愛げのある顔つきじゃねえか」と様々な声が飛び交う。
「まっ、とりあえず二階の客室で待っててよ。護衛のお二人さんもさ」
 マリリンに誘導され、クラリスたちはカウンターを横切る。その際、クラリスはこっそり様子を見ていたアリエルに気付くと、一瞬息をのんだ。だが、他の者に悟られまいとしたのか、すぐに階段を上っていった。代わりに、欄干越しにマリリンが茶の用意をするよう目で訴えたので、アリエルはうなずき、慣れた手つきで人数分の茶を淹れ始めた。



 ルイーダは思ったよりも早く戻り、アリエルはアリアハンで好んで飲まれる花の茶を客室に行き渡らせると、どうしたらいいものかとその場でまごまごしていた。ダーマ神殿からの来訪者は、おそらくサマンオサの件でここを訪ねたのだろう。
 すると、ルイーダがさりげなく「あんたも座りな」と、ソファの空いている隣を軽く叩いた。アリエルは盆を抱えたまま、おとなしくルイーダの横に収まり、クラリスたちと対面する形となった。
 早速茶に手をつけたケインは、一口飲むなりしみじみとため息を漏らした。
「このお茶、うまいなあ! セラ、君も飲んでみなよ」
「ったく、あんたは世間話をしに来たじじいか。黙ってな!」
 セラの毒舌にアリエルたちは面食らうが、二人は慣れ合った仲なのだろう。ケインは苦笑するのみで、素直に口を閉じた。
「さて、と……。ソイ様から話は聞いていたよ。ダーマの大神官様が、あなたたちを派遣して、この子の力になるようにってことらしいね。ありがとう」
 ルイーダが一礼すると、クラリスはうやうやしく礼を返した。賢者ともなると、一挙一動が優雅で整っている。
 自己紹介を終えると、クラリスの視線はアリエルに注がれた。
「ごめんなさい。貴女はアルトに会いたいのだろうけど、彼らは今別の国にいるみたいで連絡が取れないの。なるべく早く呼び戻したいのだけど」
 アリエル自身も自覚していなかった、わずかな落胆を読み取られ、慌てて首を横に振った。
「いいえ、そんな……。わたしのために、はるばるダーマから来てくださって、ありがとうございます」
 頭を下げると、クラリスは安堵したように微笑んだ。同じ年頃の娘とは思えない程、きれいな女の子だ。幼さが残るアリエルよりも数歳年上に見える。
「そう……。やっぱり、あの子たちはすぐには帰って来れないか。ダーマの方でも、要請を受けてサマンオサの調査はしているんでしょ? そのあたりについても、教えてくれないかい?」
 ルイーダに促され、クラリスはダーマ側からの働きかけを事細かに話した。だが、アリアハンと同じく、調査隊を派遣しても、芳しい結果は全く得られないようだった。それどころか、アリアハンと同じく、協力者の中から何十名もの犠牲が新たに出ていることに、アリエルの胸は痛んだ。
「こちらを訪ねる前に、国王様と謁見してお話を伺ったのだけど、私としては疑問点が多くて……。直接、貴女と話がしたかったの」
 クラリスは身を乗り出すと、アリエルにこう問いかけてきた。
「ねえ、アリエル……貴女のお父様は、偽の国王がいると仰ったのよね? 仮に、偽の国王が玉座を狙ったとして、そうしたら何故ここまで国を荒廃させる必要があるのかしら」
 目の前のことで精一杯だったアリエルにとって、目から鱗の質問だった。
「それは……きっと、税を巻き上げて、王族の人たちだけが豊かに暮らしたいからじゃ」
「いや、それは違うと思うよ」
 さえぎられ、反射的にルイーダの方を向く。ルイーダはじっと一点を見据え、言葉を紡いだ。
「アタシも、サマンオサの件はどこか普通じゃないと思っていたのさ。まず、国側がやったことは、サイモン様の権限をなくすことだったね? いくらサイモン様が発言権のある人物だったとしても、国側はサイモン様どころか、あんたやシゲル――子供たちまでに異様な執着を見せているような気がしてさ。政権を乗っ取るのが目的かといえば、答えは否だね」
 クラリスもうなずく。アリエルが口を開く前に、セラが口を挟んだ。
「それと、ワタシとこの男は一応夫婦で、巡礼の旅をしていたんだけど、サマンオサは世界の中で最も、精霊神ルビスの信仰が深い国として訪れたことがある」
「そのこともあって、ダーマ神殿に滞在していた僕たちは、クラリス様の護衛を買って出たんだ。
 宗教上の理由で、君の国が何者かに狙われる可能性はあるかい?」
 ケインの問いに、アリエルは心臓が波打つのを感じた。
 アリエルも、サイモンも、精霊神ルビスの敬虔な信者だが、それを表向きにはしていない。何故なら、自分たちは、普通の信者とは異なる、より『密接な』信者だからだ。
 もし、それを偽王や大臣が知っていて、それを理由にサマンオサを意のままにしようとしているのなら――背筋がぞっとし、アリエルは自分を抱きすくめた。
「アリエル、どうしたんだい? 真っ青じゃないかい……」
 ルイーダに肩を抱えられる。クラリスも怪訝そうにアリエルの顔を覗き込む。
「何か、思い当たることがあるのね? 良ければ話して。貴女が一番、サマンオサのことを知っているはずよ」
 今まで、目まぐるしく変わっていく日々に、ただ翻弄され、生き延びることしか考えられなかった。
 だが、それだけでは気付けなかった。偽王や大臣たちの狙いは、人間が考えることとは、まるで違うことに。
 アリエルは、震える唇で、何とか言葉を押し出した。
「……偽の国王は、きっと、わたしや父さんと、ルビス様の関係を知っている。相手は、ルビス様と相反する存在……つまり、魔王の手の者かもしれない」
 その場にいる全員が、驚愕に震えたと同時に、階下から何かが吹き飛ぶ轟音と揺れが伝わった。
「何……!?」クラリスが立ち上がる。
 ルイーダはアリエルをソファに押さえつけ、「あんたはここから出るんじゃないよ」と言いつけ、クラリスたちを伴い部屋を出ていった。
 アリエルは、ルイーダたちの足音が遠ざかると、気付かれぬよう部屋から抜け出した。
 自分だけが隠れ、守られている訳にはいかない。それに――予感めいたものを、感じるのだ。



「ちょっと、何があったんだい!?」
 ルイーダが階下に降り立つと、何人かの女性がルイーダの背後に逃げ込んできた。アリエルは階段の影からそっと様子を伺うと、入口に立つ人物の姿を認めて息が止まった。
 乱暴に破壊された扉を踏みつけ、進み出たのは、黒塗りの鎧を着込んだ、まだ少年の面影が残る青年だった。彼に続くようにして、数十人の兵士が外を包囲している。おそらく、裏口の方にも配備しているだろう。兵士の鉄鎧と、青の腰布は、紛れもなくサマンオサ兵の証だ。
 黒鎧の青年は、脂気のない黒髪に、暗い光を宿した柑子色の瞳をしていた。
「何だぁ? 今日はやたら客が多いな! だがな、店の扉ぶっ壊して入ってきた奴は初めてだぜ!」
 すっかり酔いの回ったボルックが馴れ馴れしく近付くと、青年は伸びてきた手をつかみ、ねじりを利かせてあらぬ方向へと曲げた。ボルックはたちまち苦悶の声を上げ、酒場は騒然とする。
「ボルック!」
 すかさずマリリンが飛び出し、腰に差した魔導士の杖を手に取ると詠唱を始めた。
「氷結に染まりし、凍てつく刃! ヒャド!」
 狙いは青年の手だったが、彼はボルックの腕をねじ上げたまま盾にし、太い腕には氷の刃が数本突き刺さった。悲鳴が上がり、マリリンは蒼白になる。青年が手を放すと、ボルックはあっけなく巨体を床に沈めた。
「何なの、あんた……。そういえば、ボルック、何日か前に変な客が来たって話してたけど、もしかしてあのことを……」
 ボルックは流血する腕を押さえながら、すまねえ、とだけうめいた。
 アリエルは、すぐに合点がいった。ボルックは、おそらく客を装ったサマンオサからの密偵に、アリエルらしき人物を見かけたことを話してしまったのだ。必要以上に酒場の者たちと関わらないようにしていたが、登城の際もっと気を付けなければいけなかった。
 そして、やって来た人物は――あんなにも会いたかったのに、目の前で起こっている全てが、悪夢だと信じたかった。
 青年は一歩進むと、冷ややかに辺りを見回した。
「……アリエルはどこだ。出せ」
 やはり、自分が目的なのだ。だがアリエルは、彼が本当の彼なのか信じ難く、姿を現すのはためらわれた。
 どうか、よく似た偽者であって欲しい。しかし、願いは虚しく、青年は己の名を名乗った。
「おれは、サマンオサ兵士団第一兵隊長、シゲル。
 サイモンと、その娘アリエルとは身内だ。サマンオサ国王の命により、亡命中のアリエルを迎えに上がった」
 酒場の人々も、アリエルという名は知らずとも、少女が匿われていることは薄々知っていたようで、数人から聞いているなら出てこい、と怒号が上がった。当のアリエルは、別人のような義兄を目の当たりにし、茫然とするしかなかった。
「シゲル……? あんたが、あのシゲルだってのかい?」
 階段の影で硬直したままのアリエルには気付かず、ルイーダはしばし言葉を失っていたが、やがて腹を抱えて笑い出した。クラリスが気遣わしげに声をかける。
「ルイーダさん、気を確かに……」
 ひとしきり笑うと、ルイーダは酒場の人々を守るように歩み出、マリリンを後ろに押しやりシゲルと向き合った。
「冗談はよしておくれ。あんたが、もしアリエルの知っているシゲルだとしたら、こんな無礼を働くはずがないよ」
 腕を組み、立ちはだかるルイーダに対し、シゲルは表情ひとつ動かさない。
「アリエルを出せと言っている。それに従わないというなら、力ずくでもアリエルを連れて帰る」
「うわあ……。あれは独占欲のかたまりだね。セラの一番嫌いなタイプだ」
「あのガキの失礼さと、あんたの緊張感のなさは互角だよ」
 ケインとセラの言動には、誰も触れる余裕がない。ルイーダがおもむろに腰の後ろに手を回すと、ターバンを巻いた男がどこからか細身のレイピアを持ってきて、ルイーダに預けた。
「やってごらんよ。アタシたちもそうとくれば、力ずくでもアリエルは渡さないよ!」
 ルイーダの剣幕に圧され、シゲルはわずかに後ずさった。酒場の人々もそれぞれ身構える。
 このままでは、この酒場が、滅茶苦茶になってしまう。アリエルが出ようとすると、クラリスが気付き制止された。
「貴女、どうして出てきたの!? 駄目よ!」
 あくまで小声で、クラリスが怒鳴る。アリエルが抗議しようとすると、シゲルが鞘に収めていた剣を抜いた。
「……アリアハンの奴らは、平和ボケしている。痛い目を見ないと、分からないよな。
 なら、思い知らせてやるよ」
 濡れたような光沢を持つ剣を構えるシゲルに、アリエルが呼びかけようとすると、セラに抱え込まれ口を塞がれた。同時に、シゲルとルイーダが刃を交え、それを合図に兵士たちがなだれ込んできた。くつろいでいた酒場の人々は武器がなく、代わりにモップやら酒瓶やらを手にし、迎え撃つ。
 アリエルは必死にもがいたが、女の身でありながら圧倒的なセラの押さえ込みにより身動きが取れない。
「ウスノロ! 賢者様とルイーダさんをお守りしな!」
「僕はウスノロじゃないんだけど……そんな場合ではないな!」
 セラの命令により、ケインも背負っていた両刃の剣を抜き、クラリスの後を追って加勢に入った。
 サマンオサ兵は手狭な酒場でも容赦なく、酒場の人々を槍でなぶり、突きで押し退ける。悲鳴や雄叫びが代わる代わる上がり、アリエルはセラによってそれらを遮断するように抱えられた。それでも、アリエルは目をそらさず、身体の隙間から争いを見続けた。
「卑劣な輩と成り下がった、愚王のしもべたち……許さないわ! ベギラマ!」
 クラリスが怒りを露わに魔法を繰り出すと、火炎の壁がサマンオサ兵に襲いかかり、火だるまにする。敵とはいえ、わめくサマンオサ兵を目の当たりにし、クラリスはたちまち困惑する。
「くっ……! 人間同士が、こんな争いを……!」
 その横から槍がしなり、クラリスに当たるすんでのところで、ケインがはじき返した。
「ケイン!」
「賢者様、気をしっかり持たれるよう! 彼らは僕たちの命など、露ほどにも思っていない!」
 闘いとなると別人のように立ち振る舞うケインに鼓舞され、クラリスは改めて敵兵を睨み据える。
「なら、せめて役立たずになってよ! ラリホー!」
 有効範囲内にいた兵士の何人かがふらつき、テーブルや椅子やらを巻き込んで倒れ込む。それらを足場にして、シゲルが舞い上がり頭上からルイーダに斬り込む。ルイーダは寸前で身をかわし、片膝をついてシゲルの刃を受け止める。
「中年の女のくせに、剣の腕が立つな。自分の店を滅茶苦茶にしてまで、おれにアリエルを渡さない気か」
 ルイーダのレイピアに対し、シゲルの剣は刃が広い。今は力が拮抗しているが、育ち盛りのシゲルの腕力にはいずれ敵わなくなる。ルイーダは青筋を走らせながら、逆に問う。
「構わないさ、『うちの』アリエルを奪われるよりかはね。あんたこそ、何でこんな真似をするのさ……こんなことしたら、一番悲しむのはアリエルだろうさ!?」
「うるさいっ! お前なんかに、おれとアリエルの、何が分かる!」
 シゲルの力が強まり、ルイーダは舌打ちすると、刃を上へと滑らせ、右脇から刃を交差させる。
「分からなくても、人の道理として間違ってるんだよ! 坊や!」
 歯を食いしばり耐えるルイーダの言葉を浴び、ほんのわずかに、シゲルの剣に迷いが生まれた。
 ルイーダは弾みをつけて剣を押し返すと、立ち上がり息を切らせながら間合いを取った。
「ルイーダさん! 今、援護を……ボミオス!」
 シゲルの後方から、クラリスの補助魔法が迫る。だが、波動はシゲルの黒い鎧に吸収され、特に変化が得られた様子はない。シゲルがクラリスに向き直った。
「お前……何だか知らないが、邪魔だ。失せろ」
 クラリスは魔法が効かないことに戸惑い、シゲルの一振りに抵抗しようとしたが間に合わない。代わりに太刀を受けたのはケインだった。
「君! 女性を傷付けるのはやめなさい!」
「黙れ、ウスノロが!」
 シゲルが目に力を込めると、途端にケインの力が緩み、刃が腕に振り下ろされた。手甲を着けていたものの、刃が食い込んだ部分からはたちまち鮮血が溢れ、ケインはたまらず両膝をついて肩を下ろした。
「あの、馬鹿亭主が……!」
 セラが怒りと焦りに満ちた毒づきを発するが、それでもアリエルを離そうとしない。
「セラさん、旦那さんが……わたしのことは構わず、早く」
「駄目だよ! あんた、皆何のために戦ってると思ってるの!? あんたを守るためでしょ!」
 腹の底から震え、アリエルはそれ以上何も返せなかった。
「しっかり! 今、回復魔法を……」
 慌ててケインの傷の具合を診るクラリスに、シゲルが剣を向けた時、背後からルイーダが椅子をシゲルの頭に叩き込んだ。
「アタシの客に手を出すんじゃないよ、クソガキが!」
 椅子の破片が飛び散り、周囲の兵士たちも被害を被る。シゲルは頭から流血しながらも、何てこともないように破損した椅子を投げ飛ばした。カウンターに椅子が突っ込み、衝撃で棚の酒瓶やグラスが軒並み割れる。アリエルはとっさにつぶった目を開け、シゲルの姿を懸命に追った。
 ふんと鼻を鳴らし、シゲルはルイーダを再び標的にとらえた。
「たかが酒場の女主人が、出過ぎた真似をするな!」
 吐き捨てると、シゲルは目にも止まらぬ速さで剣を繰り出した。ルイーダは必死に受け止めていたが、あっという間にレイピアを払われ、階段下の壁際に追い詰められた。
 シゲルは冷酷な瞳でルイーダを見据え、剣の切っ先を喉元に突き付けた。
「最後だ。アリエルを渡してくれれば、命は助けてやる」
 ルイーダは無防備になっても尚、不敵に微笑んだ。
「嫌だね。あんたのようなクソガキに、アリエルは渡せない。今のあんたに、アリエルを渡す価値は、ない」
 シゲルの怒気が強まった。アリエルは自然と口を動かしていた。
「セラさん、ごめんなさい……ラリホー!」
 不意をつかれたセラは、眠りの魔法であっさりと力を失った。アリエルはセラの腕から抜け出すと、ルイーダの首を狙うシゲルに力の限り体当たりした。
「シゲル、やめてえっ!」
 シゲルの瞳が大きく見開かれた瞬間、アリエルはシゲルにしがみつき勢いよくもつれながら床に倒れ込んだ。誰もが、呆気に取られ口をぽかんと開けた。
「……アリ、エル?」
 シゲルが我に返ったように尋ねる。互いに上半身を起こすと、アリエルはシゲルの頬を思いきり引っぱたいてやった。生まれて初めて、人を本気で殴った。手のひらが燃えるような痛みを伴っている。
「シゲルのばかっ! もう、やめて……!」
 ぼろぼろと涙をこぼすアリエルを、シゲルは夢から醒めたようにぼんやりと見つめている。
 ルイーダがその隙に、床に転がったシゲルの剣を取り上げようとすると、突如シゲルは目を剥き、苦しげに息をつき始めた。
「シゲル、どうしたの……?」
 アリエルが声をかけるが、シゲルはまるで何者かと言い争うように独り言をつぶやくのみで、全く応じない。サマンオサ兵までもが、何事かとシゲルに見入っている。
 すると、シゲルはアリエルを押し退け、わめき声を上げながら剣を取り、ルイーダに斬りつけた。シゲルの剣は、ルイーダの左腕から脇腹のあたりを引き裂いた。返り血が、シゲルの脇を越えてアリエルの顔に飛び散る。
 ルイーダは、一瞬のことで成す術もなく、声なき声を上げて、ひれ伏すように崩れた。
 静寂ののち、悲痛な叫びが荒れた酒場に響き渡った。
 ボルックのそばについていたマリリンを筆頭に、まだ意識がある者たちが倒れた仲間を飛び越えて群がる。アリエルはその拍子に突き飛ばされ、床に尻もちをつく。法衣姿の男が青ざめた顔で治療を試みるが、ルイーダはみるみる顔色が白くなり、ぐったりとしている。
「そんな……」クラリスが涙混じりに、床に力なく座り込む。ケインは血まみれの手で、なぐさめのつもりか、そっとクラリスの手に触れた。
 アリエルはただ、視界に広がる光景を、魂が抜けたように眺めるだけだった。
 シゲルはルイーダに群がる者たちを一瞥すると、剣についた血を振り払い、鎧と同じ色をした鞘に収めた。そして、何事もなかったかのように、アリエルに手を差し伸べた。
「アリエル。お前とおれの邪魔をする奴はもういない。おれと、サマンオサに帰ろう」
 アリエルが何も答えずにいると、強引に手を引っ張られ、無理矢理立たされた。
「もう、ここにいる必要はない。おれと行こう。な、アリエル」
 語りかけてくる口調は元のシゲルそのままなのに、アリエルが好きな太陽のような温かさが微塵も感じられない。
 アリエルが知らない、冷えて、汚れた手のひら。だが、シゲルの手を払いのける気力も、最早消え失せていた。音もなく流れる涙は、アリエルの頬を冷やしていく。
 シゲルは見る影もない酒場の荒れようを見回し、淡々と告げた。
「ひどい有様だ。だけどな、これはお前のせいなんだ。
 お前さえいなければ――この酒場も、おれも義父さんも、こんなことにはならなかったんだ」
 シゲルの言葉は、アリエルの胸を深々と貫いた。
 生家で別れた時、『お前さえいてくれれば』と、優しく抱きしめてくれたシゲルは、どこにもいなくなってしまった。
 だが、ルイーダや、クラリスたち、酒場の人々を危険にさらしたのは、紛れもなくアリエルのせいだ。
「アリエル! その人の言うことを信じちゃ駄目!」
 クラリスの叫びが遠く聞こえる。アリエルはかすれた声で、ごめんなさい、とひたすら唱えた。冷えた涙が返り血と混じり、絶え間なく頬を伝う。
 サマンオサ兵の一人に何やら耳打ちされると、シゲルは勝ち誇ったような冷笑を残し、アリエルの手を引いたまま、引き上げていった。
 アリアハンの兵士たちが駆けつけたのは、それから間もなくしてのことだった。