英雄の息子 3



 サーラは一人、居間の食卓に付きぼんやりと暖炉の炎を見つめていた。ただ家を暖めるために燃える、物言わぬ火だ。
 モエギは何かおいしいものでも買ってきてあげるね、と数刻前出ていったきりだ。ワカバやセイジもそれぞれ仕事や用事で留守にしている。
 サーラは倒れるようにして、頬を食卓に寄せた。むき出しの木材は、ほのかなぬくもりを冷えた肌に与えてくれた。
 ――枯れたはずの涙が再び溢れたのは、おそらくやっと心身共に休まる場所へ戻ることが出来た安堵感と、あまりにも多くのものを失った自分に関わらず、何事もなかったかのように巡り続ける世界の残酷さがないまぜになったからだろう。もう、本来帰るべき場所はこの世にない。
 だが、モエギのおかえりという一言、ジャックの必死に見せた笑顔、そして何より、絶望の淵に追いやられたサーラを繋ぎとめた、アルトの存在――彼らと自分が描く『輪』の中に、失くしたはずの帰る場所を見出した。
 もう、テドンのような犠牲を出したくない。誰も、自分のような思いをしなくて済むよう――そのためにも、彼らと共に歩み続け、バラモスを討たねばならない。
 だが、今は何をする気にもなれなかった。全身が鉛になったかのようにだるく、空腹だが食欲はない。
「……私は、こんなに弱かっただろうか」
 それは葉から零れた雨露のような、儚い囁きだった。
 そのまま目を閉じていると、ふいに冷えた外気がサーラの髪を揺らした。顔を上げると、モエギが湯気の立つ紙袋をしっかりと両腕に抱いていた。
「ただいま。外で知り合いのおじさんがお芋を焼いてて、分けてくれたの。一緒に食べよ?」
 モエギは火傷しそうになりながら、古紙に包まれた紅芋を取り出した。上の部分の皮を丁寧に剥ぎ、サーラに差し出す。
「……私は、いい」
「サーラ、とにかく食べて」
 無理矢理押し付けられたので、仕方なく黄金色の部分を一口くわえた。ほくほくとした食感と自然の甘みが口内に広がり、引き寄せられるようにしてまた一口頬張る。次第に食欲が湧き、サーラは黙々と紅芋を腹に収めた。
「おいしいでしょ? 今お茶も淹れるね」
 モエギは紅芋に手を付けず、台所で湯を沸かし始めた。間もなくして、香ばしい匂いが居間に充満した。
 茶が入った頃には、サーラは片手でやっと握れる程の紅芋を丸々一つ平らげていた。テドンでもそうだったが、やはり空腹にはかなわないらしい。自嘲気味に微笑むと、モエギも腰かけ紅芋の皮を剥き始めた。
 ――昨日、モエギにはほとんどのことを話した。涙声で聞き取りづらかっただろうに、親友は終始瞳を潤ませたまま、辛抱強く話を聞いてくれた。
 アルトとの間にあったことは遠回し気味に打ち明け、恋仲になったと告白した。モエギはサーラたちを快く祝福してくれた。
「……アルト君とジャック、いつ帰ってくるんだろうね」
 モエギは紅芋に視線を置いたまま、ぽつりとつぶやいた。サーラが小さく首を傾げると、モエギは大げさにため息をついた。
「全く、二人だけで勝手に話進めて行っちゃって。ていうか、ジャックがアルト君のこと強引に引っ張っていったようなものだし!」
 ダーマでのことも、大体のことはモエギから聞いていた。大神官ヨシュアが、アルトに興味を示していることも。
「……それは、別にいいだろう?」
 モエギはサーラに視線を移し、眉を下げて笑みを浮かべた。
「まあ……ね。でも、あたしアルト君にはサーラに付いていて欲しかったの」
 気を利かせているのだろうが、サーラはかぶりを振った。今度はモエギが首を傾げる番だ。
「どうして? サーラ、アルト君に早く帰ってきてって言ったでしょ?」
 サーラは茶を飲み下すと、視線を落とした。
「……私は、バハラタに帰ってくるまで、ずっとアルトに頼っていた。だから、これ以上アルトに依りかかっていると、自分が駄目になりそうな気がする」
 アルトを愛しいと思う気持ちに偽りはない。だが、愛情と依存は違う。いくら頼もしくなったとはいえ、アルトはまだ少年の危うさを持っている。そんなアルトに負担をかけたくないし、アルトありきの自分にはなりたくないのだ。
 モエギはしばらく沈黙していたが、ずいとサーラに詰め寄り訴えかけた。
「あのね、サーラはそんなことでダメになったりしないよ。むしろ、自分一人で抱え込んでいた方がおかしくなっちゃうよ。
 アルト君、本当はもっとサーラに甘えて欲しいと思うの。甘えるのは依存なんかじゃない。今までのことだって、サーラがどんな目に遭ったかを考えたら当たり前のことでしょ?」
 モエギの黒々とした瞳が、真っすぐサーラを捉えている。サーラは視線をはずし、うなだれた。いくら親友とはいえ、そんなこと誰が保証出来るというのだろう。
「……悪いが、今の私は正直、剣を握る気もしない。このままアルトに甘えたら」
「それは一時の感情だよ。あたしたち、サーラが大丈夫って思えるようになるまで待つから……今はゆっくりしていいんだよ、ね?」
 再び顔を上げると、モエギは今にも泣きそうな表情をしていた。サーラも、自然と泣き笑いになってしまった。
「……お前は、本当に優しいな」
 意表を突かれたのか、モエギは瞬きすると慌てて目尻を拭い、ふいとそっぽを向いた。
「や、優しいのはあたしだけじゃないでしょ! アルト君も、ジャックも、うちのお母さんやお父さんも……みんなサーラが心配なの!」
 拭いきれずこぼれ落ちるモエギの涙を見つめ、サーラは凍えていた心が徐々に温まっていくのを感じた。
 ――あまりにも、色々なことがあった。だから、今くらいは皆に甘えてもいいのかもしれない。
 止まない雨はない、とアルトが言っていた。ここでしばらく休養を取れば、また剣を握る気にもなれるだろう。今はそう、信じよう――
 サーラは立ち上がり、モエギの短く切り揃えた頭をそっと撫でた。
「ありがとう、モエギ。本当に、ありがとう……」
 突き放すような口振りも、照れ隠しなのは十分知っている。モエギはサーラを見上げ、ぐしゃぐしゃになった顔いっぱいに笑みを広げた。
 すると、外からノック音が聞こえ、程なくしてアルトとジャックが姿を見せた。
「おーい、帰ったぞー……って、お前ら何泣いてんだよ!」
 血相を変えて上がり込んできた男二人に対し、モエギは大きく胸の前で手を振った。
「やだ、そんなびっくりしないでよ! これは途中から嬉し泣きに変わったの! ねっ、サーラ!」
 二人の視線がサーラに集中する。特にアルトは、一大事でもあったかのように神妙な顔をしている。サーラは二人に向き直ると、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……お前たち、きっと大事な話を聞いてきたのだろう?」
 アルトとジャックは交互にうなずいた。サーラはそれを受け止め、続ける。
「……わがままを言ってすまないが、私はしばらく休みたい。その間に済ませたいことがあれば、私を置いて行っても構わない。ただ、また旅立つ時までに剣を握れるようにするから、その時は私も一緒に連れて行ってくれないか」
 頼む、と深く一礼する。やがて返ってきたのは、アルトの穏やかな声だった。
「サーラ。顔を上げてくれないか」
 言われた通りにすると、アルトは口元に笑みをたたえて言った。
「待つよ。サーラが旅立てるようになるまで。少なくとも、新しい土地には行かない。それに、俺たちアリアハンへ行く用事もちょうど出来たんだ。だから、少し落ち着いたら旅は関係なくアリアハンへ行こう。ルイーダさんにも会いたいだろ?」
 懐かしいアリアハンの面々と町並が、脳裏をよぎる。サーラはこくりとうなずいた。それを見守っていたジャックが、弾みをつけて口を開いた。
「じゃあ、オレたちが今日聞いてきた話は追い追い話すわ。いっぺんに話してもサーラさん疲れるだろうし、モエギの頭じゃちんぷんかんぷん……」
「うるさいわね! 何よ、賢者になったからっていい気になってんじゃないわよ!」
「まあまあ、うらやましいのはイヤという程分かるからさ!」
「うらやましいんじゃなくて悔しいのよ! それにその嫌味な励まし方! ああもう腹立つ!」
 サーラがふ、と笑みをこぼすと、アルトが笑い、モエギとジャックもそれにつられて破顔した。
 こんな何気ないやりとりが、たまらなく懐かしくて、嬉しい。サーラは改めて、今の仲間たちに会えたことに感謝した。
「そうだ、アルト君とジャックもお芋食べる? まだ結構熱々だよ」
「おう、じゃ食べるかな。ジイさん、食い物出してくれなくってよ」
「じゃあ、俺も」
 食卓に付こうとするアルトの手首を、サーラは無意識の内に掴んでいた。少年は目を丸くして、サーラを見た。サーラは言い淀み、それからおずおずと言葉を押し出した。
「……アルト、その……食べてからでいい、少し話せないか」
 二人きりで、とは仲間の前では言えなかった。だがアルトも、モエギたちもそれは分かったらしい。アルトは無言で小さくうなずき、モエギとジャックも微笑んで、それぞれくつろぎ始めた。
 アルトとは、もう一度きちんと話がしたい。サーラはどこに場所を移そうかと思考を巡らせながら、元の席へと戻った。



 日が傾き始めた頃、サーラはアルトと連れ立って町の教会へと足を運んだ。
 幸い、いたのは神父だけで、彼もサーラたちがやって来ると静かに奥へと消えていった。
 サーラもアルトも、旅装束ではなく平服の上にマントを着込んでいるだけなので、心なしか肌寒い。壁に灯したたいまつで暖まった礼拝堂を歩き、サーラは呼吸を緩めた。
 入口から遠い最前列に座ると、アルトはマントを脱ぎ、緊張した面持ちで尋ねてきた。
「……どうしたんだ? 話したいだなんて」
 確かに、サーラから話を持ちかけることはほとんどないので、不思議がるのもおかしくないだろう。サーラもマントの紐を解き、アルトと向き合った。
「……アルト、お前は私が怖くないか?」
 アルトは目を見開き、眉をひそめた。その質問自体が不足だとでも言いたげに。
「いきなり、何言い出すんだよ」
「だが、私はテドンでお前に剣を向けた。自分の憎しみを、お前にぶつけた。何故、それでも私のことを、受け止めてくれたのだ?」
 今振り返ると、あの時の自分は正気ではなかった。テドンの無残な光景と、義父の遺骸を目にした時、真っ先に沸き出したのは憤怒と憎悪だった。狂戦士のように剣を振るい、醜態をさらした。なのに。
 アルトもその時のことを思い返したのだろう、痛みをこらえるように目を細め、こう話した。
「……俺は、サーラにそういう暗い部分があるのを知っていた。それでも、サーラを受け入れたいと思った。出来れば、心の傷を癒したいと思っていた」
 ステンドグラスから射し込む夕陽に反射し、アルトの瞳がべっこうのように煌めいている。その汚れなき双眸に見つめられるだけで、胸が絞られる。
「俺は、サーラのきれいな部分も沢山知っているよ。それが、本当のサーラだと思うから……だから、何があっても出来る限り受け止めたいんだ」
 サーラはアルトの眼差しに耐えられず、目を伏せた。まるで初恋のような、心もとない感情に支配されていた。
「……お前の気持ちは、すごく……嬉しい。ただ、私はどうやって甘えたらいいのか、分からないのだ」
 まともな恋も、その幸福も知らなかったから、いざとなると戸惑ってしまう。
 そのくせ、ランシールでは感情の高ぶりを抑えられなかった。それに伴い、非業の死を遂げたディートへの罪悪感が残っている。
 何と、不器用で不安定なのだろう。
 黙り込んでいると、ためらいがちに手を握られた。皮の厚い手のひらだが、まだ少年らしく多少なめらかだ。同時に目が合う。
「……自分がして欲しいことを、言っていいよ。俺も、本当はそういうこと、よく……分からないし」
 今度はアルトがうつむいてしまった。その初々しさに、自然と口元がほころんだ。
「……そうか。そういうことは、あいつが知っているのかもな」
 誰のこと、とアルトが問う。ジャックのことだと答えると、少年は苦笑した。
「ジャックと一緒にするなよ。そういえば、あいつ出会った頃、サーラにあんなことしたよな……」
 忌々しげにつぶやくアルトを見て、サーラもすごろく場でのことを思い出した。もう、随分と前のことのように思える。
「あいつは、私のことはもう、一歩距離を置いて見ている。気にするな」
 手を握る力がわずかに強まる。アルトはサーラに顔を向けた。熱を帯びた瞳に、心臓が大きく跳ねた。
「……俺も、そういうことしていいかな」
 それは、質問ではなく宣言に聞こえた。だが、サーラは一応小さくうなずいた。
 アルトはゆっくりと顔を近付け、迷った末、サーラの額にそっと唇を乗せた。それだけで、顔がみるみるうちに火照っていくのが分かった。
 それと同時に安堵感が生まれ、ゆっくりと喉元から胸、そして腹のあたりに下りていくのを感じた。生まれたての生き物を抱いているような、不思議なぬくもり。
 サーラはアルトと見つめ合い、柔らかく微笑んだ。
「……結局、お前が甘えてるんじゃないか」
 すると、アルトも頬を紅潮させ、サーラから離れて顔を背けた。きっと悔しいのだろう。
 サーラは笑みを浮かべたまま、アルトに寄り添い、その肩にもたれた。自然と、そうしたくなったのだ。
「日が暮れるまで、このままでいいか?」
 すぐ近くで、アルトの息遣いが聞こえる。潜んでいるような、細く、深い呼吸。
「……ああ」
 そのぶっきらぼうな返事を耳にして、こういったことはやはり自分の方が多少慣れているのだな、とサーラは心の中でつぶやいた。