過去の影



 もう、あれきりだと思っていた。
 会わなくなれば、いつしか遠ざかって薄れていくと思っていた。
 けれど、霞んで後は消えていくだけという時に、それは再び姿を見せる。
 あたかも、それを待ちわびていたかのように。



 横たわった暗闇の中で、焼かれているような熱を全身に感じながら、様々な人間が出入りしていくのを見た。
 義父がいた。師匠がいた。村の人々がいた。かつての恋人も、いた。そして、亡き父と母の面影もあった。
 けれど、その中の誰一人として、立ち止まる者はいなかった。
 今度はルイーダが姿を見せた。酒場の面々、アリアハンの町民、モエギ、ジャック、そして――
 彼が振り向こうとしたその途端、水の底からふっと浮かび上がるように、サーラは目を覚ました。
 かけられた毛布をめくると、服は簡素だが乾いたものに着替えさせられており、目の前では暖炉が赤く光を放っていた。あれから何日経ったのかは分からなかったが、おそらくアルトが船の寝室まで連れ帰ってくれたのだろう。
 身体はまだだるかったが、熱は下がっている。ベッドの傍らに視線を動かすと、サーラは目を見開いた。
「アルト!」
 ベッドに突っ伏し、アルトは浅くせわしない呼吸を繰り返していた。額に手を当てると、それこそ燃えるような熱を放っている。
 それもそのはず、サーラが泣き疲れて意識を失うまで、アルトはずっとサーラを抱きしめていたのだ。
 冬の始まりの、刺すように冷たく尖った雨の中で。
「アルト、すまない……!」
 いても立ってもいられなくなり、サーラはアルトを空いているベッドに寝かしつけようとしたが、身体がまるで自分のものでないように、力が上手く入らず、サーラは愕然とした。
 あれから、アルトはずっと自分を看てくれていたのだ。その疲れもたたって、限界がきてしまったのだろう――サーラは唇をきつく噛んだ。
「ありゃあ! 目が覚めたのかい!」
 ふいに扉が開き、ポルトガを出航してから世話になっている舵手のダンが顔を見せた。熊のようにひげをたくわえた、気のいい中年男性は目にも止まらぬ早さで駆け寄り、ベッドにひざまずいた。
「あんたらが、テドンの村の方に行ってから全然戻ってくる気配がなくってよ、おれらが捜しに行ったら、アルトの旦那があんたを抱えたまま道の途中で倒れていたんだ。もう、焦りに焦って、すぐにあんたらを船まで連れて帰って、もう三日ぐらいは経ったんだけどよ……目が覚めたのなら、良かったよお」
 ダンはつぶらな瞳を潤ませ、服の袖で乱暴に目元をぬぐった。サーラがアルトに目をやると、ダンはすぐにアルトを抱え、隣のベッドに寝かしつけた。船乗りらしく、体格の良いダンにとっては、アルトも息子を抱き上げるのと大差ないようだ。
「アルトの旦那は、あんたより早くに目が覚めたんだが、高熱を出して寝込んでいたのさ。今は大分熱は下がってるが、余程あんたのことが心配だったんだろうな。起き上がれるようになると、あんたのそばでずっと見守っていたよ」
 貴女が好きだから――ふいにアルトの言葉が蘇り、胸のあたりに染み入るような熱が広がった。
 おそらく、少し前から気付いていた。アルトがもう、無垢なだけの少年ではないことに。
 今はそれどころではない。けれど――サーラは起き上がり、アルトに触れようとしたが、全身がひどく倦怠感に覆われており、見かねたダンに半ば無理矢理寝かしつけられた。
「旦那に、おおよその話は聞いた。あんたは、何も心配しないで寝ててくれ。世話は全部、おれたちに任せてくんな」
 涙をこらえるように口元を結ぶダンに、サーラは口の動きだけですまない、と告げると、再び眠りに落ちていった。



 それから、サーラが問題なく身動き出来るようになるまで、まるまる一週間を寝起きと食事だけで過ごした。
 ダンをはじめ、乗組員たちの手厚い看護の甲斐あり、またサーラより早く元気になったアルトの献身的な世話もあって、テドンの波止場には十日程留まっていた。
 サーラは、身体の自由がきくようになると、テドンの人々を土に還したいと皆に告げた。廃墟と化したテドンと、悲哀に満ちたサーラの有様を目の当たりにしたアルトは、乗組員たちと協力して俺がやる、と反対したが、サーラは自らの手で、村人たちを埋葬したかった。アルトは根負けし、ダンと数人の乗組員を伴い、サーラを先頭に再びテドンの村跡まで足を運ぶこととなった。  森には霜が降りており、一歩進むごとにざくざくとした感触が足の裏にまとわりつく。ぴんと張った空気が肌の先を震わせ、吐息は白く現れた。テドンの冬がどのようなものかは、嫌という程知っている。
 改めて村の跡地にやって来ると、こうして太陽の下で目の当たりにするのは耐え難かったが、どうしてもやらねばならないことがあった。それは残された自分にしか、出来ないことだ。
 記憶を頼りに農家を訪れ、納屋からすすけた農具を拝借する。スコップはまだ、かろうじて使えそうだった。
 まずは教会に向かった。義父のものと思われる亡骸はまだ、そのまま残っている。サーラは尚も突き上げる感情を押し殺し、家の前で人一人が入れる程の穴を掘り、白骨を丁寧に掘り返すと、そばに落ちていた神官帽と共に埋めた。だが、やはり肉親とも呼べる人間のなれの果ての姿に耐え切れず、胃の底からこみ上げるものを抑えられなかった。
 それでも懸命に気を保ち、崩れかけた二階に上がると、綿の飛び出たぬいぐるみや、無数の傷跡がついた思い出の品を拾い上げた。全て、この手で傷付けた大切なもの――サーラの胸に強い後悔の念が湧き上がった。
 ごめんね――サーラはそれらを胸に抱き、その時だけ、昔の自分の言葉で心から詫びた。
 思い出の品々を全て穴に収め、土を盛ると、廃材から十字架をこしらえ、その上に立てた。最後に荷物から持ってきた聖水をふりかけると、義父や両親を偲び祈りを捧げた。
 同じように、皆で他の家を回り、亡骸や遺品を出来るだけ葬っては墓を立てた。その家の故人や馴染み深い思い出をたどり、ただひたすらに冥福を祈った。
 今の自分たちに出来ることは、無残な死を遂げた村の人々を、きちんと土へ還してやることくらいだ。自分を、誰を責めても、浮かばれる人間などいない。
 せめて、あの世では安らかに――病死や事故死した者の葬儀の締めくくりとして、義父はいつもそう唱えていた。その時の義父の思いが、今では何となく分かるような気がした。
 半分ほど終えた頃には、陽が南から西へ傾き始めていた。胃の中はからっぽで、食欲はなかったが空腹だった。何か口にしなければ、などと考えていると、ふいに人の気配がして村の入口を振り返った。
「おーい、昼食の差し入れだよ」
 視界の向こうで、残っていた乗組員が保存食と水筒を手にして諸手を振っている。サーラはスコップを置くと歩み寄った。その矢先、サーラの腹が奇妙な音を立てて鳴ったため、アルトが軽く吹き出した。
「どんなにつらいことがあっても、腹は減るものだな」サーラは苦笑いを見せた。
 村の入口あたりで食事を摂ると、総出で残りの家の墓を立てていった。さすがに十人近い人数だと作業も早く、陽が暮れかける頃には全ての埋葬を終えることが出来た。
 最後に、サーラは村の奥にある牢屋へ向かった。ここにも白骨があったのだ。
 堅固な柵はひしゃげており、立ち入るのは難しくない。辺りを見回していると、床が不自然にずれているのを見つけた。
「アルト! 地下があるようだ」
 穴を掘っていたアルトがやって来る。おそるおそる階段を下りてみると、そこは小さな倉庫のようだった。
 アルトが廃材とメラでたいまつを作り、渡してくれた。雨で湿っていたのか、壁からは濃厚な土の匂いがし、サーラは鼻を覆いながら中を調べた。
「サーラ、何かあったか?」上からアルトの声がする。
「いや、特に変わったものは――」
 実際がらくたばかりだったのだが、ふいに足が固いものに当たった。たいまつをかざしてみると、頑丈な革袋が足元にあった。
 拾い上げ、固く結ばれたひもを解き覗き込むと、サーラは言葉を失った。
 それは、首と両翼で珠を掲げるように守っている、古びた竜のオブジェだった。
「まさか……」
 サーラは急いで地下から出ると、それをアルトに見せた。オブジェは相当年月を重ねたものらしく、光沢は失っていたが、斜陽の中でも確かに、深いエメラルドの色をしていた。
「これは、まさかジェフさんの言っていた……」
 アルトの言葉に、サーラはためらいがちにうなずいた。
「ああ……。おそらく、これがオーブというものだろう。だが、何故テドンに……」
 アルトはオーブをじっと見つめ、声音を落とした。
「もしかすると、バラモスはこれを狙って、テドンを襲ったのかもしれないな……」
 だが、このようなものがあるという話は聞いたことがなかった。存在自体を隠す必要がある程、これは大きな意味を持つ宝なのかもしれない。
「とにかく、これは俺たちが持っていよう。ほら、サーラ」
 アルトはオーブをサーラの手に乗せ、それごと挟むようにして自分の両手で包んだ。
 こんなに、アルトの手は大きかっただろうか――顔を上げると、凛とした瞳が自分を映しており、サーラはふいに胸が高鳴るのを感じた。
 アルトは動揺することなく、そのまま目を離さずに口を開いた。
「サーラ。俺たちが出来ることは、バラモスを倒して、もう二度とこんなことが起きないようにすることだ。
 ここに来て、今までおぼろげだった自分の意志がはっきりした。俺は必ず、バラモスを倒してみせる」
 その瞳は、これまで見てきたどんなアルトの瞳より、確固たる決意に満ちていた。
「アリアハンにいた頃の俺は、まだ未熟で何も知らなかった。だから、サーラについて来て欲しいって言った時も、それがどういうことなのか分かっていなかったのかもしれない」
 サーラは黙って、次の言葉を待った。けれど、とアルトは続けた。
「今は違う。これからもっと危険な旅になるかもしれないし、もうサーラやジャックたちにつらい思いをさせたくない。だけど、それでも俺には、サーラやジャック、モエギの力が必要なんだ。
 だから……改めて言う。バラモスを倒すまで、俺について来て欲しい」
 サーラはすぐに返事をしなかった。あの、アリアハンでちやほやされていたひよっこの少年は、もうどこにもいない。
 目の前にいるのは、どんな苦境を乗り越えてでも、平和をもたらす覚悟を決めた一人の男だ。
 サーラは余っていた手をアルトの手に重ね、深くうなずいた。
「今更何を言う。運命、なんだろう? 私たちが出会ったのは」
 すると、アルトは目を細め、顔いっぱいに笑顔を浮かべた。だがふいに視線を落とし、手に力を込めた。緊張が伝わり、サーラも口元を引き締める。
「サーラ、もし、バラモスを倒すことが出来たら、その時は……」
 そっとアルトを見ると、ひどく真面目な表情をしていた。それを緩和するように、わざとサーラは笑ってみせた。
「アルト。それは全てが終わったら、考えることだ。そう慌てるな」
 オーブを革袋にしまい、背を向けると、遠慮がちに尋ねられた。
「……俺が言ったこと、覚えているか?」
 耳が微かにしびれた。忘れるはずがない。
「……ああ」
 振り返ると、切実な眼差しが胸を焼く。だが、今は――
「……すまない。私は、まだ自分の気持ちが分からない。この数日で色々ありすぎて、整理がつかないのだ」
 それに、まだこうして普通に喋っていたい。
 がっかりしたのか、それともほっとしたのか、アルトは肩の力を抜き、苦笑した。
「……そうか。そうだよな」
 やるせないその横顔が、また少年を大人へと近付けた。



「ギラ!」
 アルトの手から流れるように炎が吹き出し、甲板上でマーマンたちが高熱にのたうち回る。その隙をついてサーラが止めを刺し、死骸を海に葬った。
「しかし、毎度毎度甲板まで攻められるというのも、気分が悪いな」
 母の形見である剣を丁寧にぬぐい、鞘に収めるとサーラはため息をついた。
「でも、これからジャックやモエギも乗ったら、相当文句言うぞ」
「それもそうだな」
 笑い合うと、それぞれの持ち場に戻った。
 テドンを発ち、数日が経過した。バハラタ近郊の港へ船を進め、モエギとジャックを迎えに行くつもりなのだが、その前にジェフの言っていたランシールに寄ると決めていた。
 何せ、テドンのような辺境の村でも、あのオーブという代物が眠っていたのだ。もしかすると母が村に保管していたのだろうかとも考えたが、そうだとしたら義父があの時話していただろう。
 いずれにせよ、オーブは世界のどこにあってもおかしくない。ならば、世界の隅々まで見て回ろう、とアルトと約束したのだ。
 それにしても――サーラはぼんやりと、テドンでの夜を思い返した。
 夢や幻にしても、現実と寸分変わりのない時間だった。義父の手料理はきちんと腹にたまり消化されていたし、交わした言葉は確かに人間のぬくもりに溢れていた。
 村の人々の御霊が現れたものだったのか、それとも――サーラはエメラルドのようにきらめく、あのオーブを革袋の上からそっと触った。
「サーラ、聞きたいことがある」
 唐突にアルトが尋ねてきたので、サーラはまた返事のことだろうか、と訝った。
「……何だ?」
 身構えたのが伝わったのか、アルトは困ったように笑った。
「そんなに怖い顔するなよ。その……サーラと同じように、テドン出身で他の国にいる人がいるんじゃないかと思ったんだ」
 瞬時に、あの男の顔がおぼろげながら浮かんできた。遊び飽きたおもちゃのようにサーラを捨て、別の『新しいおもちゃ』を手に村を出ていった、あの男。
「……さあな。私はよく覚えていない」
 かろうじてそれだけつぶやくと、アルトはそうか、と苦笑した。おそらく、テドンの生き残りがサーラだけではない、となぐさめようとしたのだろう。アルトには悪いが、それはお節介というものだ。
 あの男以外にも村を出た者はいる。だがそれ程親しくない人間ばかりだったので、どうしてもあの男が真っ先に思い浮かぶのだ。
 アルトは、サーラが男に裏切られたことを知っているが、それ以上はサーラの口から話していない。モエギとジャックはある程度把握しているが、具体的なことはやはり語っていない。
 いつか、世界を旅していればあの男に会うこともあるかもしれない。だが、あれから何年も経っているのだ。あの男も変わっているかもしれないし、サーラ自身ももうあの頃のように無力ではない。
 大丈夫――目を閉じ、サーラは潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。



 サーラとアルトがその村に着いた頃、季節は既に冬の真っ只中だった。木々はすっかり葉を落とし、ひょろりとした枝が寒々しく揺れている。
「確か、ジェフさんの話では神殿があるって聞いたな」
 アルトは村人に神殿の場所を尋ねた。すると、村の西にある森を隔てた奥に、大規模な建物があるという。サーラたちは早速そこへ向かった。
「神殿があるというからには、それなりに人も多いと思っていたが……どうやら静かな村のようだな」
 頭上高く鳥の鳴き声が響く他には、乾いた空気が耳を震わせるだけだった。村の方も、季節が季節なだけに人影はほとんど見当たらなかった。
「サーラ……」
 振り返ると、アルトが足を止め、サーラの腰袋を指さしていた。
「どうした、アルト?」
「その中、確かオーブが入っていたよな?」
 そういえば、袋の中から熱を感じる。それだけでなく、袋は内側からほんのわずかだが、発光していた。
 おそるおそる中身を取り出すと、今度ははっきりと、オーブが光を放っているのが見て取れた。
「どういうことだ……?」
 と、その時何者かの気配がし、サーラはオーブをしまうと素早く辺りを見回した。
「誰だ!」
 アルトも剣の柄に手をかける。だが森は静まり返っており、気配も一瞬のうちに消えてしまった。
「アルト、今の気配を感じたか?」
 剣から手を離し、アルトはじっと村の方向を見つめた。
「ああ……。ほんの一瞬だったけど、あれは殺気だった」
 サーラもうなずき、腰袋を押さえた。もしかすると、バラモス側にもオーブのことを知る者がいるのかもしれない。もしそうだとすると、サーラたちがオーブを手にすることで、バラモス側に何らかの不利益が生じるのだろうか。
 かつて、アッサラームで対峙したバラモス配下の騎士・ロイドは言っていた。これからアルトを苦しめる輩が現れるであろう、と。
「とにかく、神殿に行ってみよう。もしかすると、オーブのことも何か分かるかもしれない」
 うなずき合い、サーラとアルトは先を急いだ。
 森を抜けると、辺り一面に白壁の頑強な造りをした建造物が姿を現した。入口の真上には大きな十字架が掲げられており、どことなく村とは異なる空気が漂っていた。
 扉を叩き、声をかけると、程なくして一人の壮年の神官が顔を見せた。
「……どなた様ですかな」
 サーラとアルトは簡単に自己紹介をし、神殿のことを尋ねた。
「この神殿は、この地に古くから存在する『地球のへそ』と呼ばれる大洞窟への入口になっております。そこには古から守られている宝がありますが、それを手にすることが出来るのは、地に許されし、真の勇気を持つ者のみとされております」
「地に許されし……って、三つの鍵を持っているかということですか?」
 神官は表情を動かすことなくうなずいた。
「これまで、地に許されし者はこの地を訪れておりません。かの英雄オルテガ様も、ここを訪れましたが……彼は許されし者ではなかった」
「では、三つの鍵を揃えれば、地球のへそとやらに入ることが出来るのだな?」
 サーラが問うと、神官は長い瞬きの後答えた。
「……鍵をお持ちいただければ、へそへの扉が開くでしょう」
「一つお尋ねします。その宝とは、オーブのことですか?」
 単刀直入なアルトの質問を咎めようとしたが、神官は無表情のまま告げた。
「……珠です」
 サーラとアルトは顔を見合わせた。互いに決意は固まったようだ。礼を述べ、サーラたちは神殿を後にした。
「あの神官、強情だな。あれじゃオーブがあるって言ってるようなものじゃないか」
「だが、これで目的がはっきりしたな。残りの鍵と、オーブを集めよう。もしかすると、バラモスを倒すための手助けになるかもしれないからな」
 ああ、とアルトはうなずいた。その横顔はやはり、以前のような無邪気なものではない。幾多の戦いと困難をかいくぐり研ぎ澄まされた、青年へと変わりつつある面だ。
 これから、さらに様々な世界を知り、様々な人に出会い、アルトはどのように変わっていくのだろう。その瞳にずっと、サーラは映っていられるのだろうか。
 何を考えているのだろう――サーラはかぶりを振り、足を速めた。
 村に戻ってくると、日が短いためか薄暗くなっており、サーラたちは宿に向かった。
 宿の手前まで差しかかると、黒ずくめの若い男が入口から出てくるのが見えた。その面影を目にし、サーラの足が止まった。
 尖った黒髪。鋭い顎。そして、刃物のように冷たい瞳が、サーラを捉えた。
「……サーラ?」
 アルトの問いかけにも答えられず立ち尽くしていると、黒ずくめの青年はゆっくりと、影を含んだ笑みを放った。
「……よお」
 あの頃と変わりのない表情、そして声に、サーラは全身が強張っていくのを感じた。
 かつての恋人――ディートだった。



「久し振りじゃねえか。今まで何してた?」
 サーラはアルトを先に宿屋に入れ、一人でディートと対面した。ディートの格好はどこもかしこも黒一色で、用心しないと暗がりと同化してしまいそうだった。
 サーラは呼吸を落ち着け、出来るだけ低く話した。
「……そういうお前こそ、何故ここにいる」
「へぇ、随分とコワい喋り方になったな。お前、だなんて呼べる立場かよ」
 ディートは大して面白くなさそうに肩をすくめ、宿の方を見やった。
「しかし、あのガキお前の恋人か? 色々教えてやってんのか?」
 虫唾が走る思いだが、サーラは淡々と答えた。
「アルトはそんな関係じゃない。それより質問に答えろ」
「ああ。偶然じゃねえの? お前こそ、そんないかつい鎧着て。まぁ、悪くねえけどな」
 ニタニタするディートを無視し、サーラは告げた。
「この宿に泊まっているのなら、私たちは別の場所で寝る。邪魔したな」
 アルトを呼びに宿に入ろうとすると、ディートが手首を掴んできた。引き留めるだけにしては、あまりにも力が強い。
「冷たいねぇ。昔の恋人同士だろ?」
 剣を抜こうとして、サーラはさっと青ざめた。
 掴まれたのは、右手だ。
 そのまま腕ごと壁に押し付けられ、ディートは狡猾な笑みを覗かせた。
「お前、あの頃よりずっといい女になったのな。あのガキのせいか?」
「お前こそ、リリーナはどうした。村を出た時一緒だったはずだ」
 リリーナというのは、ディートがサーラを捨て、新たに自分のものにした村の娘だった。サーラとはそりの合わない女だったが、村では艶っぽい娘だと男たちの評判だった。
 ああ、とディートはあたかも今思い出したように、わざとらしくうなずいた。
「アッサラームに置いてきた。金に困ってよ、どっかの店に売ったのさ。はした金にしかならなかったけどな!」
 裏返ったような笑い声を上げ、ディートはずいと顔を近付けてきた。途端、昔の出来事が脳裏に蘇り、頭痛を覚え始めた。
 思い出した。何故、ディートのことを考えると頭が痛くなるのか。
「昔もよ、こんなシチュエーションあったよな? 嫌がるお前を壁に叩きつけてよぉ。あの時みたいに泣いてみろよ」
 サーラはディートを睨みつけ、唇を噛んだ。
「私は……あの頃とは違う!」
「へぇ。それはオレもだ」
 すると、ディートがふいに口付けてきた。生暖かい感触に包まれると、ふいに唇に痛みが走り、鉄の味が広がった。
 ディートは顔を離すと、サーラの血がついた唇を舌でなめた。
「……変わったろ? 昔はこんなことしなかったもんなぁ」
 目の前に広がった笑みは、まるで人間でないかのように醜く歪んでいた。
 この男は、おかしい――サーラが恐怖を感じ始めた時だった。
「サーラ!」
 突如、宿からアルトが飛び出してきた。サーラとディートの様子を目の当たりにすると、信じられないものでも見たかのように顔面を凍らせた。
「アルト……」
 かすれた声で呼びかけると、アルトは目にも止まらぬ速さでディートに殴りかかった。が、ディートはそれをいとも容易くかわし、アルトの左頬に拳を食らわせた。
「やめろ、アルトに手を出すな!」
 掴まれていた手が離れた隙をつき、サーラはアルトの前に立ちはだかった。ディートはその時初めて、驚きを見せた。
「へぇ……お前、本当に変わったかもな。そのガキに相当惚れ込んでるとみた」
 サーラは自分がわずかに震えているのを感じたが、毅然とした態度で言い放った。
「ああ、お前とは比べ物にならない男だ! お前のような、傲慢ちきな暴君とは訳が違う!」
「サーラ……」
 背後でアルトがうめく。ディートはサーラの髪をつかみ上げ、凍てつくような瞳で語りかけた。
「相変わらず生意気な口利きやがって。けどよ、お前みたいなキズモノもう用済みなんだよ」
 キズモノ――そうさせたのは貴様だろう、そう言い返したかったが、サーラは自分の想像以上に深く傷付いていた。
 捨てるようにサーラを地面に打ち付けると、ディートはしゃがみ込みアルトに顔を寄せた。
「オレにそっちのシュミはねえんだけどよ、本当は用があるのはお前なんだよなあ。オルテガのせがれよぉ」
 その瞬間、昼間に森で感じたのと同じ殺気を覚え、サーラの全身が凍りついた。
「アルトっ!」
 ディートはアルトの心臓あたりを掴むように手を伸ばし、甲高い声で叫んだ。
「くたばれっ! 死を司りし、冥王の誘い! ザキ!」
 すると、ディートの手から暗黒の光が立ち昇り、アルトの絶叫が耳をつんざいた。
 ザキは死の魔法だ。そのくらい、魔力を持たないサーラでも知っている。
 このままでは、また大切な者を失ってしまう――テドンで味わった、闇の底へ突き落されるような絶望感がサーラを襲った。
 サーラは無我夢中でディートにしがみ付き、アルトがら引きはがし横倒れになった。
「くそっ、邪魔すんなっ!」
 サーラはすかさずディートの後頭部を剣の柄で殴りつけた。気絶したのを確認すると、倒れ込んだアルトを抱き起こし、激しく揺さぶった。
「アルトっ! 死ぬな、死なないでくれっ! 頼むから……!」
 そのまま身体を押し付けると、程なくしてわずかな呼吸が耳をかすめた。まだ体温がある。
「サーラ……俺は……大丈夫だ」
 両肩を掴み顔色をうかがうと、アルトは荒い息をつきながら、弱々しくサーラに笑いかけた。
「あれだよ……イザベル王女にもらった、命の石が……」
 よく見ると、アルトが胸元につけていたブローチが砕け、地面に散らばっていた。どっと力が抜け、サーラはアルトを抱きしめた。頬が熱く濡れていくのが、自分でも分かった。
 今、この少年を失いかけて、サーラはようやく自分の気持ちを悟った。
 ただの仲間ではない。ましてや弟でもなく、アルトは――
「サーラ、離れろ!」
 一旦途切れた殺気が再び膨れ上がり、アルトは立ち上がるとディートの方へ剣を向けた。ディートはむくりと起き上がり、後頭部を乱暴にさすった。
「あー痛え。けっ、お前らやっぱりデキてたんじゃねえか。くっだらねえ!」
 哄笑を上げるディート。もはやこの男は、昔の恋人でも何でもない。心を失った狂人だ。
「お前、いつから私たちをつけていた!」
 ディートは笑うのを止め、えぐるようにこちらを凝視してきた。
「お前らがここに着いた時からさァ。オレはなあ、ずっとオルテガのせがれを待ってたンだよ」
 アルトがサーラをかばうようにして前へ進み出る。それと同時に、ディートは徐々に人間ではないものへ姿を変え始めた。
 そう、それはまるで、アッサラームで剣を振るった死者のような――
「ディート……まさか、お前バラモスの手に……」
 サーラが驚愕を口にすると、ディートは焼けただれたような顔面で不気味に微笑んだ。
「バラモスっつうより、ロイドの野郎の部下になったのさァ。魔物のしもべってのもいいモンだなァ。何したって、罪を問われねえンだからよォ!」
 奇怪な高笑いは、不快を通り越しておぞましく感じられた。いくらひどい仕打ちを受けたとはいえ、仮にもよく見知った人間が、魔王の配下に魂を売るだなんて――サーラは頭を抱えた。
「ロイド……あいつか」
 アルトにとって、アッサラームで合間見えたロイドは討つべき敵の一人だった。歯をぎりと食いしばるのが伝わる。サーラは頭痛をこらえ、アルトに声をかけた。
「アルト……ディートは私が」
「いや、サーラは下がっていろ」
 間髪入れずアルトが答えたので、サーラはむきになってアルトに食い下がった。
「何故だ! あいつのことは私が責任を取るべきだ! なのに、何故――」
「だからこそ、サーラには手を出して欲しくないんだ」
 アルトは振り返り、サーラをなだめるように見つめた。その瞳は波紋一つない水面のように、澄み渡っている。
「……昔の恋人だろ? かつて愛したことのある人を、殺したりしてはいけない」
 そう告げると、アルトは剣を構えた。
「お前の狙いが俺なら、喜んで相手をしてやる。かかって来い!」
 ディートはボロボロの歯をむき出しにして、奇声じみた声を上げた。
「後悔するなよ、ガキ! そいつの目の前で、お前はのたれ死ぬンだ!」
 ディートも腰に下げていた曲刀を抜き、刃を舌でなめた。サーラは対峙する二人の男を、ただ見つめる他術がなかった。
「行くぜっ、ガキ!」
 ディートはひび割れた地面を蹴り、曲刀を振り上げた。アルトも果敢に立ち向かい、刃が暗闇の中で火花を散らした。
 日はとうに暮れ、今は宿屋の明かりだけが頼りだ。おそらく、魔物化したディートの方が夜目が利くだろう。
 それに、アルトは人とは争いたくない、と常々語っている。そんなアルトが、ディートを倒せるのだろうか。
「死ぬな……アルト」
 夜の身を切るような寒さに震えながら、サーラは強く祈った。
 ディートはさすが守人の息子なだけあり、曲刀の動きに勢いがあり、自在に操っている。刀さばきは同じ師を持つサーラのものと似ていたが、やや力まかせな部分がある。
 一方、アルトはそれを受け流すように受動的な動作を繰り返しており、一向に攻めようとしない。
 だが、アルトは相手の一瞬の隙に決定的な攻撃を仕掛ける。出会った時のサーラとの勝負も、思い起こせばそうだった。
 おそらく、アルトには何か考えがあるに違いない。サーラは片時も目を離さずに、二人の戦いを眺めていた。
「どうした!? 人を斬るのがコワいか! 甘ったれてんじゃねえよ!」
 ディートは曲刀を振り回しながら、次々と挑発するような言葉を浴びせる。だがアルトは何も返すことなく、全ての斬り込みを巧みに受け止めていた。
「ちっ、お前といいサーラといい、その澄まし顔が一番嫌いなんだよ!」
 一際強烈な一太刀を紙一重でかわし、アルトは飛び退いた。呼吸がせわしない。一方、ディートの息はほとんど上がっていなかった。
「オレはオルテガの息子を殺せって命令されたんだがよ。それだけじゃあ、つまんねーなァ。なら、お前を殺したらサーラをいただこうじゃねえか」
「な……」
 サーラとアルトの声が同時に上がった。冗談じゃない。
「ふざけるな! 誰が、お前なんかと……散々弄ばれて捨てられた、私の気持ちなど知らないだろう!」
「あァ、知るかよ。ただ、オレは女に飢えてるんだ。なら今のお前でも十分かなってよ。その気になりゃ、いくらでも思い通りに出来るぜ? どんな手を使ってでもなァ」
 ディートの舌なめずりに嫌悪感が押し寄せ、過去の出来事が脳裏をよぎる。自分だけの力では抗えないのか――サーラは己の不甲斐なさに泣きたくなり、顔を伏せた。
「サーラ!」
 アルトに呼びかけられ、サーラは顔を上げた。少年はディートの方を向いたまま、芯のこもった声で言った。
「こんな男に、サーラを渡したりしない! それに、サーラだって、こんな男には負けないはずだ! そうだろ!?」
 アルト――少年への感情が募り、サーラは瞳に力を込めた。
「ああ……私も、お前も、負けたりなどしない」
 ディートは心底つまらなさそうに唾を吐き、負け惜しみを口にした。
「そうやって言う奴ァ、たいてい死んじまうんだよなァ。ホント、バカみてえ!」
 天を仰ぎ嘲笑うディート。その間、アルトは何かをつぶやき、軽く剣を撫でると、鋭い目付きでディートを睨み据えた。
「お前には、容赦しないことにした。……行くぞ」
 アルトは真正面からディートに向かっていった。ディートは嘲笑を止めそれを迎え打ったが、アルトは人が変わったように激しい打ち込みをし、防ぎきれなくなったディートは片腕を失った。
 だが、ディートは笑っていた。
「バカめ! オレがロイドの部下になったってことは、不死の身体になったってことだ! だから、剣は効か――」
 言葉は不自然に途切れた。アルトの剣が、ディートの心臓部を貫き、淡く発光していた。
 アルトが剣を抜くと、ディートは何が起こったのか分からないといった様子で胸元を探っていたが、やがて力尽きたように地面に崩れ落ちた。アルトは静かに剣を収めた。
「……オレが……そんなボロい剣に……やられるかよ……」
 サーラもおそるおそる二人に歩み寄った。アルトは無表情だった。
「……剣にニフラムをかけた。そうすれば、不死の力を持つ相手でも、効くだろうと思ったんだ」
 ディートのただれた皮膚は、収縮するように元の顔を取り戻していた。ディートはかすれ声でつぶやいた。
「魔法剣……ってヤツかよ。くそっ……」
 吐息が白く吐き出される。ディートは唐突に話し始めた。
「本当はよ……リリーナは悪徳業者にさらわれて、しまいにゃ殺されたんだ……。オレは、そいつらにかなわねえくらい弱かった……。力が欲しい、そう思ったら、あいつ……ロイドが現れて、オレはいつの間にか部下にされていた」
「お前……リリーナは売ったと」
 サーラが尋ねると、ディートは苦々しく笑った。
「ああ……魔物の部下になると頭もイカれちまうみてえだ。リリーナは……本当は、あいつらに売られたんだ」
 ディートは仰向けになると、淀んだ目でサーラを見上げた。先程のような狂気じみた光は、どこにも見当たらなかった。
「リリーナは……オレがお前にしたより……もっとひでえことをされた。くだらねえ……男と女なんて、ホント、くっだらねえ……」
 へっ、と笑ったつもりなのだろうが、口からは吐血が出た。サーラはしゃがみ込み、かつての恋人に言い放った。
「何故……どうして、魔物なんかの力を借りたんだ! テドンは、バラモスの手で滅ぼされたんだぞ!」
 ディートはわずかに目を見開いた。真実を確かめるように、アルトへと視線を動かす。アルトは無言で首を振った。
「……オヤジも、死んだのか……くだらねえ」
 ディートの目は焦点が定まらなくなってきた。サーラはためらった末、その手を取った。水気のない、ざらざらとした手のひらだった。
「どうして、変わってしまったんだ……私は、昔のディートが、好きだったのに……」
 サーラの頭の中に、子供の頃のディートが蘇った。いつも村の子供たちの先頭に立ってはしゃいでいた、屈託のない笑顔。引っ込み思案で輪に入れなかったサーラに、まつぼっくりや木の実を沢山渡して、一緒に遊ぼうと笑いかけてくれたディート――
 もうあの頃から、何もかもがかけ離れてしまった。
 サーラの瞳から溢れたものがディートの頬に落ち、撫でるように伝った。ディートはくすぐったそうに目元をけいれんさせ、弱々しく笑った。
「リリーナを、奪われて……ああ、オレもひでえことした、って……思ったんだ……。今更、遅すぎる、けどよ……」
 ごめんな――そう口が動いたきり、ディートは動かなくなった。その傍らで嗚咽を漏らすサーラを、アルトはただ黙って見つめていた。



 魔物化したディートの身体は、泥と灰に変わってしまった。サーラは宿の女将に事情を話し、アルトと共にそれを村の森に埋めた。全身を虚脱感が包んでいた。
 夕食は軽いものだけを摂り、湯浴みを終えると、サーラはベッドの上で一人ぼうっとしていた。立て続けに故郷の人々を失い、心の在り処が分からなくなっていた。
 ふいに、扉をノックする音が聞こえた。返事も出来ずにいると、入るぞ、とアルトの声がした。
「これ、女将さんが俺たちにって。ホットチョコレート」
 アルトが差し出したマグカップを黙って受け取ると、一口含んだ。とろりとした舌触りと、普段あまり口にしないカカオの香りが、いくらか心を引き戻してくれた。
 アルトは向かいのベッドに腰を下ろし、お互いしばらく口を利かずにマグカップの中身を飲んだ。
 ――ディートを、ずっと憎んでいた。男性不信になったのも、無愛想な女になったのも、全てあの男のせいだと思ってきた。
 最期に謝られたことで、今までの何もかもが報われる訳ではない。受けた傷は、薄くなろうが浅くなろうが、痕を残していることには変わりがない。
 けれど、胸の内にくゆらせていた暗い炎は、消えかけようとしていた。
「……あの男のこと、裏切られても好きだったんだな」
 アルトの声には抑揚がなかった。サーラは首を横に振った。
「……分からない。だが、幼心に惹かれていたのは確かだ」
「初恋、だったんだな」
 無垢な響きが、今は胸を軋ませる。そんな言葉が似合うような恋ではなかった。
「……なら、お前の初恋は」
「今だよ」
 サーラは耳を疑った。アルトの顔をまともに見ることが出来ない。
「……俺のことを好き、って言う女の子はいた。けど、俺はそれがよく分からなかった。多分、オルテガの息子だから憧れていたんだろうな」
 アルトの瞳は普段とは違い、霧が立ち込めるように薄く曇っていた。サーラは黙って続きを待った。
「願望に近かったんだと思う。近付きたい、あわよくば自分のことを好きになって欲しい。一方的なものだよ」
 自分の気持ちすら分からないと言っていた少年は、いつの間にかサーラ顔負けの理論を口にするようになった。だが、以前のようにそれを生意気だとか、悔しいとは思わなくなっていた。
「今はそういう気持ちも理解出来る。けれど、俺の気持ちはもっと……違う」
 アルトが突然言葉を切ったので、サーラはどきりとした。ディートの狂気も怖かったが、アルトの恐れを知らない、あまりにも真っ直ぐな想いも、ある意味同等だと思う。
 だが、答えはもう出ているのだ。自分の中に。
「……違う、とは?」
 問いかけたが、アルトは答えずにじっとうつむいている。マグカップが小さく震えていた。
「アルト……?」
 サーラはベッドから降りると、アルトのすぐ隣に寄り添った。顔を覗き込んでも、こちらを見ようとしない。そこでサーラは気付いた。
 アルトは、サーラの昔の恋人を殺したも同然なのだ。そんな自分が、サーラに想いを寄せることを罪のように思っているのだろう。
 だが、それを責める気は毛頭ない。サーラはそっとアルトに語りかけた。
「アルト。ディートのことはいいのだ。悪いのはお前でもディートでもない」
 すると、アルトは弾かれたようにサーラを見た。今にも泣き出しそうに顔を歪めている。
「怒りの矛先はロイドに向けるべきだ。そうだろう?」
 アルトはゆっくり視線を落とすと、弱々しくつぶやいた。
「……もっと……別の方法があったかもしれない。殺さなくてもいい方法があったはずなのに……俺は」
 唇を強く噛み、アルトはうなだれた。
 先程ディートと対峙していた時の姿が嘘のようだ。サーラを守るために、ずっと強がっていたのかもしれない。
 この少年は、優しすぎる。誰一人、傷付かずに済む方法を求めている。そんなことは不可能なことくらい、もう分かっているはずなのに。
 だが、それこそが、アルトという少年なのだ。そして、それが何よりも――
 自然と感情が込み上げ、サーラはアルトをいたわるように抱きしめた。アルトの身体が強張るのが伝わった。
「サーラ、俺は……!」
 振り払おうとするアルトを押さえつけ、サーラは声を振り絞った。
「そんなの関係ないだろう!」
 腕の中で、アルトがびくりと静止した。
「……ああしなければ、お前が死んでいた。私は、それが一番嫌だ……!」
 瞳が熱く濡れた。もう、誰かを失うのは嫌だ――
 サーラは腕を緩め、アルトの頬に手を添えた。ぼやけて表情はうかがえないが、アルトも自分を見つめている。
 サーラはためらうことなく、アルトの唇に自分の唇を重ねた。ひび割れた感触は自分のものだ。全身が、波打つように燃えているのが分かった。
 唇が離れると、サーラは喉を震わせ囁いた。
「今、私の心にいるのは、お前だけだ……アルト」
 瞬きをすると、涙がぼろぼろと頬を伝い、アルトの顔がはっきりと見えた。少年は、今起こったことが信じられないといった様子で、茫然とサーラを見ている。サーラは自分のしたことを急に後悔し、アルトに背を向けた。
「……すまない」
 口の中にカカオの味が広がっている。涙は、後から後へと頬を流れ、ベッドを濡らしていく。
 私は、どうかしているのかもしれない――ぼんやりとそう思うと、反対側を向かされ、両肩に手が置かれた。微かに震えている。
「……俺は、サーラを好きでいいのか?」
 顔が見えず、目をぬぐおうとすると、アルトの温かな手が涙を吸い取った。見えた顔はもう、驚いてはいなかった。
 サーラは少年に向かって、深くうなずいた。
「……ああ」
 湿った指が、そのまま花弁に触れるように、サーラの唇をなぞる。アルトが何かをつぶやくと、指から光がこぼれ、噛み切られた痕が消えた。今度は、どちらからともなく、口付けた。
 この優しすぎる少年を、好きとか、愛しているという言葉では言い表せないだろう。
 ただ言えるのは、いとおしい――それだけだった。



「……風が、冷たいな」
 潮風が豊かな巻き毛に絡み付く。サーラは甲板で髪を押さえつけながら、アルトに語りかけた。
「寒いなら、こっちに上がってこいよ」
 アルトが舵台の上から手招きする。サーラがその隣に並ぶと、舵手のダンはお構いなく、と不器用に片目をつぶり、アルトはにこりと笑みを浮かべた。サーラも微笑んだつもりだったが、うまく笑えなかった。
 ランシールから出航し、目指すはバハラタ南の小さな港町だ。村で近海の情報を得、それを頼りに航海を続けている。今は比較的波の機嫌も良く、落ち着いて船を進めていた。
「ダーマもきっと、寒いだろうな。ジャックやモエギは元気かな」
「だといいがな……何しろ、連絡の一つも取れない」
 サーラが笑みを消すと、アルトが怪訝そうに顔を覗き込んだ。
 ――肉親も、故郷も、そしてかつての恋人すら、失った。それでもまだ立っていられるのは、この少年が精一杯の愛情をサーラに注いでくれるお陰なのだろう。
 もしかすると、自分はそれにすがるあまりに、この感情を恋だとはき違えているのかもしれない。否――サーラはアルトをじっと見つめた。
「……どうしたんだ?」
 アルトが小さく尋ねる。サーラはかぶりを振り、そっと表情を和らげた。
「……いや。ただ、あまりにも色々なことがあったから……」
 そうつぶやいた自分の声はあまりにも儚いものだった。すると、アルトはぽつりとつぶやいた。
「悲しみは、ずっと続くものじゃない。……止まない雨がないように」
 誰かに言われたことがある、と言ったきり、アルトは口を閉じてしまった。その代わり、いたわるように目を細める。それを目の前にすると、ほんのわずかだが、悲しみが薄らいでいくような気がした。
 やはり、この気持ちは束の間のものではない。アルトは、何物にも代えがたい安らぎなのだ。
「早く、会いたいな……モエギとジャックに」
 うなずき合い、サーラとアルトは水平線の彼方に視線を向けた。
 そう、話したいことが、沢山あるのだ。



 そして、四人は再び、集う。