過去の影 悟りの書 6



 モエギたちは数日後の昼神殿に戻り、その足でヨシュアの居所を尋ねた。ソフィアは自室にいる、と神殿の奥へ案内してくれた。
 いくら修行に協力したとはいえ、一介の旅人が大神官のプライベートな部屋に入って良いものだろうか。カンダタは廊下で待っている、と自ら辞退――否、拒否したが、モエギが考えあぐねいていると、ジャックが入れと促してくれた。
 部屋は、深緑に金糸の紋様が刻み込まれたじゅうたんが一面に敷かれ、壁にもダーマの紋章らしきタペストリーが掛けられている。ヨシュアは窓辺に立ち、じっとその先を眺めていた。
「お祖父様、ただいま帰りました」
 クラリスを筆頭に一礼すると、ヨシュアはこちらを振り向いた。
「……無事戻ったか。あの男の姿が見えないようだが」
「カンダタも一緒です。ただ、ここに入るのをためらっていて……」
 ためらうも何も嫌なんだよ、と吐露するカンダタの声が聞こえてきそうだが、ヨシュアはふむと納得したようだった。
「そうか。して、どうであった」
 待ってましたと言わんばかりに、ジャックがヨシュアに詰め寄った。
「ジイさん、悟りの書は見つけたけどよ、白紙を置くってのはどういうつもりだよ。説明してもらおうじゃねえか」
「お祖父様、お言葉ですがわたしからも。何かお考えがあってのことだとは思いますが、命がけの探索の末路があれでは、さすがに酷というものです。何故あのようなものを……」
 ヨシュアは孫たちに詰問されても、顔色一つ変えずにこう言った。
「では、お前たちが目にした悟りの書は、白紙であったと」
 ジャックとクラリスは揃ってうなずいた。すると、ヨシュアはおもむろに皺だらけの手をぱちぱちと叩き始めた。拍手のつもりらしいが、無表情なのが怖い。
「ジイさん、何がめでたいんだよ!」
 ジャックが突っ込むと、ヨシュアは拍手を止め告げた。
「分からぬか。お前たちは、これで一人前の賢者になる資格を得たのだ」
「分かんねーよっ! 大体、『賢者の誓い』とやらはどうすんだよっ!」
 声を荒げ、肩で息をするジャックを横で眺めていると、これでは反発するのも無理ないと思った。ヨシュアの話は飛躍しすぎている。
「お祖父様、もう少し分かりやすいようにおっしゃっていただけませんか?」
 クラリスも困惑している。この祖父を何年も相手にしているとは、クラリスはおろか、亡きソラリスの苦労も分かるような気がした。
「ふむ。あの塔にあった悟りの書は、偽物だ」
「偽物!?」三人は同時に声を上げた。ヨシュアの説明によると、話はこうだ。
 賢者というのは、大神官の親族でなくとも素質があれば就くことが可能で、そういった者には必ず最後の修業として、ガルナの塔へ向かわせている。だがあの部屋に辿り着くことが出来るのはその中のほんの一握りで、それがかなわなかった故にでたらめの誓いを口にする者がおり、その対策としてあえて白紙のものを置いている、とのことだった。
 ヨシュアは部屋の奥にある机の引き出しを開け、二冊の真新しい書物をそれぞれ孫たちに手渡した。
「今まで、よくぞ修行に耐えた。これの一番始めに、誓いは書かれておる。これを『悟りの式』で読み上げよ」
 ジャックとクラリスが書物をめくる。指通りの滑らかな、上質の紙が使われている。モエギも傍らで覗いてみると、最初に賢者の誓いが記されており、他に呪文と魔法陣らしき図式がずらりと並び、また様々な知識の記述も見受けられた。
「あの……巻物じゃないんですか?」
 モエギが尋ねると、ヨシュアは淡々として答えた。
「昔は悟りの書も巻物だったが、それでは使いづらい、とごねた娘がおってな。……儂の娘だったのだが」
「……お袋」
 ジャックがつぶやく。と、扉が開き、ソフィアが姿を見せた。
「ごめんなさいね、仕事の方が立て込んでいて……まあ、お父様もう悟りの書を渡されたのですか?」
「うむ。ソフィア、三日後に式を執り行う。全ての者に手配をするよう伝えよ」
 ソフィアは瞬時に顔を輝かせた。返事と共に、ジャックとクラリスに向き直る。
「クラリス、ジャック、よくここまで頑張ったわね……。『悟りの式』を行うのは、姉さんの時以来なのよ。準備は私たちに任せて、あなたたちはゆっくり休みなさい」
 さらに、ソフィアはモエギにもねぎらいの言葉をかけてくれた。
「モエギさんも、力を貸してくれてありがとう。あれから間もなかったのに……」
「いえ、あたしは……」
 モエギが恐縮していると、クラリスもはつらつとした笑顔を向けた。
「ダーマを訪れた武闘家の中でも、モエギさんほどの人はいないわ。そうよね?」
 話を振られたジャックは、頬をぽりぽりと掻きながら視線をさまよわせた。
「まあ……な。ものすごい勢いでドラゴンの眉間に爪刺しちまう女、そういてたまるかってんだ」
「何よ! 眉間が弱点だって言ったのはあんたでしょ!」
「そうだけどよ、何の躊躇もナシに向かって行ったお前にはおったまげたね」
「塔から飛び降りる時情けない悲鳴上げてた男よりずっとマシよ!」
「うるせー! 人は誰しも欠点があるの! だって人間だもの!」
 モエギとジャックが言い争っていると、ヨシュアが大きく咳払いをした。叱られるかと思ったが、ヨシュアがそういった素振りを見せることはなかった。
「……とにかく、各自式まで療養し、備えること。……ジャック」
「何だよ」
 未だに横柄な口を利くジャックに、クラリスとソフィアは呆れたように顔を見合わせる。ヨシュアは鋭い眼光でジャックを見据えた。
「お前には、もう一つ最後の修業を課す。
 けじめをつけろ。でなければ、賢者になることは許さん」
 ジャックは一瞬茫然とし、「……は?」と食い入るように祖父を見つめた。だがヨシュアはそう言ったきり、孫を追い払うようにして手をひらめかせた。
 途端に憤慨し、猛抗議しようとするジャックをソフィアが諫め、モエギたちをまとめて廊下へ押し出した。カンダタがのんきに迎える。
「おう、出てきたか。何そんな怒ってンだ?」
 モエギは肩をすくめてみせた。ジャックは怒りに全身を震わせながら、ぶつぶつと文句を垂れている。
「言ってることが分かんねえんだよ……あのクソジジイ……」
「何だ、またかよ。てめェぐらいだぜ? 大神官に悪態つけるのは」
「そうよ。あなたはお父様に甘えてるだけ」
 モエギたちは一斉にソフィアを見た。いつも穏やかな彼女は、珍しく厳しい眼差しをしていた。
「ジャック。賢者というのは、人の上に立つ存在よ。いつまでもその調子じゃ」
「分かってんだよんなこと!」
 ジャックは一瞬しまった、と表情を歪めたが、すぐに踵を返し自分の部屋に飛び込んでしまった。
「ジャック!」
 モエギが追おうとすると、カンダタが肩を掴み引き止めた。
「嬢ちゃん、ほっとけ。あいつァ、人にとやかく言われるのが好きじゃねェんだ。オレもそうだけどよ」
「でも……!」
 モエギも、いつものように反発しているだけだと思っていた。だが、今の表情を見て放っておく訳にはいかなかった。
「モエギさん、この人の言う通りよ」
 そう言ったソフィアは、人の良い叔母ではなく神官長の顔をしていた。
「これはジャックの問題よ。あなたが心配する気持ちも分かるけれど……賢者になるためには、それにふさわしい人物でなければいけないの。そっとしておきなさい」
 モエギは拳を握りしめ、うなだれた。
 力になりたい。物理的なものだけでなく、ジャックの精神面でもなりたいと思う。かつてモエギが人としての道徳を踏み外した時、諭してくれたように。
 なのに――モエギは自分の無力さに失望した。
「……モエギさん。放っておいてあげるのも、優しさのうちよ?」
 顔を上げると、そこにはもういつものソフィアがいた。
「……はい」
 小さくうなずくモエギを、クラリスとカンダタが静かに見守っていた。



 ジャックは部屋に入った後、ベッドに突っ伏したまま意識を失っていた。
 ガルナの塔でのことが身に堪えたのだろう、強い睡魔に襲われ、気付いた時にはあまりの寒さに身震いが止まらなかった。
 急いで暖炉に薪をくべ、メラを唱えるとじゅうたんの上に座り込み、炎と向き合った。窓の外は既に真っ暗だ。
 もう夕食の時間だろうか。だが、あの祖父と顔を合わせるのは、今は嫌だった。
 ヨシュアに、甘えている――父方の祖父母はジャックが生まれる前に他界しており、母の親族とは離縁していると、父に教わっていた。老人を相手にするのは苦手ではなかったが、それが血縁、しかも自分と同じ銀髪の人間となれば、自然と特別な存在になるのも無理はないのだろう。
 また、やぶからぼうに分かっている、と言った訳ではない。賢者となるからには、それ相応の人徳があるに越したことはない。祖父もそれを思い、ジャックにより厳しくあたるのだろう。
 だが、いくら血統上ダーマ大神官の孫とはいえ、ジャックはそれとはあまりにも異なる人生を歩んできた。決して裕福ではなかったし、金のために人をおとしめたことも数知れない。
 何より、ずっとこの気ままな性格だ。賢者とは名ばかりで、俗に言う『遊び人』の方がよほどしっくり来る。
『けじめをつけろ』
 ヨシュアの言動は凡人離れしているが、ここまではっきりしない物言いは初めてだった。かといって、具体的に示してもらわなければ何も出来ないような、落ちぶれた人間だと見なされるのは死んでも嫌だ。
「……このへらず口をやめろってか? そいつぁ、無理な相談だぜ」
 真面目という言葉が似合うのは、アルトのような男だけで十分だ。もし自分が似合うとすれば、それはもうジャックではない。
 けじめをつけること、それはすなわち賢者になることだと思っていた。だが、それでは許されないのだ。
「くそっ、どうすりゃいいんだよ……!」
 頭を掻きむしっていると、控え目に扉を叩く音がした。おそらくソフィアか、クラリスだろう。
「……開いてるけど」
 ぶっきらぼうに言葉を投げかけたが、再び音がした。
「手が塞がってるのよ。開けてくれるかしら?」
 叔母の声だった。扉を開けると、ソフィアがトレイを手に入ってきた。
「ありがとう。寒いわね、この部屋。あなた平気なの? それに、明かりもつけないで……」
「いや、さっき火起こしたばっかだから……」
 部屋には応接用のテーブルと椅子があるので、ソフィアはそこにトレイを置くと、部屋の明かりを灯し薪を暖炉に足し始めた。
「おばさん、オレがやるからいい……」
「いいのよ。お腹減ってるでしょう? そこにあるもの食べなさい」
 テーブルにつくと、トレイの上にはビスケットらしきものと、淹れたてなのか湯気を立てる紅茶が乗せられていた。
「おばさん、オレぁ大の男だぜ? もっとこう、精のつくモンを」
「いいから、食べなさい」
 今日のソフィアはいつになく強気だ。何を言っても言いくるめられてしまう。仕方なくビスケットを一口かじると、思ったより歯ごたえがあり、あごに力を入れるとようやくバキン、と折れた。ソフィアにこれを振る舞われたのは初めてだが、何故か、懐かしい味がする。
「堅えなコレ……でも甘いぜ? おばさん、何だコレ」
 ビスケットはバターの風味が強く、その割にはさほどくどい味ではない。何より、舌の上で驚くほどすっと溶けていく。ソフィアも椅子に腰を下ろすと、ちゃっかり二人分用意してあった紅茶をすすった。
「ダーマ一族の女は、みんなこのお菓子の作り方を伝授されるの。姉さんが作ったのを食べたことがない?」
 ふと、ジャックの脳裏にある記憶が蘇った。まだ母ソラリスが生きていた頃、やけに堅い菓子を食べさせられたことがあった。乳歯しかないジャックや妹たちが食べられない、と訴えたら、それを砕いてミルクでふやかしたものを与えられたはずだ。そして、その菓子が父の大好物だったことも、思い出した。
「姉さんのはやけに堅かったわね。お父様も渋い顔して食べていたわ」
 ヨシュアのことが話に出、ジャックは眉を曇らせたが、ソフィアは構わず続けた。
「それ、滋養強壮によく効くのよ。そうだわ、あなたたちが旅立つ時になったら沢山持たせてあげるわね。日持ちもするし」
「そりゃどうも」
 我ながら気のない返事だと思う。何せ、本当に賢者になれるのか分からないのだ。案の定ソフィアはしかめっ面をしたが、なかなかお説教が飛んでこなかった。
「うまいなコレ。カンダタには食わせたくねえな」
 苦し紛れにもう一つ手を伸ばすと、ソフィアがやっと口を開いた。
「……あなたと姉さんは、よく似てるわ。人に指図されるのが大嫌いで、自分の思ったことをどんどん口にしてしまう。けれどそれが決して愚かな考えではないから、責めるに責められない。お父様と口喧嘩ばかりしてるのもそっくりよ」
 ソフィアとは散々ソラリスの話をしたが、そういったことを言われたのは初めてだった。ジャックは片眉だけ上げてみせ、ビスケットを黙々と食べ続けた。
「姉さんは、自分がいなくなることで神殿がどうなるかを考えていなかった。姉さんは確かに天才だったわ。けれど、賢者になれたのは姉さんだけの力じゃない。お父様や、慕ってくれる皆がいたからよ」
「そして結局は、お袋がここを飛び出したことを責めるのか。裏切った、ってよ」
「そうじゃないの。ただ、あなたにも――」
 ジャックは菓子を飲み下すと、叔母を睨み据えた。
「けど、お袋と親父が出会わなけりゃ、今のオレはいねえんだよ。妹たちもそうだ。もうお袋の話は勘弁してくれ」
 視線を落とすと、ソフィアがごめんなさい、と細くつぶやいた。
「そうね。姉さんとあなたはまた、違う人間だものね……」
 ダーマを去り、その後二度と戻ることのなかったソラリスを恋しがる気持ちも分からなくはない。だが、姉の話になると見境がなくなるのは叔母の悪い癖だ。
 しかし、叔母はソラリスの訃報を知ってまだ数ヵ月しか経っていない。自分がむしゃくしゃしていた時とはいえ、さすがに罪悪感を覚えた。
「……わりぃ、おばさん。続けてくれないか?」
 ソフィアはほっと息をつき、話を戻した。
「ジャック、私が言いたいのはね。自分の好きなように生きるだけじゃいけないってことなの。一人ならそれでもいいわ。けれど、あなたには仲間や家族がいるでしょう? 神官たちも、あなたがガルナの塔を攻略したと聞いて感心していたのよ」
 ジャックが口を挟む間もなく、ソフィアは続けた。
「皆、あなたが賢者として認められることを望んでいるわ。それを幼稚な自分で無駄にする気なの?」
「幼稚、って……またグサッとくるな」
 おどけてみせたが、ソフィアがにこりともしないので、ジャックも笑みを消した。
「私は、あなたのひょうきんな所は好きよ。でも、いつもその調子では賢者として、失格よ」
 さらに話が続くと思っていたが、ソフィアは紅茶を飲み干すと席を立った。ジャックは無意識のうちに呼び止めていた。
「おばさん! オレ、どうすりゃ……」
 ソフィアは振り向くと、目を細めた。
「食べ終わったら給仕の子に渡しなさい。暖かくして寝るのよ」
 扉が閉まり、足音が遠ざかると、ジャックは額を抱えた。
「思ったこと口にするのは、オレの血筋全員だろ……」



 その後数日間、ダーマは『悟りの式』と、賢者の卵二人の噂で持ち切りとなった。神殿側は式の執行後、盛大な宴を開くという。カンダタは腹いっぱい食うんだ、と宴に備え食事を減らしている程だ。
 チュンはというと、モエギが式までいれば、と引き止めたのにもかかわらず、早々に下山してしまった。だがチュンのしたことを考えると、それ以上無理を言う訳にはいかなかった。幸い、彼が最後に見せた表情が笑顔だったので、それが唯一の救いと言える。
 滞在者は皆、男はクラリスを、女はジャックをしきりに話題の種とし、憧れの存在として崇めていた。モエギは黄金の爪の一件でジャックと仲間だということが知れ渡っており、うんざりする程ジャックを紹介して欲しいとせがまれた。アリアハンにいた頃はそういったことが一種の生業だったが、今は到底する気にはなれず、かどが立たない程度に断っている。
 その一方で、かつてダーマを捨てたソラリスの息子であるジャックが賢者になろうとは、と難癖をつける者も若干だがいるようだ。とはいえ、ジャックは大神官直々に修行をつけてもらったのだし、何より『銀の賢者』という存在価値があるので、他の者もそう強くは糾弾出来ない。だが、それでもジャックのあの振る舞いを知った上で、面白くない、と考えているらしい。
 周囲の騒ぎようを目の当たりにすると、いよいよジャックも立場上高貴な人物になるのだ、という実感を無視出来なくなる。信じられないよね、とサーラやアルトに冗談めかして笑いかけたかったが、彼らは今いない。
 早く、四人でまた旅がしたい――自分をこれ程までに寂しがり屋だと思ったことは、今までになかった。
 ダーマに帰還してからの数日間はあっという間に過ぎ、式当日を迎えた。
 神殿には至る所に紋章入りの垂れ幕がかけられ、祭壇のある大広間では数十名の神官たちがせわしなく式場の設営に汗を流していた。今日は皆、何故か灰色のローブを纏っている。その中で筆頭に立って指示を飛ばすソフィアの姿を、モエギは広間の隅で追っていた。
 ちらほら滞在者たちも集まり始めているが、モエギは一人で式を見たい、と仲の良い娘たちに言っておいた。彼女たちは幸い、モエギの心中を察してくれた。
 話によると、ジャックたちは賢者の正装をして式に臨むという。ジャックは、ヨシュアの言っていた修行を乗り越えたのだろうか――あれ以来ジャックとは会っておらず、それがひどく気がかりだった。
 次第に人が増え、広間には立食用のテーブルが並び始めた。式は正午から始まるという。このままぼんやりと待っているのが嫌になり、モエギは立ち回るソフィアに歩み寄っていった。
「ソフィアさん、あたしも手伝います。動いていないと何か落ち着かなくって」
 すると、ソフィアは意外にもそれを断った。どうして、と尋ねると、ソフィアは微笑んで告げた。
「気持ちは嬉しいわ。でも、悟りの式は神官たちだけで準備するのがならわしなの。ほら、お知り合いが来たわよ」
 振り返ると、カンダタが入口付近で辺りを見回しており、モエギを見つけると足音を立ててやって来た。
「おう、ここにいたか。オレァ式に備えて、さっきまで寝てた」
「ごちそうに、でしょ。あんた、髪ぼさぼさじゃない! そんなんじゃつまみ出されるわよ」
 咎めると、カンダタは手ぐしで髪を整え、ニカッと黄ばんだ歯を見せた。
「別にいいんだよ。主役はオレじゃねェんだから」
 それもそうね、とうなずいてみせると、ソフィアがくすくすと笑った。
「確かにそうね。でも、最低限の身だしなみは整えていただきますから」
「おう……クラリス様のオフクロさんに言われちゃ、仕方ねェな」
 ソフィアに礼をして離れると、カンダタもそのままついて来た。
「嬢ちゃん、今日は一人かァ? 珍しいじゃねェか」
「たまにはあたしだって一人でいたいの。複雑な乙女心ってやつ」
「へェ。だがオレァ、嬢ちゃんと一緒にいるぜ」
「……人の話聞いてる?」
 半眼でカンダタを見上げるが、当の本人は一向に離れようとしない。まあ、この男ならジャックについて口うるさく言わないだろう。モエギはそれ以上詰問しないことにした。
 テーブルには料理が続々と運ばれ始めた。おそらく、各地のあらゆる食材を揃えたのだろう。色鮮やかな葉野菜の上に盛られた、肉汁したたるローストチキン、様々な野菜が彩りを添えるサラダに果実の盛り合わせ。また、ポルトガで口にしたパエリアなど、諸国の料理も数多く並べられている。
 一体この式に、どれだけの労力と費用が注がれているのだろう。それだけに、ますますジャックが無事式をこなせるかが心配になってきた。
 そんなモエギの気持ちは露知らず、カンダタは今にもかぶりつきそうな勢いで、料理を食い入るように見つめている。
「どれもうまそうだなァ。この神殿、何かと金がいりやがるから相当儲けてるんだろうが、ここから金持ち出したら本当の大悪党だぜ」
「あんたならやりかねないからやめて」
 冷たくあしらうと、カンダタは苦笑した。
「まァ、本当に持ち出すとしたら、それは嬢ちゃんだなァ」
「またそんなこと言って。クラリス様、の間違いでしょ」
 ちげえねえ、と笑い出すかと思ったが、カンダタが真顔だったので、モエギは顔から血の気が引いていくのを感じた。
「……や、やめてよね。あたしみたいなガキを」
 すると、カンダタはふっと風が凪いだような息を漏らした。
「……安心しろや。嬢ちゃんを取って食うような真似はしねェよ」
 いつもと声の調子が違ったので、モエギはまじまじとカンダタを見つめた。それに応えるように、カンダタも真っ直ぐモエギの瞳を見据える。
「昔、いたんだよ。嬢ちゃんに瓜二つの、娘っ子がよ」
 え、と聞き返したモエギの声は、拡声器によって遮断された。
「皆様、間もなく『悟りの式』を執り行います。それまでしばしご歓談を」
 ソフィアの声だった。気が付けば、広間は滞在者や神官で溢れ返っている。これだけのざわめきの中で、カンダタの一言だけがやけにはっきりと聞こえた。
 もっと詳しい話を聞きたかったが、カンダタはそれきり何も言わなくなってしまったので、モエギも黙って式が始まるのを待った。
 程なくして、ソフィアの声が再び大広間に響いた。
「皆様、大変長らくお待たせしました。これより、『悟りの式』を執り行います。まずは、大神官補佐ノイルド様より開式の辞を」
 大神官補佐ノイルドは、普段の華美さとはうって変わって、神官たちと同じく薄い灰のローブを身に付けていた。予想より簡潔に挨拶が終わると、ソフィアが進行を続けた。
「続きまして、大神官ヨシュア様と、今回賢者の啓示を受けるクラリス、ジャックの入場です」
 すると、奥からヨシュアと、それに続いてクラリス、そしてジャックが登場し、ゆったりとした足取りで祭壇に上った。やはり由緒正しい儀式のためか、拍手や歓声は一切ない。
 ヨシュアは普段通りの装いだったが、クラリスはマントを、ジャックはローブをそれぞれ水色の衣で統一しており、それはモノクロームの神殿の中で一際鮮やかに映った。神官たちが無彩色のものを纏っている意味がようやく理解出来た。
「へェ。別人じゃねェか、あいつ」隣でカンダタが感心したようにつぶやく。
「それでは、今日ここに誕生する二人の賢者より、誓いを述べさせていただきます」
 大広間が緊張で満たされる。ジャックとクラリスがヨシュアに向き合い、悟りの書を手によく通る声で誓いを読み上げ始めた。
「母なる大地と、精霊神ルビスよ。
 我らここに誓わん、己の英知と健全なる肉体精神を持ってして、いかなる至難をも恐れず、ただ信ずるままに躍動の道を歩まんと。
 我らは悟りし者。いついかなる時も、清新の心を忘れず、世界の全てを見据えし者である」
 長い静寂が続いた。これでヨシュアが啓示を与え、承認すれば無事二人は賢者と認められる。
「では、大神官より啓示を」
 大神官補佐が銀の盆を差し出し、ヨシュアはそこから真ちゅうの額飾りを手に取った。遠目に見ているのでよく分からないが、中央にはクラリスの瞳とよく似た宝玉が埋め込まれている。
 クラリスがひざまずくと、ヨシュアは印を結び、祝福の言葉と共に額飾りを授けた。広間は割れんばかりの拍手に包まれた。
 クラリスはおそらく、幼少時からヨシュアの手ほどきを受けてきたのだろう。それだけに、長年かかって正式に賢者と認められた今の胸中は計り知れない。モエギも惜しみなく拍手を送った。
 ヨシュアは引き続き、盆から緑色の宝玉がはめ込まれた腕輪を手にし、ジャックの前に立った。だがジャックはひざまずかず、またヨシュアも腕輪を与えるどころか、何やらジャックに囁いた。広間は何事かとざわめく。
「オイ、ここまで来て賢者にァなれねェってことかァ?」
 ここでヨシュアの思惑が働くのか。モエギは答えることが出来ず、信仰者でもないのに胸の前で手を組み合わせた。
「皆様、お静かに願います。大神官の意思により、これよりジャックから改めて、賢者の誓いを述べさせていただきます」
 人々は驚くばかりか、破格の扱いをされるジャックに対し皮肉を口走る者まで見受けられる。おそらく、これがヨシュアの言っていた最後の修業なのだ。祭壇の傍らにいたソフィアから拡声器を受け取ると、ジャックはモエギたちの方向に向き直り、短く息を吸った。
「……オレは、生まれてこのかた、自分が大神官の孫であること、そして銀の賢者であることを、知らなかった」
 それは、こんな喋り方も出来たのか、と耳を疑う程、ジャックにしては深く通る、落ち着いた声だった。人々のざわめきが小さくなる。
「今までずっと、オレは自分の好きなように生きてきた。それがたとえ誰かのためであっても、自分のやりたいことだけを通して、自分が楽しければそれでいいと思っていた」
 広間には再び困惑が広がる。あんな奴を賢者にしてもいいのか、という非難の声もちらほら起こった。モエギは気が気でない。
「けれど」
 その一言で、広間は再び静まり返る。ジャックの一言は、わずかに怒気をはらんでいた。
「オレは大切な仲間を失った。そして自分も、死にかけた。死ぬっていうのは恐ろしいもんで、今までの泣いたり笑ったりっていう当たり前のことが突然出来なくなっちまう。その当たり前を奪っている奴らがいて、そいつらは世界っていう、オレたちの当たり前すら奪おうとしている」
 ジャックなりに今までのことを振り返り、ロイドを始めとする魔王側への怒りを表そうとしているのだろうが、口調が普段と変わらなくなってきている。モエギは手をきつく握り合わせた。
「けど、オレはその代わりに新しい仲間に出会った。そいつらは、魔王を倒すっていう馬鹿でかい目標を、ただ当たり前のように目指している。いつ死んじまっても、おかしくないのに」
 モエギたちのことだ。かつて、ジャックはロマリアでこうこぼしていた。正直言って、魔王討伐などにつき合う気にはなれない、と。今ももしかすると、そのような思いを胸の中に残しているのかもしれない。
 だが、ジャックの次の言葉は、モエギには想像もつかなかったものだった。
「そいつらがいるから、そしてこんなオレを慕ってくれる奴らがいるから、今のオレがここにいる。だから、オレはそいつらの当たり前を守りたいんだ。
 オレが賢者になる理由は、それだけだ!」
 突き抜けるような声が、大広間に静寂をもたらした。
 ジャックの誓いは、誰よりもモエギの胸に鳴り響いた。モエギだけではない、カンダタにも、ヨシュアたちの胸にも届いただろう。そして願わくば、サーラとアルトにも。
 ジャックは拡声器をソフィアに返すと、潔くヨシュアにひざまずいた。ヨシュアも今度はためらうことなく一連の動作を行い、腕輪をジャックの手首にはめると、孫たちと共にその間に立った。
「大神官ヨシュアの名において、ここに賢者クラリス、賢者ジャックの誕生を許す。ダーマの新たな風の前途を祝して、皆の者、杯を!」
 集まった者たちが次々と用意されていた杯を取り、天井高く掲げた。
「悟りし者の旅立ちに、幸多からんことを!」
 大広間は、かつて耳にしたことのない大歓声で満たされた。
「皆様、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。これより祝宴の時間とさせていただきます、どうぞごゆるりと……」
 ソフィアが声を詰まらせているのが分かった。宴が始まり、有志らしき楽団の演奏が流れ始める。人々はテーブルに群がり、皆声をはずませている。そのほとんどが、ジャックとクラリスを祝福していた。
 その中で一人立ち尽くすモエギの肩を、カンダタがそっと叩いた。
「嬢ちゃんの分は取っておいてやらァ」
 カンダタは大股で料理に向かっていく。モエギはその背中に小さくうなずき返し、しばらく目頭を両手で覆っていた。



 宴は、夢のような一時をもたらした。人々の愉快な笑い声、楽団の荘重な調べが大広間を満たし、魔王が世界をおびやかそうとしていることこそが虚言のように思える程だった。
 だが、モエギはジャックの言葉をずっと反芻していた。カンダタが取り分けてくれた料理以外口にせず、一人広間を離れ、人知れず外に出た。
 暦から言えば、既に年の瀬を迎えようとしている。高地はただ荒々しい肌をむき出しにしており、西の山裾に滲むような斜陽が燦然と輝いている。
 モエギは腫れないように注意深く目をこすると、思い切り聖地の空気を吸った。寒冷な気を取り入れると、いくらか気持ちがしゃっきりしてきた。このまま宿に戻る気にもなれず、とりあえずぐるりと神殿の周囲を回ることにした。
 神殿と宿屋を結ぶ回廊をまたぐと、その右手裏には大神官のものだという庭園がある。岩の割れ目から清水がこんこんと涌き出ており、わずかに生えた草は霜で白く色づいている。奥の方には神殿と同じ色合いの東屋があり、モエギはそこに腰を下ろした。
 ――ジャックが、あのようなことを言うとは思わなかった。普段のジャックからはとても結びつかない言動だった。
 普通の人々が泣いたり笑ったり出来る生活を守るのは分かる。それがすなわち、平和だからだ。だが、モエギたちの当たり前を守るというのは、意味合いがよく分からない。
 それでも概ね人々の理解を得たジャックを目の当たりにすると、やはりダーマ一族の血なのだろうか、と思った。きっと、人々はジャックを大神官の孫だとか、ソラリスの息子、そして銀の賢者として第一に見てしまうのだろう。
 いつになればジャックと話が出来るだろう。宴が終わる頃合いを見計らって、ソフィアに掛け合ってみようか――
「あーさみぃ。こんなスースーしたモンいつまで着てろってんだ」
 ふいに耳に馴染んだ声が聞こえ、モエギはとっさに東屋を出た。神殿の裏の方から、晴天を切り取ったようなローブに白の外套を纏った銀髪の男が、こちらに向かってくる所だった。こちらに気付いたのか、足を止める。
「あ、あんた、何でここにいるのよ!」
 モエギが指を突き付けると、ジャックは不足そうに口を尖らせた。
「オレがあそこでずっと終わるまで愛想笑い作ってられると思うか? 用足してくるって言って、抜け出してきた」
 ジャックは宴の間、ヨシュアやクラリスと並んで上等の席に座り、他の者たちから祝いの言葉を投げかけられていたはずだ。
 ヨシュアの人脈は世界にも通じているのか、ロマリアやイシスなどからは今日のために王からの祝辞の文が送られており、ソフィアが宴の間に読み上げていた。そういった高位の者でなくとも、ジャックやクラリスは声をかけてくる者たちに快く応じていたのだが、やはり慣れないことで苦痛だったのだろうか。
 かといって、ジャックはもうダーマにとっては重要な人物なのだ。甘やかす訳にはいかない。
「主役のあんたがいないんじゃ、みんな寂しがるでしょ。早く戻りなさいよ」
 視線を外し、そっけなく告げる。だがジャックは困ったように頭を掻くだけだった。
「……まあ、ぼちぼちな。お前こそ、何でここにいるんだ? 内心びびってんだけど」
「ちょっと人に酔ったの。あんたが戻ったらあたしも戻るし」
 本当は誓いの真意を聞きたいはずなのに、口をついて出てくるのはいつもの突き放すような言葉だ。ジャックは天を仰ぎ、ため息をついた。
「……しかし、ジイさんもあれだけの人間の前でよくやるよな。そこでアドリブかますオレもオレだけど」
「アドリブにしては出来すぎてない? あんたがあんなこと考えていたなんて、思わなかった」
 すると、ジャックは長い瞬きをして、つぶやいた。
「ああ。何日か前におばさんに説教されてよ。それもあったのかね……」
「びっくりしたわ。『オレが賢者になる理由は、それだけだ!』だって。ホントに?」
 モエギが詰め寄ると、ジャックもたじろいで白状した。
「あー……あれは勢いもあるかも。それだけの訳ねえだろ、何にもねえ所から炎やら氷やら出せるようになったんだぜ? やっぱりオレ自身がすごくなりてえってのもあるよ」
「……そう」
 と、唐突に突風が吹きつけ、モエギは自分を抱きすくめた。大広間は火が焚いてあったため、外套を用意していなかったのだ。ジャックが呆れたように言う。
「お前、外套もなしに出てくるなよな。言っておくけどよ、オレはこういう時『これであったかいだろ?』なんてむずがゆい真似絶対しねーからな」
 外套を着せてやる素振りをしてみせ、ジャックは口をへの字に曲げた。若干それを期待していた自分が嫌になり、モエギもそっぽを向いた。
「分かってるわよ! 誰もそんなこと言ってないし!」
 そう言ったそばからくしゃみをし、モエギは全身をがくがくと震わせ、鼻水をすすり上げた。何たる醜態だろう。
 すると、見かねたジャックはおもむろに外套を脱ぐと、モエギに押し付けた。
「ったく、お前はホントに手のかかる奴だな。それ着ろ」
 外套を両手に抱え、モエギが拍子抜けしていると、今度はジャックが震え出した。
「あーっ、ホントにさみぃな!」
 身体のみならず、歯もがちがちと鳴らしている。モエギは肩をすくめ、ぬくもりの新しい外套をジャックに着せてやると、寒さに負けぬよう背筋を伸ばした。
「バカね。アッサラーム育ちの奴に寒さで負けてたまるもんですか。さ、それ着て戻ったら?」
「……人のせっかくの厚意を無駄にしやがって」
 尚も負け惜しみを言うジャックに、モエギはそれとなく尋ねた。
「……ねえ、あたしたちの当たり前を守るって、どういうこと?」
 神妙なモエギの表情が移る。ジャックはゆっくりと外套を羽織ると、こう告げた。
「それは、バラモスを倒すまで、お前らについて行くってことだ」
 じゃあな、とジャックは口元をつり上げ、元来た道を戻っていった。モエギはその背中を見送りながら、今までのことを思い返した。
 最初はただのいけ好かない軟派野郎だと思っていた。かといって、大神官の孫と崇められるような聖人でもない。
 盗賊であろうと、賢者であろうと、ジャックはジャックなのだ。そうである限り、格差を気にする必要はない。
 何故、あの時涙が溢れたのかはっきりとは分からなかったが、あの時のジャックは確かに、まぶしく輝いていたのだ。
「……もう泣き虫は、やめないとね」
 遠く離れた親友へ、モエギは囁くように語りかけた。



「……風が、冷たいな」
 潮風が豊かな巻き毛に絡み付く。サーラは甲板で髪を押さえつけながら、アルトに語りかけた。
「寒いなら、こっちに上がってこいよ」
 アルトが舵台の上から手招きする。サーラがその隣に並ぶと、舵手のダンはお構いなく、と不器用に片目をつぶり、アルトはにこりと笑みを浮かべた。サーラも微笑んだつもりだったが、うまく笑えなかった。
 ランシールから出航し、目指すはバハラタ南の小さな港町だ。村で近海の情報を得、それを頼りに航海を続けている。今は比較的波の機嫌も良く、落ち着いて船を進めていた。
「ダーマもきっと、寒いだろうな。ジャックやモエギは元気かな」
「だといいがな……何しろ、連絡の一つも取れない」
 サーラが笑みを消すと、アルトが怪訝そうに顔を覗き込んだ。
 ――肉親も、故郷も、そしてかつての恋人すら、失った。それでもまだ立っていられるのは、この少年が精一杯の愛情をサーラに注いでくれるお陰なのだろう。
 もしかすると、自分はそれにすがるあまりに、この感情を恋だとはき違えているのかもしれない。否――サーラはアルトをじっと見つめた。
「……どうしたんだ?」
 アルトが小さく尋ねる。サーラはかぶりを振り、そっと表情を和らげた。
「……いや。ただ、あまりにも色々なことがあったから……」
 そうつぶやいた自分の声はあまりにも儚いものだった。すると、アルトはぽつりとつぶやいた。
「悲しみは、ずっと続くものじゃない。……止まない雨がないように」
 誰かに言われたことがある、と言ったきり、アルトは口を閉じてしまった。その代わり、いたわるように目を細める。それを目の前にすると、ほんのわずかだが、悲しみが薄らいでいくような気がした。
 やはり、この気持ちは束の間のものではない。アルトは、何物にも代えがたい安らぎなのだ。
「早く、会いたいな……モエギとジャックに」
 うなずき合い、サーラとアルトは水平線の彼方に視線を向けた。
 そう、話したいことが、沢山あるのだ。



 そして、四人は再び、集う。