英雄の息子 5



 あの、柔らかな世界に溺れてしまいたかった。
 それを許されるのは、自分だけだという確信が欲しかった。
 けれど、浅はかな私情もろとも、彼女を沈めたくなかった。
 だから、溺れないように、沈まないように、ただ堅く抱き合い、夜闇に浮かんでいた。



「アルト、どうした?」
 頭を小突かれ、隣を見やるとジャックが口の端をつり上げていた。潮の香りが鼻孔をくすぐる。
「ああ……ちょっと、ぼんやりしていた」
「そうかい。いい夢見れたか?」
 どこか含みのある台詞だったが、アルトは目線を正面に戻し、そっとうなずいた。ジャックはそれ以上詮索せず、甲板に背をもたれ天を仰いだ。
 ――昨夜は結局、アルトもサーラも長旅の疲れと安堵感による眠気に勝てず、それぞれの部屋で就寝した。
 今朝は母の起こす声より早く目覚め、早朝から支度してくれたという盛り沢山の朝食を堪能した。焼き立てのパンを宿以外で口にするのは、実に久しぶりのことだった。
 かつて父の席だった、アルトの向かい側で母の料理を味わうサーラは、窓からの陽射しを受けながら柔らかな笑みをたたえていた。
 今日は二手に分かれ、サーラとモエギはルイーダの元でアリアハンの情勢について聞き、アルトは当初の目的である、ナジミの塔の老人に鍵のことを尋ねるため、ジャックと共に湾を船で渡っていた。
「あー……ダーマの冬に比べりゃ、お天道さんもあったかくていいな。オレがただの放浪人だったら、一生入り浸りするかも」
「ジャックが暮らすには、少し物足りないと思うけど」
「なら、老後の隠居暮らしにゃ丁度いいかもな!」
 からからとジャックが高笑いしていると、舵取りの男がおもむろに声をかけてきた。
「おーい、お前さんら、もうすぐ岸に着くから手伝っとくれ!」
 アルトとジャックは上陸の準備を手伝い、湾の小島に降り立った。船は一日二便しか出ないらしいが、ジャックのルーラを頼れば城下町に戻ることはいとも容易い。
 一度上ったことのある塔だったので、アルトはさほど迷うことなく、塔の主が部屋を構えている階まで辿り着いた。ジャックはあまり端の方を歩かないよう、慎重にアルトの後をついて来た。
 部屋の扉を叩くと、鼻眼鏡の小柄な老人がひょっこりと顔を覗かせ、白い片眉を上げた。
「ふむ、アルトではないか。そちは、ヨシュアの孫じゃな。入りなされ」
「ソイ様、お久し振りです」
 アルトは会釈し、部屋に用意された小ぶりな円卓に腰を下ろした。ジャックもその隣に着くなり、老人――ソイを繁々と観察した。
「はあ……。こんなへんぴな所に住んでても、ジイさんやオレのことまで知ってるのかよ。何者だよ、爺さん」
 ソイは切れ長の瞳で鋭くジャックを睨み、あしらうような鼻息をついた。
「わしのことは流石に知らんようじゃの。まあ、今となってはただの偏屈じじい扱いの方が気楽でええがの」
 ジャックは自分の祖父を思い出したようで、露骨に顔をしかめた。どうも目上の同性が苦手なようだ。
 当のソイはひとしきり愉快そうに笑うと、しばらくして湯気の立つ茶器を運んできた。
「さて、この隠居じじいにわざわざ会いに来るとは、何用かの?」
 アルトは居住まいを正し、ソイの細い目を見据えた。
「ソイ様。俺がアリアハンを旅立つ際、貴方はこの鍵を差し出すと共に、『三つの鍵を集めた者はすなわち、許されし者だ』と、おっしゃいましたよね」
 円卓に、かつてソイから譲り受けた盗賊の鍵を乗せる。ソイがうなずくと、ジャックはどうだ、とでも言うように魔法の鍵を並べた。
「で、三つの内二つ目を、オレたちはイシスの女王様の許しを得て手に入れた。こいつは単にポルトガへの通行許可証かと思ったが、大神官の話によると、この鍵たちは元々、ネクロゴンドの一族が寄贈したものなんだってな」
 ソイは涼しい顔で眼鏡をかけ直し、魔法の鍵を眺めて「それで」と促した。
「俺たちは、残りの一つ……『最後の鍵』を探しています。その鍵はネクロゴンド一族の手にあったそうですが、彼らの亡き今は行方知れずだそうで、ヨシュア様もご存じないとのことなのです」
「本当はイシスの女王様に教えてもらおうかと思ったんだが、色々あってこちらを訪ねたんですよ」
 ジャックも若干口調を整え、神妙な面持ちを見せた。ソイは顔を上げ、アルトとジャックを交互に見た。
「……結論から言おう。わしも知らん」
 アルトとジャックは言葉を失った。何とか手がかりだけでも掴めないかと詰め寄ると、ソイは眉間を揉みながらうなった。
「ネクロゴンドの分家であるダーマの者たちが知らんのなら、わしやイシスの女王が知る訳がなかろう」
「けどよ! 鍵がなけりゃオーブも手に入らねえ、オーブがなけりゃ、バラモスの根城に乗り込む術もねえんだよ!」
 ジャックが乱暴に円卓を叩く。アルトが慌ててなだめると、ソイは呆れたようにため息をついた。
「うーむ……ヨシュアの娘の息子ときたら、相当のクソガキじゃのう。ジャックと言うたか、おぬし」
「そうともよ、クソジジイと同じ髪だからな」
 妙な開き直り方をするジャックに、ソイは上等だとでも言わんばかりに笑みを向けた。
「なら、おぬしには分かるはずじゃ。のう、アルトよ」
 首を傾げると、ソイは遠い目をして、窓の外を見やった。
「おぬしらとわしらとでは、決定的に違うことがある。それは、土地に縛られる理由も義務も、おぬしらにはないことじゃ。すなわち、世界を駆ける自由を手にしておる……ならば、わしらに頼らずとも世界中をかけずり回って、様々な者に聞けば良いだけの話じゃ。そうは思わんかの?」
 ソイはワシのような目を光らせ、不敵に微笑んだ。
「ですが、何をどうすれば良いのか……」
 アルトは言い淀んだが、ジャックはその横で笑顔を取り戻していた。
「なら、別に鍵を優先させないで、オーブを先に探せばいいってこった。オーブを探している内に、鍵のことやネクロゴンドのことも聞けばいい。
 アルト、ランシールにあるオーブにこだわる必要はねえんだよ」
 たしなめるようにして頭を軽くはたかれ、アルトもようやく今後の道筋が、徐々に輪郭を成していくのが分かった。
「となると、オーブのありそうな所は……おそらく、何らかの戦や厄介事の起こっている土地にある可能性が高いな」
 ヨシュアとクラリスは、オーブの価値を歪んだ風に捉えた人間たちが、私利私欲のために奪い合ったと語った。それが今も続いていないとは言い切れない。
 ソイは満足げにうなずき、褐色のパイプに火をつけ、煙をくゆらせた。
「この国が開国したのは知っておろう。現国王も、昔わしが徹底的にしごいてやった甲斐あって、政務はなかなか立派にこなしておる。今のうちに謁見して、他国の情勢について尋ねると良いじゃろうて」
「現国王を、しごいた……?」
 ジャックが訝しげに問う。アルトは代わりに答えてやった。
「ソイ様は、前国王様の時代に政治顧問をされていたんだ。文官の中でも一番偉い方だったんだよ」
「よせやいアルト、昔の肩書きのこと言われたら、むずがゆくてたまらんわい!」
 照れくさそうにアルトを小突くソイを、ジャックは苦笑いを浮かべて眺めていた。
 それからは、今までの旅路をかいつまんで語り、ソイはしきりに相槌を打ちながら耳を傾けていた。
 陽気なこの老賢人も、さすがにテドンやランシールの一件では表情を暗くした。アルトも、もう何遍も話している出来事ではあったが、荒れ果てた村の有様や、哀れなあの男の最期が、今でも容易に思い浮かぶ。
「……そうかい。魔王はどうやら、オルテガの時代より勢力を拡大しているようじゃの。特にテドンは、元々聖地だったネクロゴンドのお膝元にあったから、オーブも昔ネクロゴンドの一族がひっそりと隠していたのかもしれんな」
「なら、魔王側はやはりオーブを狙って……」
 いや、とソイは首を大きく振り、眉根を寄せてパイプをかじった。
「それにしちゃあ、やりすぎだろう。これは、わしの憶測に過ぎんが……テドンを滅ぼした奴には、私怨が感じられる」
 ソイがこぼした陰湿な響きに、アルトとジャックは生唾を飲んだ。
「おぬしら、ロイドという魔王の配下と一戦交えたそうじゃが、他にも別の思惑を持つ配下がいるはずじゃ。その、ディートという男がテドン出身というのが、どうにも引っ掛かって仕方ない」
 サーラの元恋人、ディート。テドン。そこへ数十年前突如現れた、サーラの母レイラ。かつて魔王と対峙していた、精霊ルビスに仕える、剣士――
「……ソイ様」
 アルトのただならぬ様子を感じ取ったのか、ソイもジャックもこちらを瞬時に向いたが、促そうとはしなかった。
 アルトの胸中で、確信に近い仮説が、浮き彫りになろうとしていた。
「ディートは、ロイドにより魔物化されたと言っていました。あの男は俺を狙っていた、けれど俺を狙うなら、別に誰に襲わせても良いはずだ」
 ジャックはアルトの言わんとしていることに気付いたようで、低く尋ねた。
「つまり、あえてそのディートを利用した奴が、ロイドの仲間……バラモスの配下にいるってことか?」
 アルトはうなずき、ジャックとソイへ交互に視線を送った。
「そしてそいつは、おそらく……サーラか、その母親のエルフ、レイラに恨みがあるんじゃないかって、思ったんだ」
 ジャックは表情を強張らせ、ソイは黙り込み、腕を組んで床に目を落としている。
 もし、本当にそうだとすれば、主犯の奴は相当残忍で非情な心の持ち主であろう。ただ殺戮と命を弄ぶことを快楽とするロイドとは比較し難いが、人間の心理を心得ている奴の方が、よほどたちが悪いといえる。
 ソイは音を立ててパイプを噛みつぶし、鼻から煙を出した。
「……その線は十分にあるじゃろうな。しかしアルト、この話決して、そのサーラという娘に」
「しません」
 ソイは目を丸くした。ジャックは表情を変えずこちらを見つめている。
 テドンを後にしてから、常々思っている。もしあの村が滅ぼされた理由にサーラが関係しているのであれば、決して自分を責めさせたくないと。
 この腕に抱いたサーラは思っていたより脆く、狂おしい程に愛しいと感じた。
 何度でも誓う。もう決して、サーラを悲しませないと。
 しばらくして、ソイは敵わねえ、といった風に苦笑した。
「アルト。おぬしが真っすぐなのは結構なことじゃがの、あまり視野をせばめるでないぞ」
 そしてジャックに向き直り、にやりと笑ってみせる。
「ジャック、おぬしはアルトの良き友人のようじゃ。しっかりと、アルトの側で手助けをしてやってくれ」
 ジャックは珍しく控えめに、「……はい」と答えた。
 あいさつもそこそこに、ソイの元を後にすると、ジャックは背後で大きく息をついた。
「ロイドの他に、サーラさんに恨みがある魔王の手下? マジかよ」
「本当にそうかは分からない。けど、そんな気がするんだ。サーラより、むしろその母さんの方に、何か特別な恨みがあるんだ」
「だからって、その娘のサーラさんにまで……相当キレた奴だな」
 舌打ちが耳に届いた。アルトの思考は、サーラからその母レイラの方へ向いていった。
 レイラは、精霊神ルビスに仕えるエルフだった。エルフといえば、ノアニールの森深くにも住んでいたが、レイラは結局自分がかつていた場所を思い出せないまま、この世を去った。
 ノアニールのエルフたちと、レイラは同種族だったのだろうか。また、あの森で王女として崇められていたアンと、サーラが瓜二つだったことも引っ掛かる。
 エルフの女王に、レイラのことを尋ねたら、何か分かるだろうか――様々な思惑を巡らせていると、ジャックが横に並んできた。
「お前がさ、サーラさんのこと想ってるのは分かるけどよ……あんまり、入れ込みすぎるなよ」
 足を止め、ジャックを見やる。ゆっくり視線を落として、つぶやいた。
「どうかしてるのかもしれない。サーラが、あまりにも沢山のものを失っていくのを、目の当たりにしてきたから……。だからサーラに、俺を心の拠り所にして欲しいんだ」
 すると、ジャックに無理矢理向き直され、両頬を引っ張られた。ろれつの回らない抗議をぶつけると、ジャックは手を離し肩をすくめた。
「お前さあ。サーラさんには自分しかいないと思ってるの? モエギの奴とか、ルイーダさんとかもいるでしょ。そんな風に思い詰めてると、お前の方がまいっちまうよ」
「けど、俺はサーラの……」
「恋人、だろうけどよ。そういう関係は、どっちかに負担が片寄るといけないの。まあでも、女の方に負担かけてないだけマシなのかもしれねえな」
 ふいにジャックが遠い目をしたので、アルトは小首を傾げた。
「……どうしたんだ?」
 ジャックはこちらを見、そっと微笑んだ。
「……いんや。やっぱオレ、隠居してもアッサラームに戻りたいのかねって」
「そんなこと、俺に聞かれても困るよ」
「それでいいの。自問自答」
 答えを言っていないじゃないか、と思ったが、ジャックは先に階段を降りていってしまった。
 もう一年近く仲間として接しているジャックではあるが、自らする異性の話はもっぱら、軽い口調のものばかりだった。
 故郷に――アッサラームに、思い出の女性でもいるのだろうか。そんな考えがよぎったが、今は目先のことに集中しようと、アルトはジャックの後を追っていった。