夢の続き 6



 翌朝、引き続きハナの家で厄介になっているサーラたちの元に、フジノが足を運んできた。
 フジノ曰く、カツヒコの影の一人が文を託してきたという。おそらく、サーラたちを急襲させた影を直接近付けないための、カツヒコの配慮なのだろう。
 ジャックが文を読み上げ、一同はカツヒコの報せに耳を傾けた。
「とりあえず、ヒミコはオレが魔法を使うことは知っていたみたいだな。んで、ヒミコは、商人から譲り受けた黒い宝珠を持っている……?」
「六つのオーブには、黒いのがあるの?」
 疑問を口にするモエギに、ジャックは首をひねった。
「そういや、何色があるのか知らねえな。んで、カツヒコも、宝珠を持っている、紫のを……」
 途端にジャックは文面に喰い入った。アルトも文を覗き込む。
「それじゃあ、あの商人は二つのオーブをカツヒコさんとヒミコに売りつけた、ってことか?」
 ジャックは答えず、そのまま続きの文章をたどった。
「で、結局ヒミコを止められなくて、明後日、生贄の『輿入れ』を行う……だと」
 力なく置かれたジャックの腕から、ひったくるようにしてハナが文を奪った。一通り目を通すと、ハナはその場にうずくまった。
「どうしても、ヤヨイを差し出せっていうのかい……」
 悲嘆に暮れる祖母を目の当たりにし、幼い孫のムツミも何かを悟ったのだろう。ヤヨイにすがりつくと、火がついたように泣き出した。ヤヨイは既に覚悟を決めていたのか、唇を固く結んでムツミを抱きしめた。
「ジャック、私たちについては何か書かれていなかったのか?」
 サーラが問いかけても、ジャックは額を抱えたまま一点を見つめている。仕方なくハナから文を譲ってもらい、アルトとモエギを両脇に目を落とす。
 『輿入れ』と称し、おろち神の眠る山の洞窟に御輿で運ばれた娘は、そこでおろち神に喰らわれるという。
「何だと……おろち神は、実体を持った『生き神』と書かれているぞ」
 ハナやカツヒコの話から、おろち神はてっきり宗教上の存在と捉えていた。それが、山の洞窟の奥深くに、八つの頭と八つの尾を持つ大蛇として、住みついているのだという。
 言葉を失ったサーラに代わり、アルトが続きを追う。
「ヒミコはその黒い宝珠の邪気に感化され、その影響はヒミコと強く結びついているおろち神にまで及んでいるかもしれない。
 そこで、俺たち四人には、『輿入れ』の際に道中の用心棒として同行し、直におろち神を改心させて欲しい。その際にカツヒコさんも、自分の宝珠の力を貸す……」
「同行、って、あたしたちの立場はきちんと尊重してくれるんでしょうね?」
 不安げなモエギに、アルトがうなずきかける。
「宰相なんだから、そのくらいは上手く立ち回ってくれるはずだよ」
 危険な仕事は自分たちにしか出来ないだろう。その点は飲み込めるのだが、サーラは生贄となるヤヨイが気がかりだった。
 元はといえば、生贄に選ばれたヤヨイと、その身内であるハナやムツミが不憫で、首を突っ込んだのもある。彼女らをこれ以上、巻き込みたくない。
 その旨をアルトやモエギに話すと、二人とも黙り込んでしまった。肝心の生贄がいないのであれば、直接おろち神に会うこともかなわない。
 すると、ヤヨイが口を開き、弱々しい笑みを向けた。
「皆さん、赤の他人であるわたしたちのために、ここまで力を尽くしてくださっただけでも、感謝の念でいっぱいです。どうか、わたしのことはお気になさらず、あなたがたの目的を果たしてください」
「しかし……」
 サーラが渋ると、ヤヨイは精一杯微笑んだ。
「よいのです。この国の民は、誰もおろち神さまに逆らえぬのです。それに抗おうとする、あなたがたの懸命なお心に触れた今、わたしたちもいくらか救われましょう」
 気丈に振る舞うヤヨイに対し、サーラは謝罪を述べようとした。すると、意を決したようにモエギがヤヨイににじり寄り、その手を取った。
「ヤヨイさん。あたしが、ヤヨイさんの代わりに、生贄になる」
 耳を疑った。硬直するヤヨイの手を握ったまま、モエギは口早に説明する。
「あたしとヤヨイさんなら、歳もあんまり変わらないし、見た目も東洋人だし、変装すれば大丈夫だよ。カツヒコさんに言えば協力してくれるはずだし」
 ハナも、ムツミも、一人で考え込んでいたジャックも、唖然としてモエギを見つめている。サーラは止めようとしたが、それより早くモエギが言葉を続けた。
「こう言ったら難だけど、あたしはそんじょそこらの男共より強いんだから! だから、ヤヨイさんみたいな人が危険な目に遭うより、あたしみたいな女の方がずっとマシ! だから、ね?」
 確かに、戦う術もないヤヨイのような娘よりは、モエギの方がもしもの時に機転が利く。だが、おろち神は手練れのサーラたちでさえ、全く未知数の存在なのだ。
「だけど、モエギ、それはそれで危険だよ」
 アルトがおそるおそる異を唱えると、モエギは驚く程険しい表情でこちらを振り返った。
「あたし、もう嫌なの! 最初にヤヨイさんや、ハナさんに会った時、すごく苦しんでるのが伝わってきて、あたしも辛かった。もうこれ以上、辛い思いさせたくない!」
 思い返すと、四人の中で最もヤヨイたちに寄り添い、優しい言葉をかけていたのはモエギだった。モエギの決意は、誰がどう言おうと揺るがないだろう。ヤヨイたちを含め、反対出来る者はいなかった。



 カツヒコの計らいにより、サーラたちが用心棒として『輿入れ』に参加することは、宮の者たちにも受け入れられた。
 ヒミコが反発することも懸念していたのだが、カツヒコによると、輿入れの準備にはヒミコは関与しないという。曰く、サーラたちがどう足掻こうと、ヒミコは邪魔をされない絶対的な自信を持っているらしい。
 モエギがヤヨイの身代わりとなることには、カツヒコも初めこそ難色を示したものの、やはりヤヨイの身を案じてか承諾してくれた。
 生贄となる娘は、おろち神の『供物』であるため、白の着物のみを纏い、顔を同じく白い頭巾で隠すという。髪は頭巾で見えなくなるため、黒髪であれば長さはさほど問題にならない。多少の所作さえ気を配れば、ヤヨイの身代わりとなっても疑う者はいないというのがカツヒコの弁だった。
 生贄は、輿入れの当日に御輿が家を訪れ、その際に乗り込むという。サーラたちが宮で当日の話し合いをしている間、モエギは輿入れの準備をしつつ、ハナの家で仕事を手伝ったり、ムツミの相手をして過ごしていた。
 輿入れの前夜は、サーラたち三人は宮で待機することになっていた。モエギはハナの手伝いを終え、家の外で一人、黄昏に染まる集落を眺めていた。
 ヤヨイの身代わりになると申し出てから、否、ジパングの地を踏んでから、全てが目まぐるしく過ぎていった。
 ヒミコやオーブのことはよく分からないが、この国の民のためにと、その一心でモエギは一日一日を過ごしてきた。しかし輿入れを明日に控えた今、心のどこかで目を逸らしていた不安が、徐々に胸を侵食し始めていた。
 不安なのはモエギだけではない。サーラたちも、カツヒコたちジパングの民も、この島の守り神であるおろち神に背くような行いをしようとしているのだ。
 輿入れにはカツヒコも同行し、彼が所持しているというオーブの力で、おろち神を鎮めるよう試みるという。それでも、人とも魔物とも違う、おぼろげな存在に立ち向かう恐怖心を拭うのは、容易いことではなかった。
 必要以上のことは考えまいと、気を取り直し家に戻ろうとした矢先のことだった。
「よー、モエギ」
 瞬時に振り返ると、宮の方角からジャックが悠々とこちらに向かってくる所だった。そのまま動けずにいると、ジャックは軽い足取りでモエギの元にやって来た。
「陽が暮れると宮から出れねえんだよ。で、念のため来てやったんだよ」
「……あ、そう」
 この数日間、ジャックとはほとんど別行動だったため、様子を見に来てくれたことは思いがけず嬉しかった。だが気のない返事しか出来ず、歯がゆさを覚える。案の定、ジャックも呆れたように息をついた。
「ったく、自分からタンカ切ったくせによ。お前も相当おめでたい奴だよな」
「おめでたいって、この状況のどこがおめでたいっていうのよ」
「バカかお前。お人好しだって言ってんの」
 この期に及んで馬鹿呼ばわりである。モエギがむくれると、ジャックも苛立たしげにため息をついた。
「そりゃ、か弱いヤヨイちゃんが生贄になるよか、お前みたいなのがなった方が危険度は減るだろうよ。一応清らかなおなごですからね」
 さほど気もないくせに、少しでも魅力ある女性を見つけると何かにつけもてはやす。この男の気に入らない習性の一つだ。
「どうせ、あたしは特攻隊長よ」
「お前がそんじょそこらの男より強いって豪語したんだろうが」
 互いに顔を背ける。くだらない言い争いより、もっと話すことがあるというのに。モエギは自分のあまのじゃくを、心底恨めしく思った。
 わらぶき屋根の民家を、燃えるような夕焼けが染め上げている。そっとジャックに目を向けると、銀の髪は飴色に煌めいており、どこか憮然とした表情をしていた。
 憎まれ口を叩きながらも、ジャックはいつも、モエギを気にかけてくれている。それはおそらく、アルトやサーラに対しても同じなのだろう。だが、その度に胸が熱くなる。
 こみ上げる感情をひた隠しにして、可愛げのない返答しか出来ない自分は、もしかすると知らずのうちに、この男を傷付けてはいないだろうか。
 そう思うとやり切れなくなり、モエギは薄汚れたジャックの袖を掴んだ。無言で見下ろしてくる瞳に、必死に訴えかける。
「でも……あたし、いつもあんたに助けられてばっかりだから」
 自分でも何と続けたら良いのか分からず、口をつぐむと、ジャックはしょうがないなとでも言いたげに笑った。
「ホントだよな。ぎゃーぎゃーわめくし、結構泣くし、いっつも突拍子もないことするから、おもりがもー大変」
「おもりって何よ……」
 いつもの調子で言い返せない。首をすぼめていると、ぽんぽん、と肩を叩かれた。
「ま、オレがいる限り、誰も死なせる気はねーから。今日はさっさと寝ろ」
 元気づけるように、肩を力強く押さえるジャック。胸の中で広がっていた不安が温かな感情で緩和され、モエギはようやく笑顔を見せることが出来た。
「……ありがとう」
 ジャックも、今度は満足げに顔をほころばせ、踵を返し片手を挙げた。
「おねしょすんなよ」
「誰が!」
 モエギの叫びを背に、ジャックは元来た道を闊歩していった。
 わずかにぬくもりが残る肩をそっと撫で、モエギはふと、ジャックに伝えねばならないことを思い出した。
「ジャック! 待って!」
 突進する勢いで追いかけてきたモエギに、ジャックは何事かと後ずさる。
「何? 闘魂打ちでもされんのオレ?」
 違う、と首を激しく振り、モエギは訴えた。
「ハナさんが言ってたの! おろち神は、実体なんかない、宗教上の存在だって! カツヒコさんは、まだ若いから、誰かから違うことを吹聴されたんだって……」
 ジャックは稲妻にでも打たれたかのように、目を見開いた。しばし考え込むと、モエギの肩を強く掴み、しめたと言わんばかりの笑みを見せた。
「さすが、バアさんは生きてる年月が違うぜ。宰相さんはまだまだ青い、何だかんだでまだ惚れた女のことを信じてやがる」
「それじゃあ……嘘を吹き込んだのは」
 ジャックは無言でうなずくと、「ありがとな」とだけ残し、足早に去っていった。



 『輿入れ』の当日、日が昇って間もない頃に、カツヒコ率いる宮からの一団が集落にやって来た。民たちは揃って各々の家の前で頭を垂れ、祈りを捧げる。一段の中に、異国の用心棒が三名混じっているのは既に知れ渡っていた。
 それらに宮の兵士を含め、十名の一団が近付いてくるのを、モエギは家の入口越しに見つめていた。既に準備は整い、脇にはハナだけが控えている。本来生贄になるはずだったヤヨイは、ムツミと共に地下に身を潜めていた。
 兵士四人が担ぐ御輿が家の前で止まると、ハナがモエギの両手を包んだ。節くれだった皺だらけの手は、他人のものとは思えないぬくもりを与えてくれる。
「……あんたたちが、このジパングを良い方へ導いてくれると、あたしゃ信じてる。だから、死ぬんじゃないよ」
 頭巾で視界が遮られ、表情はうかがえなかったが、モエギは老婆の手に自分の手を重ねた。
「ありがとう、おばあちゃん」
 そのままハナに手を引かれ、モエギは『ヤヨイ』として、御輿に乗り込んだ。仲間たちの姿もおぼろげながら映ったが、今は言葉を交わせない。
 まずは、自分が鉄砲玉となり、おろち神の実態を見極める。危機に瀕した時は、サーラたちやカツヒコが手助けするという手はずになっている。
 懐に忍び込ませた肉弾戦用の武器は、生贄が持つにはあまりにも物騒なものだったが、これと星降る腕輪があればそれなりの戦いが出来るはずだ。
 一団は民たちの不安げな視線を背に、おろち神の待つ活火山へと出発した。



 活火山への道は、元々ヒミコやフジノら巫女の一族がふもとに集落を構えていたため、人道が通っていたが、途中からは山の奥へとつながる洞窟に侵入していった。
 道中は暗雲が立ち込め、日射しが届かず肌寒いくらいだったが、洞窟の内部は溶岩が所々に流れ込んでおり、その熱気で汗ばむ程だった。
 洞窟には魔物も棲みついており、御輿を担ぐ兵士以外の精鋭が相手取るのだが、今回はサーラたちがその役を買って出た。だが、大半はアルトが魔物を退けるトヘロスという魔法を使い、衝突は最低限に留めた。
 御輿の中で、モエギは自分も戦いに加わりたいのを懸命にこらえていた。兵士たちも、モエギがヤヨイの身代わりとして乗り込んでいるのは承知していたが、あくまで生贄として振る舞わないと、おろち神の怒りを買うというのだ。
 一団は順調に進み、おろち神の祭壇の間には、出発からおよそ半日で辿り着くことが出来た。
 モエギはカツヒコの誘導で御輿から降り、暑さのあまり頭巾をはずして顔中の汗を拭った。
 辺りを見回すと、真上まで見上げても広い、開けた空洞で、段々になった祭壇の左右には、兵士たちが篝火を灯している。ここが最深部らしく、先へとつながる道は見当たらない。暗がりの奥で、溶岩の湖がぐつぐつと煮えたぎっていた。
「……祭壇の間には、『供物』のみが残る決まりでな」
 カツヒコを仰ぐと、険しい表情のまま告げられた。
「私たちは祭壇の間の手前で待機している。何かあった時はこの鈴を鳴らすように」
 渡されたのは、真紅の紐が結ばれた、小ぶりの鈴を寄せ集めたものだった。モエギはそれを胸に抱くと、後方に控えているサーラたちに視線を移した。皆、了解を得て各自の装備に身を包んでいる。それに比べ、自分が纏うのは生贄用の白装束のみ。普段から軽装ではあるが、今は着慣れない布の感触が心もとない。
 だが、不安なのは全員同じなのだ。モエギは神妙な面持ちのサーラたちに微笑してみせると、頭巾を被り直し、祭壇へと向かった。
 生贄にも作法があり、教わったことを思い出しながら深呼吸する。壇上で正座をし、一礼すると目をつぶった。これがおろち神への拝礼で、認められるとおろち神は生贄の前に姿を現すという。
 本来、実体を持たないというおろち神が目の前に現れたとすると、おそらくそれは、『神』と崇められているものではない。そうなれば、モエギたちの答えは一つである。
 モエギが懐からナックルを取り出し、右手にはめたその時だった。
 突如、禍々しい気配が漂い、溶岩の湖から天井にも届きそうな大蛇が、雄叫びを上げながら現れた。話に聞いた通り、八つの頭と八つの尾がそれぞれ意思を持ってうごめている。
 モエギは立ち上がると、カツヒコから譲り受けた鈴をけたましく鳴らした。開戦の合図である。頭巾を脱ぎ捨て、右の拳を掲げる。
「さあ、ジパングの人たちを苦しめた罪を、身をもって償いなさい!」
 大蛇の赤い瞳が怒りを帯びてぎらついた。一頭がモエギを狙い突進してくる。巨体に似つかわしくない勢いで、衝撃で崩れた祭壇から飛び降りる。
 だが、モエギが体制を整えるのを待つ訳がなく、大蛇は次々と図太い矢のごとく頭身を繰り出してくる。せり上がった岩を足場に、盾にとやり過ごすが、宙に上がった所を太い尾に巻き取られ、モエギはうめいた。
「このっ! 離しなさいよっ!」
 ナックルで尾を力いっぱい殴るが、硬い鱗に覆われた皮膚はびくともしない。そのまま宙吊りにされると、サーラたちが駆けつけるのが見えた。
「モエギ!」
 ジャックが発動の構えを取った瞬間、尾がしなり身体を放られ、モエギは一頭の口の中に投げ込まれてしまった。
「なっ……!」
 何のためらいもなく飲み下され、モエギは悲鳴を上げながら大蛇の首をどんどん下っていく。咽喉は酸性なのか、素肌が触れると熱を伴ってただれる。不幸中の幸いで、装束は熱に強い繊維らしく被害を抑えていたが、この状況になす術もなく、モエギは大蛇の体内に収まってしまった。
 流れが止まり、どうやら大蛇の腹に辿り着いたようだ。モエギは酸液に冒された身体に苦痛を覚えながら、周囲に視線を巡らせた。
 脈打つ臓物の壁に紛れて、いくつかの骸が埋もれている。あれが、生贄となった娘の成れの果てなのか――モエギの全身から血の気が失せた。
 うら若い娘の命と未来を食いつぶし、一体何を満たそうというのだ。次第に、モエギは煮えくり返るような怒りに支配され、痛みも忘れて激昂した。
「ふざけるなっ! あたしたちは絶対、お前みたいな奴の好きにさせないんだからっ!」
 力任せに体内を打ちつけると、酸液が分泌し焼けつくような激痛に呑まれる。涙混じりに耐えたが、徐々に力が入らなくなってきた。気付けばナックルも酸化しており、原型を留めていなかった。
 何か、打開策はないのか。ナックルを投げ捨て、懸命に大蛇の体内を探る。すると、骸に紛れて、手のひら大の黒い珠が不気味な光を放っていた。
 目にしただけで、全身にどっと脂汗が噴き出る。身震いが止まらず、モエギは自分の身体をきつく抱きしめた。
「あれは……文にあった、黒い宝珠?」
 もし、あれが古から伝わる六つの宝珠の一つだとしたら、何故このような恐れを覚えるのだろう。
 だが、あの宝珠が単に所有者のせいで邪気を放っているだけだとしたら――
 モエギは一縷の望みを託して、黒い珠にすがりついた。
 途端、モエギの意識は急速に吸い取られていき、やがて常闇と化した。



 ジャックは、菓子をつまむようにモエギを丸飲みした大蛇を、茫然と見上げていた。
「まさか、本当に生贄を一飲みにするとは……」
 サーラやアルトの後方で硬直しているカツヒコに、ジャックは掴みかかった。
「クソ宰相! テメーが執り仕切ってやってきたことだろうがっ!」
「ジャック、今はもめてる場合ではない!」
 サーラが仲裁に入るが、脇目もふらずにジャックはカツヒコを地面に叩きつけた。くぐもった声で、カツヒコは弁明する。
「輿入れは、生贄を捧げ、祭壇から『供物』が無くなったのを確認するだけなのだ。実際に、おろち神の姿を目にしたのは、初めてだ……」
 ジャックは舌打ちすると、おろち神に向き直った。所詮、魔物相手に太刀打ちできるのは、自分たちだけだ。
「ジャック! モエギがあいつの中にいるってことは、うかつに手が出せないぞ!」
 アルトも、今まで対峙してきた魔物より数倍背丈のある大蛇を目の前に、考えあぐねいている。
「あの鱗の表面からして、蛇というよりは竜に近い。まずは奴を痛めつける前に、モエギを助けなければ」
 サーラは冷静に剣を抜いたが、顔は青ざめている。
 とにかく、やれることからだ。ジャックは唇を湿し、構成に取りかかった。
「とりあえず、冷気に弱いものとみて……ヒャダルコ!」
 うねり狂う大蛇の足元から、みるみるうちに氷柱がそびえ立つ。巨体の足場を固めるには長く魔法を持続させなければいけない。食いしばり、ジャックは叫んだ。
「アルト、サーラ! 今のうちに吐き出させろ!」
 二人はうなずき、岩場を蹴って見る間に大蛇の懐へと飛び込んでいった。バイキルトをかけてやりたい所だったが、大蛇の動きを鈍らせるので精一杯なのが苛立たしい。
 アルトたちはそれぞれ頭を斬りつけるが、やはり表面が硬いのか刃が負けてしまう。その合間に他の頭身が容赦なく二人に喰らいついてくる。
「くっそ……正当法じゃらちが明かねえ!」
 一旦手を止めると、背後でカツヒコの声がした。
「そういえば、古い伝承で読んだことがある……。かつておろち神が荒れ狂った時、当時の英雄は大量の酒を与え鎮めたと……」
 酒好きのジャックには、すぐ合点がいった。あまり使ったことのない魔法だが、ぴったりのものがある。
「脳みそは何とかマシみたいだな、宰相さんよ。そうときたら……メダパニ!」
 大蛇の周りで無数の気泡が弾けたかと思うと、八頭はみるみるうちに眼光の鋭さを失い、動きを止めた。アルトとサーラはその隙に大蛇から間合いを取る。
 酔わせてしまえば、後は眠らせるのが順当か。ジャックがラリホーの構成を浮かべた時だった。
 唐突に、大蛇が奇声を上げ、八つの頭をぶつけ合ったり首を絡ませ、めちゃくちゃな行動を起こし始めたのだ。
「あれ……? メダパニで乱闘いっちゃうくらい酒乱なの?」
 思わずとぼけた発言をしたのも束の間、その内の一頭が一際派手にわめき、首の根元から頭まで真っ二つに裂けた。
 何事かと目を見張ると、裂けた一頭の中から、ぼろぼろの布を纏った何者かが宙に舞い上がってきたのだ。
 それは確かに、先程飲み込まれたはずのモエギだった。
「モエギ!? 無事だったのか!」
 アルトが顔を輝かせるが、モエギは何の反応も見せず、宙に浮いたまま周りを見回している。遠目に見ても、様子がおかしいのは一目瞭然だった。
「モエギどのは、浮遊術の使い手だったのか?」
「ちげーよ! 何なんだ、あいつ……?」
 カツヒコを一蹴し、空中のモエギを凝視していると、視線がかち合った。次の瞬間、モエギは瞬く間にジャックの目の前に現れ、拳をうならせた。すんでのところでかわし、地面に転がったジャックは非難めいた声を上げる。
「オイ! お前までメダパニにやられたのか!?」
 言いやってから改めてモエギを観察すると、目にも痛々しい焼けただれた肌を晒し、丸い瞳は普段の明るさが微塵も感じられない。だが標的としているのは間違いなく、ジャックのようだった。
 地面に手をついたまま、ジャックは空いた手のひらをモエギに突きつけた。
「おらっ、目ぇ覚ませ! ザメハっ!」
 モエギは波動を浴びても微動だにせず、一気に間合いを詰めるとジャックの手を足で払い、体勢を崩したのを機に体重をかけて肘鉄を埋め込んだ。本来のモエギとはまるで異なる、圧倒的な力に、ジャックは血混じりに咳き込んだ。
 メダパニで混乱しただけでは、本人の力量までは変わらない。ましてや、いつもからかわれているうさ晴らしではないだろうに――そこで、ジャックは引っかかるものを感じた。
 髪をわし掴みにされ、無理やり頭を持ち上げられる。のたうち回る大蛇と立ち向かうアルトと、こちらに向かってくるサーラが視界に映る。見上げると、冷え切った表情のモエギが、じっとジャックを睨みつけている。
 互いに憎まれ口を叩き合い、旅路を共にしてきた仲間のはずが、今向けられているのは、憎悪だった。
「モエギ……」
 元の彼女に呼びかけるつもりで声を振り絞ったが、それも虚しく、力いっぱい頭を地面に叩きつけられ、足で踏みにじられた。
 朦朧とする意識の中で、ジャックは記憶の底から、ある教えを手繰り寄せようとしていた――



 あれは、丁度四人でダーマを訪問した際、カンダタの訃報を耳にした後だったろうか。祖父ヨシュアは、その晩ジャックと、同じく孫のクラリスを呼び、話を切り出した。
「先日、お前たちにはネクロゴンドの民と同じく、破邪の力があると話したな」
 泣き腫らした目をしたクラリスと共に、祖父の私室で腰を下ろしたジャックは、何の用件かと半ばうとましげにヨシュアの言葉を待っていた。泣きじゃくるモエギの声が、耳にこびりついていた。
「魔王バラモスを始め、その息がかかった者たちは皆、各々の邪気を力にし蓄えておる。中には、それを具現化して邪気のない者たちを取り込もうとする、卑劣な輩もいるであろう」
 普段とはうって変わり、口数の少ない孫たちをいいことに、ヨシュアは淡々と続けた。
「それに打ち勝つには、並の魔法ではかなわぬ。唯一、それに対抗し、相殺出来るのが、我々の『破邪の術』なのだ」
「……それを、いつかわたしたちも使うことになるのですね」
 うつむいたままクラリスがつぶやくと、ヨシュアは静かにうなずいた。
「その術をもって、ネクロゴンドの民はギアガの大穴に結界を張り、長年かの地を守っていた。そうまではいかずとも、破邪の術は賢者となって間もないお前たちにも可能のはずだ」
「……どうやるんだよ」
 苛立ちを隠しきれないジャックの心情を慮ってか、ヨシュアは咎めることなく説明した。
「邪気に冒された者、あるいはもの……そこに破邪の気、つまり聖なる気を送り込み、邪気をかき消すのだ。これは構成も呪文もない、勇者と同じく『心に秘められた魔法』なのだ」



 あの時は、そういった力の使い方もあるという程度にしか心に留めなかったが、今この時こそが、あの術を使う場面なのだろう。
 ジャックはモエギの細い足首を掴むと、構成を胸の中で描いた。
「イオ!」
 小爆発が起こり、ひるんだモエギをサーラが押さえ、羽交い絞めにする。
「ジャック! モエギは、どうしてしまったのだ!?」
 必死に抵抗するモエギと格闘するサーラに、ジャックは何とか立ち上がって答えた。
「説明は後にさせてくれ」
 血を吐き捨て、ジャックはモエギに向かって呼びかけた。
「オイ、モエギ。そんなにオレが憎いか。なら、気の済むまでかかって来い!」
 サーラはジャックの気迫に感じるものがあったのだろう、力を緩めた。同時にサーラを突き放し、モエギは真っ向からジャックに殴りかかってきた。
 傷だらけの拳を手のひらで受け止めると、心の中で詫びてモエギのみぞおちに膝蹴りをねじ込んだ。
 かはっ、と乾いた声を上げ崩れるモエギを抱きとめると、ジャックはサーラに指示を出した。
「サーラ! あの大蛇はおそらく、ヒミコが創り出した魔物だ! アルトと協力して、どうにかやっつけろっ!」
 サーラは一連の様子を声もなく見つめていたが、深くうなずいた。
「モエギを頼む!」
 アルトの加勢に向かうサーラを見送り、ジャックはモエギを抱えたまま力なくその場に座り込んだ。
「何ということだ……あの大蛇はおろち神ではなく、ヒミコが創り出した魔物だというのか?」
 岩陰に身を潜めていたカツヒコが顔を出すが、ジャックは見向きもせずに平坦な口調で返した。
「ああ。ヒミコが持っていた黒い珠、ありゃあとんでもねーパチモンだぜ」
 俗語に疎いカツヒコには構わず続ける。
「宝珠っていうモンはさあ、少なくともここまで持ち主をおかしく出来ねえよ。そのとばっちりを受けたこいつを目の当たりにしただろ?」
 ジャックは自分にしがみついたまま、尚もうなり声を上げているモエギをあごで示した。
「彼女も、あの黒い珠に影響されたというのか?」
「多分。あの化けモンの中の『核』が、例の珠だったんだろうな……」
 飲み込まれた中で、どうにか出来ないかとあがいた結果、この女に最も相応しくないものを見つけてしまったのだ。
 覗き込むと、モエギは暗い瞳のまま、恨めしげにジャックをねめつけてくる。目尻からは涙が溢れ出ており、ジャックは居心地の悪さのあまりカツヒコをどやしつけた。
「宰相さんよ、元はと言えばテメーの身内が招いたことだ。宝珠を持ってんなら何か出来るだろ! 今すぐあいつらの所行って落とし前つけて来い!」
 剣幕に圧され、カツヒコは残された兵士たちに何か言付けると、単身アルトたちの元へ駆けていった。
 ジャックは大きく息をつくと、ためらったのち、傷も生々しいモエギの身体をそっと包んでやった。抵抗されるかと思ったが、モエギはひっ、と息を呑み、硬直したままおとなしくなった。
 おそらく、例の黒い珠はモエギの体内に取り込まれているのだろう。目に見えないものを、どう破邪の術で打ち砕けば良いのか。
  『心に秘められた魔法』――祖父の言葉がふと蘇る。ジャックは考えを巡らせ、口を開いた。
「……お前が、オレを真っ先に標的にしてきたのは、よっぽど何かあるんだろうな。そりゃ、オレも散々お前のことからかってるだろうけどよ」
 返事はない。否、出来るはずがないのだ。
 長い旅の中でも、小綺麗にしている身体が、今は別人のようにぼろぼろになっている。心も勿論、同様のはずだ。
 生贄の身代わりなど、どんなに手練れの者でも多大な危険を伴う役回りに、ヤヨイやハナのためにと一心に申し出た無鉄砲さ。
「けどな。お前は自分のことを顧みることなく、誰かのために突っ込んでいける奴だ。そんなの、お前みてえなバカじゃねえと出来ねえし、それのお陰で実際助かってる奴らもいるんだよな」
 傷付くことを恐れず、いつもその先を信じているモエギが、ふいにいじらしく感じられた。
 ジャックはしっかりとモエギを抱え込み、身体をさすってやった。
「いいか。オレは誰も死なせねえ。だけど、特にお前は無茶ばっかしやがるから、その時は必ずオレが助けてやる。
 だから、お前はいつもバカな面して、笑っていろよ」
 瞳を閉じる。癒しの魔法とは異なる、ただモエギを救いたい一心で、ジャックはひたすら自分の魔力をモエギに注ぎ込んだ。
 小柄なモエギは、腕の中に収まるとより一層小さく感じる。幼い妹を抱いてあやしてやった記憶と、かつての恋人を腕に抱いた切なさがないまぜになり、朦朧としている自分自身に苦笑する。
 じわじわと、黒い塊をほどいて霧散させるように、意識を集中させる。口の中に苦いものが絶えず広がっている。このやり切れない思いは、テドンが滅ぼされた話を聞いた時によく似ている。
 『私怨』――唐突に蘇った暗い響きに、これまでずっと滞っていたものが集約された。同時に激しい動揺を覚えたが、私情に振り回されては術の力が弱まってしまう。
 代わりにモエギを強く抱き、ジャックは破邪の力に全神経を集中させた。
 やがて、黒い塊が残らず消え失せると共に、ジャックの意識も白く遠のいていった。



 ジャックが足止めにしていた氷柱もすっかり解けてしまった。大蛇は変わらず混乱しているものの、下手に手を出そうとすればこちらが致命傷を喰らいそうだ。
 アルトの元へ戻ってきたサーラは、崩れ去った祭壇の影で深く息をついた。
「サーラ、モエギは一体どうしたんだ?」
 アルトの問いに、サーラは首を左右に振った。
「分からない……。だが、モエギのことはジャックに任せた方がいい。私たちは、こいつを倒すことだけに専念するぞ」
 ジャックはおそらく、このジパングの一連の騒動について最も見通しが出来ている。モエギの異常も原因が分かっているような口ぶりだった。
 アルトは遥か後方のジャックとモエギを見やり、小さくうなずいた。
「それにしても、あいつの硬い鱗にどうやって太刀打ちするか……」
 二人で頭を悩ませていると、程なくしてカツヒコが駆け寄ってきた。宰相は切迫した様子で、訴えかけてきた。
「二人とも、よく聞いてくれ。あの大蛇は、おろち神ではない。ヒミコの術によって創り出された魔物だ」
「何だって……!?」
 アルトとサーラは瞬時に大蛇を仰ぐ。カツヒコは額の汗を拭いながら、帯剣していたものを抜いた。幅広の刃ではあるが、西洋の剣のような長刀ではない。
「これは、我が家系に伝わる『草薙の剣』だ。亡き父のものをナダクモが所持していたのだが、私とヒミコが国を再建した際、手元に戻ってきた」
「それで、カツヒコ殿も戦うというのか?」
 サーラが問うと、カツヒコはしばしの沈黙を挟んで答えた。
「私では、貴殿たちの身体能力には及ばないだろう。だが、この剣は本物のおろち神の霊力を宿している。これを通じて、あの大蛇に呼びかけてみようと思う」
「つまり、偽物に本物の力を見せつけるんですね」
 カツヒコはうなずき、祭壇のがれきの上に登ると、草薙の剣を高く突き上げ声を轟かせた。
「ヒミコの術により生まれし大蛇よ! ヤマタノオロチの尾より出づるこの剣に代わり、我カツヒコが申す!
 貴様はなにゆえ、貪り、滅びを望むのだ? その果てに生のない、焦土が見えぬか!」
 怒り狂っていた大蛇は、カツヒコの言葉が分かるのか、我に返りじっと聞き入っている。カツヒコが愛する、ヒミコの術による魔物だからだろうか。
 サーラはふと、大蛇の瞳の変化に気付いた。激しい光が消え、微かに揺れ動いているのだ。一頭が潰え、七頭となった者のどれもが、カツヒコを見つめている。
 まさか――サーラがうろたえるのと同時に、カツヒコは何やら呪文を唱え始めた。アルトが目を見開く。
「刃が……青白くなっていく」
 刀身が青い光の刃と化すと、カツヒコは一直線に大蛇へと向かっていった。大蛇は悲鳴を上げるが、カツヒコには襲いかからずに身を仰け反る。
「カツヒコ殿! 早まるな! その大蛇は……」
 サーラがたまらず後を追うと、カツヒコの懐から美しい色をした宝珠がこぼれ落ちた。気付かずに駆けていく男の背中が遠くなる。
 カツヒコの咆哮と共に、草薙の剣は大蛇の硬い鱗をものともせず、深々と喉元を貫いた。その途端、青い閃光が祭壇の間に満ち、地盤が奇妙に歪み出した。この感覚は何度か体験したことがある。
「サーラ! 地面が、巨大な『旅の扉』になっていく……!」
 アルトの呼ぶ声が聞こえる。崩れていく大蛇の巨体の下で、カツヒコは微動だにしない。サーラは足元に転がっている、艶めかしい紫の宝珠を拾い上げた。龍が絡みついた、紛れもない六つの宝珠の一つだった。
 煮えくり返った溶岩の湖が氾濫し、流れ出している。旅の扉の渦に足を取られながらも、サーラは自分の元にやって来たアルトの手をやっとのことで掴んだ。
 やがて、渦に捕えられ、意識は彼方まで遠ざかっていった。



 遠くから轟音が聞こえる。大地から轟く、怒りの声のようだ。数多の人間が逃げ惑う声、木々や家、柱の倒れていく軋んだ音。風に乗って運ばれてくる、熱を持った灰の匂い――
 サーラが飛び起きると、そこはほとんどが倒壊していたが、カツヒコと初めて面会した宮の一室だった。傍らにはアルトが気を失っており、モエギとジャックの姿は見当たらない。サーラのそばには、紫の宝珠が静かに倒れていた。
「ヒミコっ!」
 カツヒコの悲痛な叫びがした。立ち上がると節々が痛んだが、何とか身体を励まし、サーラは声のした方へ向かった。宮の離れから、ヒミコに呼びかけるカツヒコの声が繰り返されている。
 辿り着いた先には、目も当てられない程荒れた部屋の中で、血まみれになっているヒミコとカツヒコが身を寄せ合っていた。
「ヒミコ……何故だ! 離れていたはずの君が、何故!」
 よく目を凝らすと、ヒミコの胸から腹部にかけて、おびただしい出血がうかがえた。カツヒコはヒミコを抱きかかえたまま、錯乱状態となっている。
 飛び散る灰に混じって、集落からは民たちの悲鳴、さらに遥か遠くでは、先程までいたはずの活火山が噴火を起こしている。
「カツヒコ殿、貴方がそのような状態では、この国の民たちはどうなるのだ!? 早く、民を救いに……」
 サーラは懸命に鼓舞させたが、カツヒコの腕の中で、息も絶え絶えになっているヒミコを目の当たりにすると、それ以上何も言えなくなった。
 立ち尽くしていると、ヒミコがうっすら目を開けた。黒々とした瞳はわずかな生気しか残していなかったが、澄んだ色をしていた。
 瞬時に呼びかけるカツヒコに、ヒミコはゆっくり視線を定めた。
「カツヒコ……。あの大蛇は、わらわの化身……。あの黒い宝珠が引き出した、わらわの醜い心の現れじゃ……」
 カツヒコは息が止まったように硬直した。サーラは汚れた手で顔を覆った。やはり、あの大蛇はヒミコ自身だったのだ。
「わらわは……本来誰とも、血を交えぬ一族。禁忌を犯せば、生まれつきの有り余る力も失せて当然じゃ。けれども……そなたを、愛せずにはいられなかった」
 互いにジパングの柱となってから、カツヒコは宰相として民たちの信頼と名声を得た。その一方で、啓示を行いながらも力は鈍り、かといって集落の女たちのようにカツヒコとの子を宿すことも叶わぬ自らに、次第に失望していったと、ヒミコは語った。
「そこに、あの商人が、あの禍々しい珠を差し出した。わらわの弱さが、その珠を受け取ってから、全ておかしくなってしまったのじゃ……」
「その珠を売った商人とは……?」
 サーラが尋ねたが、ヒミコはそれには答えず、震える手をカツヒコに差し伸べた。骨に薄い皮がついただけの白い手を、カツヒコは力強く掴んだ。
「ヒミコ……君がどのような思いで、共に暮らしていたのか、私はほとんど何も分かってやれなかった……」
 うなだれるカツヒコの頬を、ヒミコは弱々しく撫でた。その仕草と表情は、蚊帳の外であるサーラの胸にもこみ上げるものがあった。
「……こうなることは、わらわは、とうの昔から知っていた」
 カツヒコは怖々とヒミコの顔を覗き込む。ヒミコは微笑んでいた。
「そなたのことを、守る前……わらわは、ある啓示を聞いた。
 カツヒコを生かす代わりに、誰かが代わりに生を失う、と。
 わらわにその誰かが分からぬとすれば、それは、わらわしかおるまい……」
 カツヒコは茫然と、ヒミコを見つめた。
 ヒミコの予言は、自分自身のことは分からない。自分以外のことは、見渡せたというのに。
 言葉も出ないカツヒコの頬を撫で続け、ヒミコは続けた。
「わらわは、そなたから父を奪った。今思えば、その償いだったのかも、しれぬな……。じゃが、それ以上に、そなたを死なせたくなかった……」
 激しく咳き込むヒミコに、カツヒコは我に返って声をかけた。
「ヒミコ! 私は、君がいないこの国など……」
「その先は言うな」
 サーラは背後からした声に思わず退いた。気がついたのか、アルトがすぐそばに立っていた。
「カツヒコさん。あんたがいなくなったら、誰がこの国の人たちを守るんだ? 女王ヒミコが願っていた国を作って、守ってきたのは、あんただろ」
 一回りも年下の少年に諭され、カツヒコはしばらくの間、耐えるようにして頭を垂れていた。床に広がった血の中に、溢れ出る涙が絶え間なく落ちていく。
 いつの間に持ってきたのか、アルトはカツヒコに、そっと紫の宝珠を差し出した。
「これは、まだあんたのものだ。あんたなら、きっと宝珠も応えてくれる」
 涙にまみれた顔で宝珠を受け取るカツヒコに、サーラも首を縦に振ってみせた。
 二人きりにしてやろう、とアルトに囁き、サーラたちはその場を立ち去った。



「……あの者たちが、わらわと、そなたを別つのは、本当のことだったの」
 己の身に添わせるように、ヒミコを抱き直すと、そんな言葉が返ってきた。
「だが、最期に本当の君を取り戻してくれたのも、あの者たちだった……」
 紫の宝珠は、神秘的な美しさを手の中で放っている。それを握りしめ、カツヒコは念じた。
 せめて、彼女の最期を、安らかなものにと、ひたすら願った。
 徐々に、宮の倒壊する音、山の怒りが遠のいていく。灰色の風は香ばしい匂いを運んでくる。
 二人は、黄金色の稲穂に包まれていた。
 気が付くと、腕の中にいたヒミコは一歩前を行き、涼やかな風に揺られる稲穂の中で、幸せそうに笑っていた。
 彼女は振り向くと、一瞬のうちに抱きついてきて、腕の中でこう告げた。
「これは、そなたとわらわの、夢の続き。
 離れても、わらわは、そなたと共に在る……愛しいカツヒコ」
 突風が吹き荒れ、気付くと彼女の感触は、さらわれたように消え失せていた。
 斜陽の中で、彼はいつまでも、風が吹き抜けていった方を見上げていた。