英雄の息子 4



 それから数日の間、サーラはアルトとジャックがダーマから持ち帰った数々の話に耳を傾けたり、モエギと共にグプタとタニアの元を訪ねたりして過ごした。
 サーラは、ごく親しい人間以外には故郷テドンのことを伏せていた。だが、ポルトガまで同行したグプタは事情を知っていたため、彼らにだけは事実を打ち明けた。情に厚いグプタはもちろんのこと、タニアもはらはらと涙を流し、お辛かったでしょうとなぐさめの言葉をかけてくれた。同情されるのは正直好きではないが、かといって再び自分も瞳を潤ませるようなことは、もうなかった。
 グプタはポルトガの商人たちと交渉を重ね、黒こしょうの流通に向けて奔走しているという。この大仕事が一段落ついたら、タニアと挙式するのだと頬を緩めていた。その時もし参列してくれたなら、ブーケはサーラかモエギに、とタニアは目を細めていた。モエギが照れていたので、新しい想い人でも出来たのか、と尋ねてみたがはぐらかされてしまった。
 モエギはともかく、サーラは結婚など、今は到底考えられるはずもない。だが、バラモスを討ち、世界に平穏が約束された時、最もそばにいて欲しいのはやはり、アルトなのだろう。
 まだ少年の域を出ないアルトではあるが、テドンで言おうとしていたこともおそらく、極端に言えば生涯を共にしたいということなのだろう。
 気が早いとは思う。だが、肉親の亡き今、サーラは改めてアルトの家族と会ってみたい、と密かに願っていた。
 結局、バハラタで半月程の休息を取った後、サーラたちは船でアリアハンへと向かうこととなった。モエギの両親やグプタたちから食糧や衣料などの餞別をもらい、船を預けているバハラタ南の漁村へと発った。
 漁村の老夫婦はサーラたちを温かく出迎え、船を預かっている間は舵手のダンや乗組員たちと共に修繕や手入れをしていたという。老人はあんなに立派な船を世話したのは生まれて初めてじゃったよ、としわがれた声を弾ませた。
 サーラたちは船を預かってもらった礼として、バハラタから運んできた食糧を老夫婦に手渡した。普段は行商人が定期的に立ち寄るので、その際食糧の調達を頼んでいるらしいのだが、サーラたちは今まで得た金で上質なものを贈り、彼らに謝意を示した。老人の妻は涙ぐみながら、初めて訪れた時と変わらない、少女のような柔らかい笑みで受け取ってくれた。
 老人によると、この漁村からアリアハンまでの航路は比較的海流が静かで、航海しやすいという。とはいえ、真冬の海は決して油断してはいけないと釘を刺され、アルトは気を引き締めていた。
 初めて自分たちの船を目の当たりにしたモエギとジャックはお祭り騒ぎで、ダンや乗組員たちと和気あいあいとしながら、航海術を手ほどきされていた。
 全員が船に慣れた所で、サーラたちは一晩漁村で宿を世話してもらい、翌朝老夫婦に別れを告げて出航した。
 ルイーダや、皆はどうしているだろうか――潮風から髪を守るための毛皮のフードを抑えつけながら、サーラは甲板から懐かしい第二の故郷に思いを馳せた。



 アリアハン城下町の西には船着き場がある。これはアリアハン大陸の下部に位置する湾を行き来するためのもので、湾の中心には小島があり、そこにぽつんと佇む塔――ナジミの塔を、かつてサーラたちは訪ねたことがあった。
 アルトとジャックは、ナジミの塔に住む老人が三つの鍵にまつわる秘密を知っているかもしれない、という。だが、未だ精神的疲労の残るサーラを気遣い、まずは城下町に落ち着いてから行動しようということになった。
 寒波の中揺られ、久方ぶりに帰還したアリアハンは、まだ暦では真冬だというのに空気が既に緩み始めており、到着した日はうららかな青天が広がっていた。
「あ〜っ、久しぶりのアリアハン! さすが常春の都って言われてるだけのことはあるよね!」
 門をくぐるなり、モエギは小躍りして小柄な身体をうんと伸ばした。
「常春ねえ……いい国じゃねえか」
「何カッコつけてんのよ。言っとくけど、アリアハンに賭博場はないからね。残念でした」
 水を差され、ジャックはふてくしたように唇を突き出した。今は賢者の装いではなく、普段の軽装をしている。
「あ〜あ、いつまで経ってもコレだもんな。オレだってなあ、風流とか風情っつうモンくらい分かるんだぜ?」
「あっそう。そもそも、賭博なんかしたら大神官に大目玉くらうものね」
 モエギとジャックはいがみ合い、互いに顔を反らした。相変わらずの二人に苦笑していると、モエギはジャックから距離を取るようにしてサーラの隣に並んだ。
「サーラ、まずはルイーダさんにあいさつしに行こう? アルト君はまず家に帰る?」
「ああ…どうしようかな」
 生まれ故郷に帰ってきたはずなのに、アルトはどこか浮かない顔で言葉を濁した。すると、ジャックがその背中を大げさにはたき、
「いいじゃん、どっちでもよ。まずは全員で、そのルイーダさんとやらの店に行こうぜ! もうオレ、腹がスカスカ……」
「お前、船酔いしていたものな」
 サーラが一言口にすると、アルトも巻き込んで肩に手を回された。
「そうそう。ついでに、お前らのこともちゃんと報告しなさい」
 顔を見合わせると、照れくさそうにではあったが、アルトはようやく笑顔を見せてくれた。
 おそらく、故郷とはいえども『オルテガの息子』という肩書きがどこよりものしかかってくる土地だから、緊張を隠せないのだろう。サーラも小さく微笑み返し、モエギの先導で酒場への道を歩き始めた。



 扉を開けると、古ぼけた呼び鈴の音色が懐かしく出迎えてくれた。
 木とほこり、酒の匂いが混じった日当たりの良い店内が視界に広がる。店主のルイーダを目で探したが、今はカウンターに立っていないようだ。
 テーブル席で談話している数名の女冒険者の内、黒の三角帽子の女がふとこちらを見た。サーラが軽く手を挙げると、女は幽霊でも目にしたかのようにしばし茫然とし、すぐさま駆け寄ってきて両肩を掴んだ。
「サーラ!? モエギ!? それと、オルテガ様の……ええっ!?」
「久しいな、マリリン。ルイーダさんは出払っているのか?」
「え!? 店にいるわよ! ちょっと今呼んでくる!」
 帽子と同色のマントをたなびかせ、マリリンは一目散にカウンターの奥へ消えていった。他の二人も酒場の昔馴染みで、モエギが率先して再会を喜び合った。今の所、一階の酒場には彼女たちしかいないようだ。
「いやあ、早くお目にかかりたいね〜ルイーダさん。オレの好みだったらどうしようね〜」
「どうもしないわよ。それ以前に、ルイーダさんはあんたなんか願い下げだと思うよ?」
「んだと!?」
 いきり立つジャックの周りに、それまでモエギとはしゃいでいた女冒険者たちが群がり、質問責めが始まった。元々端正な顔立ちで、おまけに珍しい銀髪のジャックは、他国では本人の想像以上に異性の注目の的となるのかもしれない。
「ジャック、まんざらでもないみたいだな」
 彼女らに愛想良く接するジャックをアルトが評する。モエギの白い目に気付いたジャックが眉をひそめた。
「何だよ、その目」
 非難めいたジャックの口振りで、モエギの表情はうらめしげなものに変わった。サーラはそれを目の当たりにして、もしや、とある考えが脳裏をよぎった。
「ちょっと、モエギどうしたのよ?」
 女の一人が怪訝な声を上げると、モエギの気持ちなどいざ知らず、ジャックが代わりに答えた。
「あー、あいつ何か最近変なんだよね。オレに対する態度がコロコロ変わるの。ったく、あいつをしつけたルイーダさんとやらに早く会いたいモンだね」
「ちょっとそこのぼうや、人の店で女の子口説いてんじゃないよ。早くおどき」
 突如背後から上がった声を聞いた瞬間、胸を杖の先でとん、と突かれたような感覚に陥った。ジャックも、アルトも、モエギも、弾かれたように入口の外を見やった。おそるおそる、サーラも振り向く。
 引き締まった両腕いっぱいに紙袋を抱えた、妙齢の美女はサーラを見、大きく目を剥いた。
「おっかしいわね、ルイーダさんさっきまで奥に……」
 慌ただしく戻ってきたマリリンも、他の女たちも、皆サーラと、女――ルイーダに注目した。
 何か、言わなければ。話したいことが、沢山あったはずなのに。
 こみ上げるのはただ、言葉では言い尽くせない感情だった。
 ルイーダはそばに立っていたジャックに紙袋を押しつけると、サーラの目と鼻の先まで近付き、そっと両肩に手を置いた。
「聞いたよ。……しんどかったね」
 低いつぶやきの後、ルイーダは手を下ろした。アルトとモエギを見回すと、今にも泣き出しそうな程、くしゃくしゃの笑顔を放った。
「おかえり!」
 アルトも、モエギも、つられたように泣き笑いを浮かべて「ただいま帰りました!」と声を張り上げた。サーラは返事の代わりに、深く頭を垂れた。
 声を発すると、また涙が止まらなくなってしまいそうな気が、した。



 サーラたちはカウンター席に着き、ルイーダから差し出された各々の飲み物を口にしながらくつろぎ始めた。マリリンたちは気を利かせたのか、二階の女部屋に引き上げていった。
「あんたたちが旅立って、もうすぐ丸一年ってとこかい?」
「そうですね。俺の誕生日の頃に旅立ったから、春が来れば一年経ちます」
「ルイーダさん、アリアハンは変わりない? あたしたち、着いたら真っ先にここに向かってきたから……」
 アルトとモエギは、ルイーダとの久し振りの再会で心なしか声の調子も上がっている。ルイーダは我が子と向き合っているような眼差しで、口角を上げた。
「実はね、あんたたちが旅立ってから、アリアハンは開国したんだよ」
 ルイーダの言葉に、ジャック以外が驚きの声を上げた。
「鎖国をしたのは、前国王様が崩御されてすぐだったから……五年くらい前かしらねえ。多分、現国王様がまだお若かったからだとは思うんだけど」
「そうか……だから、ロマリアやイシスにも援助を要請出来たのか」
 ここでようやく、ロマリアやイシスでの待遇に合点がいった。サーラがつぶやくと、ジャックも話題をつないだ。
「オルテガ様の時代なら、ダーマにも援助要請は来たらしいな。アリアハンの現王が何歳かは知らねえけど、何か開国した理由でもあるのかね?」
 最後の言葉はルイーダに向けたものだった。ルイーダは片眉を上げ、視線を移す。どうやらジャックに興味が向いたようだ。
「へえ。ただのちゃらんぽらんかと思ったら、さすがは銀の賢者だけあるね」
「あれっ、オレのこと知ってるの?」
 ジャックは子供のような無邪気さで身を乗り出した。ルイーダはうなずく代わりに、紅を引いた唇を上向きに結んだ。
「そうさ。王様から使いが来てね。ダーマのヨシュア大神官からの伝言だそうで、あんたのことと、テドンのことも聞いた」
 ルイーダの視線はサーラに向けられた。口は笑ったままだったが、目はひどく静かだった。思わずシードルの入ったグラスに力を込める。
「サーラ、あんた……」
 ルイーダが言いかけると同時に、ベルの音と共に数人の冒険者が床を軋ませながら入ってきた。話し声からして、サーラたちとも馴染みの男たちだろう。目の前が曇った。
「お? 誰かと思ったら、モエギにオルテガ様んとこの坊っちゃん、それに、サーラかよ!」
 酒場中に響いた声は、入ってきた男の内で一際いかつい戦士で、他は中年の気さくな商人、酒場の女たちとよくたわむれている盗賊の青年だった。モエギはすぐさまカウンターを離れ男たちを出迎えたが、サーラやアルトは座ったままだった。
「久しぶり。あんたたちも相変わらずみたいね」
「モエギちゃん、その髪どうしたのさ? 男にでもふられたのかい?」
 中年の商人は三人の中でも気のいい冒険者だったが、他の二人はとっつきにくく、特に戦士の大男は何かとサーラに突っかかる、意地の悪い冒険者だった。サーラは顔だけを彼らの方に向け、じっと身を固くしていた。
「やあやあ、オルテガ様の坊っちゃんもすっかりたくましくなられて!」
 彼らの注目がカウンターに移り、サーラは反射的に警戒の色をあらわにする。
 何故だろう、アリアハンにいた頃は適当にあしらっていたというのに、不安が押し寄せる。いっそこの場から立ち去りたい程だった。
 黙っていると、代わりにアルトが口を開いた。
「いえ、皆さんこそ、お元気そうで何より」
「ははあ、確かにいい面構えになったな。オレぁてっきり、サーラに骨抜きにされてふぬけになったものと思ってたぜ」
 途端、酒場の空気が張り詰めた。アルトとモエギは半笑いのまま固まり、それまで無関心だったジャックはグラスを置いた。サーラはゆっくりと、大男に向き直る。
「……それは、どういう意味だ?」
 戦士はずかずかとサーラの前に歩み寄り、腕を組んでこちらを見下した。
「言った通りよ。お前、ここ来た時からおれたちにゃ見向きもしなかったもんなぁ。オルテガ様のせがれならよ、たぶらかす甲斐があるってもんだよなぁ?」
「ちょっと、こっちは帰ってきたばっかりなのに、言いがかりはよしてよ!」
 モエギが仲裁に入るが、大男はルイーダがいるのもおかまいなしに罵詈雑言を並べた。
「第一、お前みたいな女がおれと同じ戦士だってのが、どうも気に食わねえんだよなぁ。アッサラームの路地裏で客引きでもやってりゃ、相当儲かるだろうによ!」
 瞬間、音のない爆発が頭の中で怒った。
 気が付くと、大男は顔面を水びたしにしており、サーラの手には中身の残りが滴り落ちるグラスが握られていた。床から、酸味を含んだ甘ったるい香りが立ち昇る。
 自分の不規則な呼吸だけが、酒場に溶け込んでいった。
「こ……のクソア」
「ボミオス」
 横からジャックが放射したかと思うと、サーラに食いかかってきた大男の動きが極端に鈍くなり、間を置かずにモエギが大男をねじ伏せた。商人たちの顔から一気に血の気が失せた。
 サーラはグラスを握りしめたまま席を立ち、戦士に向かって腕を振り上げた。
「それ以上はおよし!」
 女性のものとは思えない程、どすのきいた声だった。サーラの手からグラスが滑り落ち、派手な音を立てて砕け散った。散乱した破片にも構わず、サーラは床に膝をついてうなだれた。
「サーラっ!」
 アルトが傍らにしゃがみ込み両肩を抱いてくれたが、それを振り払い、閉じた目をそろりと開けた大男に向かって吐露した。
「私は……貴様のような奴にさえ我を失う程、おかしくなってしまったようだな」
 自嘲と共に歪んだ笑みをこぼし、サーラは脇目もふらずに外へと歩み始めた。盗賊の青年は短い悲鳴を上げ後ずさりしたが、どうでも良かった。アルトやモエギの呼び止める声にも耳を貸さなかった。
 そのまま酒場を出、大通りに差しかかったあたりで、背後から強く手首を掴まれた。
「離せっ! 私みたいな奴なんか、放っておいてくれっ!」
「放っておけるかこの馬鹿娘っ!」
 耳をつんざいた声に硬直すると同時に、強引に反対側を向かされ鋭い平手をくらった。よろけたサーラを、しなやかな腕が受け止めた。
 淀んだ視界いっぱいに、全身を震わせるルイーダが映っていた。
「……ルイーダ、さん」
「何だい、その情けない声は! あんた、そんなになっちまって……」
 ルイーダは抑えつけているつもりなのだろうが、喉の奥から唸るような声を漏らしている。頬には既に二筋の涙が伝っていた。
 いつも朗らかに笑い、冒険者たちにげきを飛ばしていたルイーダが嘘のようだった。
 泣かせてしまった。他でもない、自分が。
 それを実感した途端、申し訳なさと薄れていた悲しみが一気に押し寄せ、サーラはルイーダにすがりつき大粒の涙をこぼした。
 嗚咽が、ちぎれるようにして絞り出され、喉と目をみるみるうちに干乾びさせていった。



 しばらくして、ルイーダがサーラを連れて戻ってきた時は心底ほっとした。だが、二人とも目を赤くし、互いに支え合うようにして酒場の奥へと消えていったので、アルトはそれが気がかりだった。
 昔からの馴染みとはいえ、大男のあまりにも粗雑な言動に憤慨したモエギは、幼稚な罵倒を次々とぶつけた挙句、ジャックになだめられていた。アルトもモエギと同様に、大男を許しがたく思っていたが、怒りのあまり言葉が出てこなかった。
「サーラは……一体どうしちまったんだい?」
 かろうじて冷静に話せる商人がジャックに問いかける。ジャックはモエギの背中をさするのを止め、呆れたように肩をすくめた。
「あー……その辺の話は、ルイーダさんから聞いて。オレが見てて思うには、そこのいかつい奴。テメー好きな子をいじめるタイプだろ」
 テーブル席でぐったりとしていた大男は、言われるなり猛烈に反発した。
「うるせえぞ優男! 何上から目線でもの言ってやがるんだコラぁ!」
「え〜、だって上から目線でもの言っていい立場だもん。オレの知り合いにもそういう奴いるんだけどね、まあアレだな、もうちょい女の子の扱いってモンをさ」
「ふざけた口利きやがって! そもそもてめえ、部外者のくせに生意気なんだよ!」
「部外者じゃないもん、ルイーダさんオレのこと知ってたみたいだし」
 大男はらちが明かない、といったように舌打ちし、再びテーブルに顔を突っ伏した。その向かいで、盗賊の青年は先程から気まずそうに見学している。
「あの……あんた、何者なんだい? さっきボルックに変なことして動きを鈍らせたみたいだったけどさ」
 騒ぎを聞きつけ下りてきたマリリンが訝しげに尋ねると、ジャックはしれっと答えた。
「いや、名乗る程のモンじゃないから。アルト君の親友ってトコでヨロシク」
 言葉ついでに肩を抱かれたが、「ここはオレに任せとけ」という囁きを耳にし、ジャックがあえて部外者という立場を利用して、場を取り繕っているのが分かった。
「まあ、ボルックが何かとサーラに突っかかるのは、そいつが一番最初にサーラを口説こうとして、こっぴどくフラれたからなんだけどね」
 それまで口を利かなかった盗賊の青年がぼやいた。大男――ボルックはむくりと身体を起こし、土気色の顔に奇妙な微笑を浮かべた。
「あ〜、サーラさん言ってたっけね。自分を見る男の目がイヤだったってね」
「ふむ、そういえば、サーラが唯一剣を向けたことがあったのは、うちの連中の中ではボルックだけだったかねえ」
 オレもあるよ、とジャックがつぶやくとほぼ同時に、ボルックは水を得た魚のようにまくし立てた。
「そうさ! あの女、ちょっと肩叩いて声かけただけだったのによ、いきなり剣抜いて刃ぎらつかせてよ! さっきのあいつ、あの時と同じ瞳してたぜ!」
 ボルックは息を荒げている。ふと、アルトの脳裏に、テドンでの記憶が蘇ってきた。
 降りしきる豪雨の中、お前も斬るぞ、と刃を向けてきたサーラ。生命の息吹も、彩りも失った光景の中で、紅い瞳だけがぎらぎらと、有彩色を放っていた。
「……そう、まるで、紅炎のように」
 アルトがぽつりとこぼすと、その場の全員の注目が集まった。これにはジャックも驚いたようで、肩に回されていた腕がするりと離れる。
 今までのアルトであればうろたえたかもしれないが、それらの視線をゆったりと見回し、静かに語りかけた。
「サーラは、確かにそういった性格もある。けど、それだけがサーラの全てじゃないだろ?
 本当のサーラは、とても繊細で、優しい心を持っている。誰よりも、俺はそれを知っているつもりだ」
 一同は黙ってアルトを見つめていたが、ボルックだけはくだらないとでも言わんばかりに鼻で笑った。
「はん、お前さんはどうやら本当にサーラに骨抜きにされたようだな。まあな、いくらあいつでも、お前さんのような見目麗しいガキにゃあ、剣は向けねえよな」
「サーラは、俺にも剣を向けたよ」
「ああ? そりゃ、酒場の前で勝負した時の話だろ?」
 アルトは首を振って否定し、テドンでの一部始終を話した。さらには、ランシールで対峙した、サーラのかつての恋人・ディートについても打ち明けた。
 こんなに喋ってしまうと、サーラは酒場の皆と接しづらくなってしまうかもしれないと内心思ったが、今のサーラはまだ不安定なのだということを、先刻の出来事で痛感した。ならば、ルイーダの話を待つことなく、今ここで大方話してしまった方が、皆の理解を得られるはずだ。
 何より、未だサーラの傷が癒えていないのを気遣ってやれなかった自分の甘さが、悔しかった。
 これにはボルックも返す言葉がなく、皆沈痛な面持ちで口をつぐんでいた。マリリンは手で口を覆い、睫毛を濡らしていた。
 アルトは、蕾が開いたばかりのような、サーラの微笑みを思い浮かべた。
 想いが通じ合っても、分かり合えないことや、上手くいかないことが山程ある。けれど、あの笑顔を何よりも尊い、愛しいと、痛切に思う。
「……それでも、俺は、サーラを大切にしたい」
 サーラを守りたいと、強く願う。
 その時、奥からルイーダと、サーラが姿を現し、全員が一斉に二人の方を向いた。
「みんな、すまなかったね。その顔だと、今は多分、同じような気持ちかねえ」
 ルイーダは泣き腫らした目で気丈に振る舞い、サーラの背中を押し出した。アルトは声をかけようとしたが、サーラの青白い顔に浮かぶ意思を感じ、ぐっとこらえた。
 サーラは髪を揺らし、迷わずボルックの前に歩み寄った。ボルックは困惑気味に身を引いたが、サーラが手を差し出すと目を見張った。
「……取り乱して、すまなかった」
 アルトは傍らで、何故サーラが先に謝るのかと、わずかに苛立ちを覚えた。罵倒したのは明らかにボルックだった。だが、よくよく考えてみると、先程の話にあった通り、サーラがボルックを拒絶したのがそもそもの原因だったのだろう。もしかすると、サーラもそれをルイーダに指摘されたのかもしれない。
 ボルックは、サーラの白い手を目の前にしどろもどろしていたが、ばつが悪そうに一言放った。
「わ、悪かったな。何も、知らなかったんだよ」
 おそらく、握手を求めたのだろう手を引っ込め、サーラはアルトたちを見回した。アルトは一歩前に進み出、軽く頭を下げた。
「……俺が、皆に話した。勝手に話して、ごめん」
 サーラはしばし沈黙していたが、ふるふると首を横に振り、一枚の花弁が舞ったような、柔らかな笑みを浮かべた。そばにいた商人が思わずほう、とため息をついた。
 すると、マリリンが何かに気付いたようにモエギに耳打ちすると、くすくすと笑い声が上がった。
「何何? どした……」
 耳を貸したジャックも途端に吹き出し、サーラは首を傾げた。
「……何か、おかしいか?」
 ジャックが指差した先を見やると、そこにはサーラを見つめたまま、頬を染めているボルックの顔があった。当の本人もようやく気付いたのか、さらに顔を赤くしてジャックに食ってかかった。
「なっ、笑うな! おれはな、怒りすぎて血が昇ってるだけだっ!」
「アッハッハ、オレの言った通りじゃん!」
「どっかの誰かと一緒だけど、かーわいーっ!」
「顔に似合わないわよ、ボルック!」
 三人に便乗して、商人と盗賊の青年までもがボルックをはやし立てる始末で、「てめえら、やかましいぞ!」と怒鳴り散らすボルックの叫びも虚しく、一時の間酒場は笑い声で満たされた。
「くそっ、どいつもこいつも! つうか、おれたちゃ仕事帰りなんだよ! 早く酒と飯を出せよ!」
「分かってるよ! 今女連中に作らせてるところだよ!」
 ルイーダも腹を抱えながら答える。この空気にのまれていないのはアルトとサーラだけで、モエギやジャックを含め、他の者たちは既に先刻の出来事など忘れてしまったかのように騒いでいる。
 これはとてもかなわない、とサーラに視線を向けると、同時に目が合い、互いに苦笑した。そのままサーラは、壁際にいるアルトの元へ近寄ってきた。
「アルト、せっかくの帰郷だというのに……すまなかったな」
 今度はアルトが首を横に振ってみせると、サーラはボルックに見せたものとはまるで異なる、花開くような極上の笑みを向けた。まさかの不意打ちに、心臓が大きく高鳴った。
「……ありがとう、アルト」
 滅多にない、サーラの素直な感謝の言葉までもらってしまった。アルトは熱を帯びた頬を隠すようにうつむき、低く返した。
「ルイーダさんの、おかげだよ。……俺は、別に何も」
 口にして、何となくボルックの気持ちが分かったような気がした。
 これ程までに稀有な女性を相手に、正当な手段で距離を縮めようとは到底思えない。今までの自分が不思議なくらいだった。
「ちょっと、おふたりさん」
 唐突に声をかけられ、我に返るとルイーダがそばまで来ていた。モエギやジャックたちはすっかり盛り上がっており、こちらを気にかける様子は皆無だった。
「悪いけど、あんたたちは他の所に行っておいで。こんなやかましい店じゃ、せっかくのムードぶち壊しされかねないからさ」
 ウインクされ、アルトとサーラは同時に顔を赤らめた。窓の外に目をやると、つい先程アリアハンに着いたばかりのような気がしていたが、日が既に暮れ始めていた。
「常春とは言えども、さすがにまだ、日はちょっと短いからさ。アルト、あんたの家にサーラを連れて行ってあげな」
「けど、まだ色々聞きたいことが……」
 サーラが渋ると、ルイーダは実の娘を相手にするような眼差しで、ラベンダー色の髪を軽く撫でた。
「明日でも、明後日でもおいで。今のあんたには、十分すぎる程の休息が必要だよ」
 強調された語尾に、サーラはおとなしくうなずいた。ルイーダも満足そうに微笑むと、アルトたちを外まで出送ってくれた。
「モエギと、あのジャックっていうぼうやはウチで預かるから。あんたたちのことも伝えておくし、安心しな」
「ルイーダさん、本当に……ありがとうございます」
 アルトとサーラが頭を下げると、ルイーダは感慨深げにつぶやいた。
「つい一年前、酒場の外で剣を交えていたあんたたちが、そういう仲になったのを知って、正直びっくりしたよ。
 けど、アタシは嬉しいよ。じゃあね」
 扉が閉まると、酒場の明かりが一気に灯り、一層賑わいが増した。明かりに照らされたサーラの顔を見つめていると、ふいに口が開かれた。
「……不思議なものだな」
「……どうしたんだ?」
 問いかけると、サーラは酒場前の広場を見渡し、黄昏に目を細めた。
「お前と初めて出会った時、どうしてあんなに苛立っていたのか……今では、これっぽっちも思い出せない」
「俺を助けてくれた時も、苛立っていた?」
 すると、サーラは瞬時にこちらを見、言葉を詰まらせた。
 アルトは以前、スライムの群れに苦戦していた際、サーラに命を救ってもらったことがあった。だが、旅立ちの前に再会した時は、サーラはそのことを全く覚えていなかった。それは、今もそうなのだろう。
「……その時のことは、まだ思い出せない。けれど、少なくともアリアハンで冒険者として暮らしていた頃より、ずっと笑えるようになったよ」
 サーラはおもむろにアルトの手を取り、にっこりと笑った。なめらかな布のような肌に触れ、また心臓が落ち着きを失いそうになる。
「ご家族が待っている。行こう、アルト」
 無言でうなずき、アルトはぎこちない足取りで、家路に着いた。



 アルトの実家は、アリアハンを旅立つ際に一度だけあいさつに訪れていたが、今回は事情が異なる。
 二人の仲は、ほんの少し話すだけだ。肉親も故郷も失ったサーラではあるが、突然アルトの家族に甘える訳にはいかない。あくまでサーラとアルトは、第一に言えば仲間なのだから。
 帰郷については、ルイーダと母親には伝書で知らせてある、とアルトから聞いていたので、それ自体は驚かれることはないだろう。
 生家の前で足を止め、アルトは一呼吸してから扉を開けた。
 その先には、アルトより頭一つ分背の低い、禿頭の老人が渋い顔で待ち構えていた。いきなり玄関先に立っているとは思っていなかったので、アルトとサーラはわずかに仰け反った。
「……た、ただいま、爺ちゃん」
 アルトがおそるおそる声をかけると、老人――アルトの祖父・エルガンはみるみるうちに、顔中に笑いじわを広げた。
「アルト、よく帰ってきたのう! ほれ、疲れておるじゃろう、早う中に入れ!」
 孫を半ば強引に引き込むと、エルガンはサーラに目を留め、大きく見開いた。
「おお! これはこれは、あんたもよく来なさった! ささ、上がってくだされ!」
「ご無沙汰しております、エルガン殿」
 深々と頭を下げたが、エルガンはまどろっこしいとでも言わんばかりの勢いでサーラも招き入れてくれた。
 アルトの生家を訪れたのは二度目だが、初めて訪問した時と変わらず広々としており、よく手入れが行き届いている。
 生花や額縁に入れられた絵画が随所に飾られ、中には若かりし頃のオルテガ、もしくはエルガンと思われる青年の肖像画も壁にかけてあった。
 小ぎれいで、気持ちの良い家だ――見渡していると、居間の方から黒髪を一つに結った、清潔感の漂う中年の女性が早足でやって来た。
「アルト、おかえりなさい! 無事帰って来たのね」
「ただいま、母さん。遅くなってごめん。待っただろ?」
 アルトの母――イリアナは前掛けで手を拭ってから、息子をいたわるように抱きしめた。途端、アルトはくすぐったそうに子供のような表情を見せたので、不覚にも可愛い、と思ってしまった。
 イリアナはアルトから身体を離すと、サーラにも丁寧に頭を下げた。
「サーラさん、だったわよね。うちの子が、お世話になって……」
「いえ、私の方が、アルト……息子殿には世話になって」
「サーラ、そんなにかしこまるなよ。普段通りでいいよ」
 アルトがおかしそうに笑うので、つられてイリアナやエルガンも笑い出し、サーラは困惑気味に苦笑した。
 ひとしきりアルト一家が笑うと、イリアナはサーラの両手を包み込み、そっと語りかけた。
「アルトの手紙で、話は聞いています。アリアハンにいる間は、うちで良ければゆっくりしていって。アルトのお仲間の方たちの中でも、特に貴女は大切な方だもの」
 イリアナの隣で、エルガンも深くうなずいた。アルトも控えめに微笑んでいる。手紙で、イリアナたちにもテドンのことを伝えていたのだ。
「しかし、私がそこまで甘える訳には」
「いいえ、私たちよりも、アルトがそうしてくれって頼んできたの。だから、ね?」
 イリアナの柔らかな笑顔は、アルトが目を細めた時と同じような安堵感を持っていた。性懲りもなく涙腺が緩むが、サーラはそれをこらえ、あえて力強くイリアナの手を握り返した。
「ありがとうございます。お世話になります」



 その夜はアルト一家と団らんし、サーラはイリアナの手の込んだごちそうに舌鼓を打った。アルトは主に道中での楽しかった体験や、様々な出会いと別れについて語った。エルガンはイシスの女王に思いを馳せ、イリアナは美食の国でもあるポルトガの料理を食べてみたいと声を弾ませた。
 家族と話すアルトは、旅の間背負っていた『オルテガの息子』というしがらみを一切感じさせず、よく笑い、喋り、何杯もイリアナの手料理をおかわりしていた。こうして見ていると、どこにでもいそうな、ごく普通の少年のように思える。
 だが、サーラと二人きりでいる時のアルトは、時々何かをひた隠しにしているような、ぶっきらぼうな態度を見せる。かと思えば、他人に対しては出来過ぎといえる程、礼儀を重んじた振る舞いをする。
 この違いは、一体何なのだろう。
 夕食を終えると、アルトはエルガンに連れられて夜の散歩に出かけていった。サーラは自ら申し出て、イリアナと共に食器等の後片付けに取りかかった。
「一緒に旅をしてきて、どうですか? うちの子は」
 いくら成人したとは言えど、やはり大切な一人息子のためか、イリアナの口調はアルトを子供扱いしている。サーラは手を動かしながら答えた。
「とても真っ直ぐで、ひたむきな……優しすぎる子です。各国の王に謁見する際も、とても成人したばかりとは思えない立ち振る舞いで」
「そう、それは良かった。あの子は昔から、同年代の子より大人たちと話す方が得意だったから」
 そこでイリアナは言い淀み、身体ごとサーラの方を向いた。
「サーラさん。あの子が、自分の話をしたことは、あった?」
 サーラも思わず手を止め、イリアナを見た。彼女の声音が、若干低くなったからだ。
「少しは、ありますが……さほど詳しくは」
 イリアナはサーラの戸惑いに気付いたのか、取り繕うようにして明るく笑った。
「そう、ごめんなさいね。変なこと聞いてしまったようで」
「いえ。――」
 じゃぶじゃぶと、水の音がサーラとイリアナを隔てる。思い返すと、アルトが自分の身の上話をしたことは、しいて言うならカザーブの宿で聞いたオルテガの件くらいだった。今のイリアナの言動からして、アルトが何事もなく、普通の人生を送ってきたかと言えば、おそらく否だろう。それがなくとも、アルトの父が英雄オルテガだということを考慮すれば、自然なことである。
 ならば、アルトは旅立つ前、一体どのような人生を歩んできたのだろう。
 ぼんやりと想いに耽っていると、背中を冷えた夜風が煽り、アルトとエルガンが身を震わせながら帰ってきた。
「おお、いくら常春と言えども、やはり夜はちと寒いのう」
「爺ちゃん、アリアハンでそんなこと言ってたら俺たちはとっくに凍え死んでたよ」
 イリアナは一旦後片付けを中断し、アルトたちにあらかじめ沸かしていた茶を用意した。
「お義父さま、まだ暦では冬ですからね。さあ、これで身体を暖めてくださいな。ほら、アルトも」
 ありがとう、と白い息を弾ませながら、アルトは湯気の立つ茶を美味しそうにすすった。
 やはり、こうして見るとただの少年なのに。台所からじっと見つめていると、アルトは視線に気付いたようで、
「サーラも、一緒に飲もうよ」
 と、イリアナに目配せしてサーラを手招きした。イリアナもあとは私がやるから、とサーラを食卓に着かせた。
 イリアナが淹れてくれた茶は、曰くアリアハンで咲く花で香りづけをしたものらしく、心安らぐ匂いを漂わせていた。
 束の間和やかな気持ちで茶をいただくと、サーラは外套を着込み始めた。寝入ってしまったエルガンに毛布をかけていたイリアナは、驚いた様子でサーラを引き止めた。
「サーラさん、こんな時間にどこへ行くの?」
「あ、いえ……酒場に戻ろうかと」
 サーラは当初から、宿は元いたルイーダの店で世話してもらおうと思っていたので、逆にびっくりしてしまった。その旨を説明すると、アルトも食卓から立ち上がった。
「サーラ、今日はもう遅いし、うちに泊まれよ」
「そうよ、私のベッドを貸すから……遠慮しないでいいのよ?」
 二人があまりにも似た表情で懇願するので、サーラは根負けし、床を借りることにした。
 エルガンが先程張り切って沸かしてくれた風呂で湯浴みをし、イリアナの丈の短い寝間着を借りて居間に戻ると、アルトが眠たげにこちらを見やった。
「……イリアナ殿は」
「爺ちゃんの部屋についたて置いて、もう寝てると思う」
「……そうか」
 ならば自分もイリアナの部屋でもう休もう、そう思い居間を横切ろうとすると、湯浴みの道具を抱えてアルトが立ち上がった。
「……俺の部屋で、待ってて」
 一瞬、耳を疑った。問い返す間もなくアルトは浴室へと行ってしまい、サーラはしばしその場に立ち尽くしてしまった。



 無視して先に寝る訳にもいかなかったので、サーラは仕方なく、言われた通りに二階のアルトの部屋へ、おそるおそる足を踏み入れた。
 おそらく、サーラが湯浴みをしている間に片付けたのだろう。最低限の調度品が備えられた部屋はこぢんまりとしており、暖炉には火が焚かれている。天井から提げられているランプに明かりを灯すと、ぼんやりとした光が部屋を照らし映した。
 ――アルトのことだから、そう簡単に軽率なことはしないだろう。けれど、時折二人きりの際見せる、不器用な態度と、あまりにも一途な瞳が思い起こされて、どうにも落ち着かないのだ。
 眠かったから寝てしまった、と明日謝ってやり過ごそうか、それとも考え過ぎなのか。部屋の中をうろうろしていると、しばらくして階段の軋む音がゆっくりと近付いてきて、サーラはその場に立ち尽くした。
 ノックの音がした。何も答えられずにいると、扉が重たげに開かれ、簡素な服に着替えたアルトが入ってきた。いつも逆立てている髪は軒並みうなだれるように下を向いており、水滴が後から後へと伝って床に染みを残している。
「お前、ちゃんと髪を拭かないと、風邪を引くだろう!」
 イリアナたちに聞こえない程度の声で怒鳴ると、サーラは大股で歩み寄り、アルトが頭に被っているタオルで髪の毛を拭いてやった。
「せっかく帰ってきたのだから、私より先にさっさと休んでしまえば良かったのに!」
 声も、手つきも荒々しいのはわざとだ。こうでもしないと、何かあってはひとたまりもない。だが、アルトは意外にもおとなしく、されるがままに頭を揺らしていた。
 アルトは、一体どうして自分を部屋に呼んだのだろう。大方髪を拭き終わってしまい、サーラは途方に暮れてアルトに問いかけた。
「……アルト、私に何かあるのか?」
 タオルと、濡れて垂れ下がった髪をそっとかき分け、様子をうかがうと、目が合った。怖いくらいに真っ直ぐで、澄んだ双眸。
 呑まれる、と思った。
 何が起こったのかを理解するのに、数秒時間を要した。気付けばアルトが強くサーラの身体に腕を絡めており、石鹸の香りが立ち昇った。
 諌めるようにしてアルト、と呼んだが、返事はなく、半ばしがみつくようにして己の身をサーラに寄せてきた。女とは違う、筋骨を皮で包んだだけの硬質な身体は、鉄を熱したように火照っていた。
 どうすれば良いのだろう。サーラは当惑しながらも、全身に伝わっていくアルトの体温を心地よくも感じていた。一方アルトも、サーラを抱きすくめたまま微動だにしない。それ以上、何も、しようとしない。
 サーラは瞳を閉じ、暗闇の中で炎に晒されているような感覚を覚えていた。
 かつて自分の中に燻っていた赤黒い炎でも、二つ名でもある紅のような炎でもない。
 それらよりも熱く、静かに燃ゆる、清廉でさえある――蒼い、炎。
「アルト……」
 再び名を呼ぶと、少年はサーラの豊かな髪に顔を伏せ、首元でそっと囁いた。
「……しばらく、こうしていたいんだ」
 瞬間、胸が急速に縮こまるような感覚に陥った。サーラもアルトの頭に頬を寄せ、まだ湿っている髪を撫でつけた。
 まるで母にすがる幼子のようなアルト。けれど、アルトが求めているのは決して、親のぬくもりではない。
 愛しい。とめどなく、想いが溢れ出す。
 サーラはそっとアルトの背中に手を添え、語りかけた。
「私も、こうしていたい……」
 言葉にせずとも、心の中で思わずとも、どこか自分の中で願っていた。
 愛する人に、こうして包まれたかった。そして今、同時にこうも願う。
 愛しい人を、こうして抱きしめていたい――と。