過去の影 悟りの書 3



「よォ、嬢ちゃん久し振りだなァ。しばらく面見ねェと思ってたんだ」
 カンダタと顔を合わせたのは、夕食後ひと風呂浴びようと湯具を小脇に抱え、部屋を出た所だった。
「せいぜい一週間くらいでしょ。あんたは今何やってるの?」
 宿屋の二階、向かい合わせに位置する男部屋と女部屋の間は、常に滞在者で賑わっている。何でも、中には出会いだけを求めてダーマにやって来る不届き者もいるらしい。
 案外、この男もそうなのかもしれないが――カンダタは満足そうに腹をさすりながら、笑みを覗かせた。
「オレか? オレァな、明日試験だ」
「試験!?」
 モエギは思わず吹き出してしまった。あまりにも、この男に似つかわしくない単語だったからだ。
「へッ、そうやって笑ってられるのも今のうちだぜ? いい装備が手に入ったら高額で売りつけてやらァ」
「えっ、武器商人でもやるつもり?」
 カンダタはまあな、と不精ひげの生えた顎を撫でた。
「ゆくゆくはな。だが、そう簡単にはいかねェからよ。しばらくはダーマに仕入れをすることになりそうだ」
 仕入れ、とピンとこないまま復唱すると、カンダタはにやにやと腕組みをした。
「どんなことするのか知らねェだろ? 例えば、この宿の食堂は莫大な量のメシを用意してるだろ? この高地で材料をどう調達してるのかっつったら、神殿に雇われた商人が各地で食材を買い付けてくるんだ」
 移動はどうするのか、と尋ねると、カンダタはキメラの翼を使うのだと教えてくれた。
「キメラの翼!? そんな贅沢していいの!?」
 キメラの翼といえば、一度行ったことのある所であればどこにでも行けるという、片道切符のような道具だ。だが便利性に比例して、はした金では手が出せない高級品ということで知られている。
「おう。まァ、そいつの分は給金から引かれちまうんだけどな。でもって、ダーマから遠方に行ける奴ほど給金が高ェ。オレァせいぜいイシスやカザーブぐらいしか行けねェが、イシスに足を伸ばせる奴は結構少ねェらしい。だからやってみようかなってよ」
「そう……。でも、あんたがもし、あのカンダタだってばれたら」
「そいつァ心配ねェよ。忘れたのかァ? オレァ、盗みの時ァ覆面つけてたんだ」
「あ、そっか」
 こうも簡単に過去の悪事を述べられると複雑だが、そのカンダタがこうしてまっとうな職に就こうとしているのは喜ばしい限りだ。
「まあ、受かるといいわね」
「ありがとよ、嬢ちゃん。金が手に入ったら髪飾りの一つでも買ってやらァ」
「それはどうも」
 カンダタは親指を立てて、ニカッと黄ばんだ歯を見せた。そのまま別れ、モエギは軽いステップで浴場へ向かった。



 翌朝、いつも通り訓練場へ向かおうと身支度を整えていた所だった。
「あーっ!?」
 モエギの尋常ならぬ叫び声に、大部屋の女たちは何事かと集まってきた。荷物やベッドを引っ掻き回しながら、モエギは悲鳴に近い声を上げた。
「爪が……爪がないっ!」
「爪って、あの変な顔のやつ?」
 仲の良い魔法使いの少女が尋ねる。寝床のあたりをくまなく調べたが、それらしきものは見当たらない。
「そうよ! 変でも気持ち悪くても悪趣味でも、あの爪はあたしの……!」
 いきり立つモエギに、以前バニーをやっていたという女が思い出したように言った。
「そういや、昨日の晩若い男があんたを訪ねてきたよ。あんたに貸したものを取りに来た、って」
 ダーマに来てから、物の貸し借りをした覚えはない。だが――モエギはある予感を覚え、一応聞いてみた。
「その人、どんな人だった?」
 元バニーの女は寝乱れた巻き毛をかき上げ、口をすぼめた。
「そうだね、ひょろっとした、黒髪で冴えない感じの――」
「大変だーっ!」
 突然、女部屋に小太りの男が飛び込んできた。まだ着替えも済ませていない者が多いため、甲高い悲鳴が上がる。
「ちょっと、勝手に入ってこないでよ!」
 女たちの文句に負けじと、男は声を張り上げた。
「それどころじゃないんだよ! 神殿の訓練場で、若い男が暴れてるんだ! 右腕に、不気味な爪をつけて――」
 全身から、血の気が失せていくのが分かった。モエギは一目散に部屋を出た。
 廊下は騒ぎを聞きつけた滞在者でごった返しており、モエギはそれを無我夢中でかき分け階段を下りた。
「おい、嬢ちゃんどうした!?」
 宿を出ようとすると、カンダタの声が聞こえた。だが構っている暇はない。モエギは全速力で神殿内部へ向かった。
 間違いない。そんな知り合いは一人しかいない。なんて、馬鹿な真似を――
 武術の訓練場に辿り着くと、朝だというのに野次馬や神官たちが群がっている。その間を縫って中に入ると、目の前に広がった光景に言葉を失った。
 床には手足に傷を負った武闘家たちが倒れており、苦悶の声を上げている。その中心に、返り血で汚れた稽古着を纏った青年が突っ立っていた。
「チュン!」
 チュンは不自然な程ゆっくりと振り返り、焦点の定まらない目でモエギを捉えた。
「良かった……やっと、来てくれた」
 モエギは唇を切れそうなくらい強く噛むと、つかつかとチュンに歩み寄った。
 すると、まるでそこだけが別の生き物であるかのように、チュンの右腕がしなりモエギに襲いかかった。とっさに宙返りを打ち、間合いを取る。チュンのうめき声が届いた。
「なあ……誰も武術なんか教えてくれないんだ。どいつもこいつも、おれを馬鹿にして……。だからおれ、あんたがこの爪に取り憑かれていると思って、この爪さえなければ、またおれと一緒に修行してくれると思って……」
 能天気ではあったが、穏やかな笑みをたたえていたチュンの顔には濃いくまが浮かんでおり、憔悴しているのが目に見えて分かる。痛々しさに目を逸らしたくなったが、そうする訳にはいかなかった。
 これは自分のせいだ。自分が、責任を取らねばならない――モエギは傍らに落ちていた鉄の爪を拾い上げ、腕にぴったりとはめた。
「チュン! 行くよ!」
 叫ぶなり、モエギは駆け出した。チュン自身に戦う気はないのだろう、構えすら取らなかったが、やはり黄金の爪をつけた右腕だけがこちらを狙ってきた。金属音が場内にこだまする。
 腕が塞がれるのならば――モエギが下段蹴りをくらわせると、チュンは猿のようにそれをかわし飛び退いた。面食らう間もなく、チュンが身体をひねり右腕を繰り出す。モエギも上半身を反らし、寸分の差で逃れる。
 この動きは、チュンのものとは明らかに違う。これは、おそらくその爪を使っていたという、イシスの王のものだろう。
 やはり、あの爪を持ってきてはいけなかったのだ。あの爪は、魔物どころか人間をも傷付け、狂わせてしまう――
 チュンは右腕のみならず、蹴りも仕掛けてくるようになり、なかなか攻めることが出来ない。だが星降る腕輪は幸いつけていたので、今の所まともに打撃をくらってはいなかった。
 だが、問題はチュンの方だ。チュンの身体は決して鍛え抜かれたものではない。なのにこのような激しい動作を繰り返していては、いつか限界を超えてしまう。
 ほんの一瞬の隙をついて、黄金の爪がモエギの右足を裂いた。肉を破られる痛烈な衝撃が走ったが、モエギはそれをこらえ、距離を置いた。歯を食いしばり、チュンを視界に据える。チュンは全身で息をしており、顔も蒼白になっていた。
「モエギ……」
 チュンは今にも泣き出しそうだ。実際、もう泣いているのかもしれない。
「おれ、こんなつもりじゃなかったんだ……本当は武術なんかどうでも良かった。ただ、あんたと一緒にいたかったんだよ……!」
「チュン……」
 きっと、自分も泣きそうな顔をしている。足元を見やると、出血は思ったよりひどいようだ。
 人の血など、無縁のような奴だったのに――モエギは、男にしては柔和すぎる程、邪気のないチュンの笑顔を思い返した。
 そんなチュンを、これ以上傷付けたくない。
 モエギは鉄の爪をはずし、床に投げ捨てた。野次馬たちが驚愕の声を上げる。
 このままでは、勝ち目はない。だが、チュンを殺す必要はない。
 一か八か、やってみるしかない――モエギは少しずつ、チュンと間合いを詰めていった。
「モエギ、おれ、このままじゃあんたを……」
「バカ言ってんじゃないわよ!」
 チュンがびくっとひるんだ。今だ。
 モエギは出来る限りの速さでチュンに飛びかかった。すかさず黄金の爪がうなり声を上げて向かってくる。刃が頬をかすめ、二つに結った髪の左の房が、髪飾りごと床に散らばった。
 そのまま倒れ込み、モエギはチュンの腹部を肘で思い切り打ちつけた。うごっ、とチュンが泡を吹き、程なくして気を失った。
「……やった……」
 モエギは肩で息をしながら、汗だくになって立ち上がった。振り向くと、自分の髪だったものが、無残な形で黒い固まりを作っていた。
「あたしの、髪――」
「嬢ちゃん、油断するなっ!」
 人ごみの中からカンダタの声が飛んできた。チュンの方を見やると、白目のまま跳ね起き、その勢いで右腕が殴りかかってきた。人々の悲鳴が上がった。
「ラリホー!」
 瞬間、しん、と辺りが静まり返った。反射的に閉じた目を開けると、チュンはうつ伏せになって床に沈み込み、寝息を立て始めた。茫然としていると、視界の外からまぶしいものがきらり、と姿を見せた。
「オイッ! 大丈夫か!」
 両肩を抱かれ、覗き込むようにして飛び込んできた顔が、ひどく懐かしく、そしてずっと待ち望んでいたように思えた。
「ったく、何やってんだよ! 若いヤローが変な爪持って暴れてるって聞いたから、やな予感したんだけどよ!」
 木々が紅葉し、散っても尚、若葉のように青々とした瞳。モエギの口から、自然と言葉がこぼれた。
「魔法……使えるようになったんだ」
 ジャックはしばし目を見開いた後、小さくうなずいた。
「ああ……そうだよ」
「お母様、こっちよ!」
 聞き覚えのある声がしたかと思うと、クラリスとソフィアが駆けつけ、モエギの姿を目に捉えるとひどく驚いた。
「モエギさん! こんな、ひどい怪我して……ジャック、すぐ救護室に連れて行きなさい!」
「待って、ソフィアさん! その爪をはずして! じゃないと、また……」
 ソフィアはモエギとチュンを交互に見、クラリスに指示した。
「クラリス、ラリホーの重ねがけをして! それから、他の皆に怪我人の手当てをするよう伝えて!」
 クラリスは戸惑いながらもうなずき、チュンにラリホーを唱えると、訓練場の外にいた神官たちに呼びかけた。
 ソフィアはチュンのそばにひざまずくと、黄金の爪を調べ、一気に顔を強張らせた。
「これは……。モエギさん、悪いけど……シャナクを使わせてもらうわ」
「シャナク……って?」
 ソフィアに尋ねたつもりだったが、答えたのはジャックだった。
「シャナクは、呪われた武器とかを浄化して、呪いを解く魔法だ。その代わり、呪われてた物は壊れて砕けちまう」
「壊れるって、そんな……」
 モエギは言いかけたが、このまま放っておくと他人どころか、モエギ自身までもが取り憑かれてしまうかもしれない。ぐっと言葉を飲み込むしかなかった。
「モエギさん、あなたがこれを使っていたのよね。ジャックから聞いたわ。でも、これはあなたが今まで無事だったのが不思議なくらい、妖力の強いものよ。シャナクした方が、あなたにとっても、この男の子にとっても良いことだわ。いいわね?」
 モエギは口をきっと結び、うなずいた。
「それじゃ、唱えさせてもらうわね。
 忌まわしき呪いを解きし、聖なる祝福……シャナク!」
 ソフィアの両手から、青白く光る珠が湧き起こったかと思うと、黄金の爪は光が消え失せると同時に亀裂が入り、跡形もなく砕け散った。
 クラリスと数人の神官が、倒れていた怪我人の治療に当たる。モエギはチュンを見下ろし、ソフィアに頼んだ。
「ソフィアさん、この人……チュンは悪くないの。あたしが、いけなかったの……」
 ソフィアは目を細め、いたわるように声をかけた。
「分かったわ。話は後で聞くから、早くジャックに治療してもらいなさい」
 はい、と首を縦に振り、モエギはジャックに肩を貸してもらい訓練場を出た。クラリスがこちらを気にかけているのが、視界の隅に映った。
「ジャック、てめえいきなり現れたかと思ったら、ラリホーって何だ! ふざけたのかと思ったぜ!」
 人ごみの中からカンダタが抜け出てきた。他の人々はモエギの様子を見て、よくあいつを止めたと称賛したり、怪我や髪を気にかけて憐みの声を投げかけた。
 ジャックは憮然とした表情で、カンダタに返答した。
「お前なら、あのヤローぶった斬ってたかもな」
「殺すかよ。ただ、半殺しにはしたかもな……」
 ちらとモエギの方を見、カンダタは珍しく眉を八の字に寄せた。
「嬢ちゃん……髪」
 モエギは左耳の上に手をやったが、先程まであったものはなく、空を切るだけだった。開いた口でそのまま笑顔を作る。
「そんな顔しないでよ。もう少しで顔に爪跡がつくとこだったんだから!」
 人々の注目がジャックにも集まり始めていたが、当の本人は周囲を見回し、得意のひょうひょうとした口振りで振る舞った。
「皆さん、朝早い中お騒がせしてすいませんね。怪我人がいるんで、ちょっと静かにして道開けてちょうだいね」
 いつものジャックなら「どけどけ!」とでも言いかねないのに、思いのほか人当たりは柔らかだった。人々は素直に左右に割れ、名誉の負傷を負ったモエギとジャックを見送った。



 救護室は、訓練などで怪我を負ったり、体調を悪くした者が休む場所で、神殿の者たちが暮らす一角とは反対の奥まった所にあった。
 救護室にいた神官の男女二人は、モエギよりジャックの姿を見て同時に目を見開いた。
「あ、貴方はジャック様……!」
「様はよしてちょうだい。それならまだ『ソラリス様の……!』って仰け反られた方がいいわ」
 ジャックはわざわざ身振りで真似してみせた。神官たちはあまりにも砕けた大神官の孫に困惑していたが、モエギの怪我の具合を見てすぐに気を引き締めた。
「そちらの方、只今お手当ていたしますので、こちらへ……」
「あ、わりぃ。ベッドだけ貸してくれねえかな」
 神官たちは顔を見合わせ、「え?」と仲良く疑問符を浮かべた。ジャックはあっけらかんと言う。
「いやいや、オレが治すの。そんな、アナタがたの手なんかわずらわせてたら、これからもっとひどいのがどやどや来ちゃっててんてこまいよ? はいはい、どけてちょうだい」
 神官たちは唖然としながらも、モエギとジャックを一番奥のベッドに通した。ベッドの間は簡素ではあるがカーテンで仕切られており、これなら落ち着くことが出来そうだ。
 モエギはベッドに腰を下ろすと、緊張の糸が切れたように大きく息を吐いた。どっと疲れが押し寄せ、そのまま息絶えるように横倒れになった。
 右足の傷は大事に至るものではない。だが、チュンをあのような状態にまで追い詰めてしまったことが、モエギの心をひどく痛めていた。
 その間に、ジャックはどこからか濡れた布を持ってきて、モエギの足元にしゃがみ込むと張り切った声を上げた。
「ほれ、足出せ。寝転がってる奴なんかにゃ治療してやらねーぞ」
「足……?」
 言うなり、ジャックはモエギの胴着をたくし上げ、傷口をぬぐい始めた。
「ちょっ、ちょっと!」
「あーあ、これだもんな。仮にも女なんだから、もっと色っぽい声とかさあ……」
「そういうこと言うのやめてくれない!」
 飛び起きると、ジャックはモエギを見上げ、したり顔で笑った。
「ほら、起きれるじゃねーか」
 不意に心臓が跳ね上がり、モエギは口を尖らせそっぽを向いた。
 今のは何だ。何故、しかもこんな男にあたふためかなければいけないのだ。らしくもない。
「さて、傷口はきれいになったから、治療始めるぜ」
 そっと視線を戻すと、ジャックはそれこそらしくない、真面目な表情をしていた。また心臓が落ち着きを失う。
 どうしちゃったの、あたし――モエギは今までにない程の自己嫌悪を感じていた。しかも、今抱いているものと似た気持ちを、味わったことがある。
 だが、これは以前のものとは違う。あの時よりもっとはっきりと、掴める場所にある。
 けれど、それを掴む気には、まだ突然すぎてなれない。
 ぱし、と弾けた音がして、すねにひりひりとした痺れを覚えた。ジャックがこちらを睨んでいる。
「お前、力入れすぎ。ほれ、力抜いて、楽にしろ」
 どうやら足を叩かれたらしい。だが怒る気にもなれず、モエギは言われた通り全身の力を抜いた。ジャックはよし、とモエギの傷口に手を添え、まぶたを閉じた。
 さっきは一瞬のことでよく分からなかったが、今はじっくりとジャックの魔法を見ることが出来る。モエギは息をひそめ、足元を見つめた。
 大きな手のひらに、空気が凝縮され、集まっていく。ジャックはうっすらと目を開け、囁くように唱えた。
「……ホイミ」
 途端に、手のひらから緑を帯びた光が溢れ出した。光はモエギの傷に染み込み、ほのかな熱を持って修復していく。
 光が止む頃には、傷などなかったかのように、足が元通りになっていた。
「すごい……魔法なんて、アルト君しか使えなかったのに」
 右足をぶらぶらさせてみても、どこも痛みを感じない。ジャックは立ち上がると、何かを見つけたように眉を上げた。
「あ、ここもか」
 ジャックの手がふいに、モエギの頬をほんのわずかにかすめた。
「な……」
 硬直したモエギを全く気にかける様子もなく、ジャックは指をこすり合わせ、拍子抜けした声を出した。
「何だ、血かよ。顔が傷付いてたワケじゃねーのか。ま、そこは唾でもつけとけ」
 あっさりと告げたジャックに、訳の分からない怒りがこみ上げ、モエギはその腕を力いっぱい叩いた。
「いてっ! おい、何すんだ――」
「バカっ!」
 はあ? とジャックは眉をつり上げる。
「バカ、って、オレはわざわざ覚えたての魔法で」
「バカなのはあたしなの!」
 静寂が耳をつんざいた。モエギはよく洗い干されたシーツを、血管が浮くくらい強く握った。
「チュンに、中途半端な態度取ったし、そもそもあの爪を成り行きで使ってたのは、あたし……」
「チュンって、あの爪で暴れてたヤローのことか? 何でまたあんな奴が……」
 モエギは途切れ途切れに、チュンのことや先程のことを説明した。聞き終えたジャックは呆れた様子で言った。
「お前もつくづく男運ねえな。つーか、お前みたいなのに想い募らせる奴もいるもんだな」
 いつもなら殴りかかる勢いで抗議する所だが、その気力も今はない。モエギは振り絞るように言葉を紡いだ。
「あたしだって、まさかチュンがあたしのことを……なんて、思ってもみなかった」
 他人をくっつけたり、自分が想いを寄せることはあっても、好意を持たれるのは初めてだった。カンダタはよく分からないので、この場合は論外とする。
「何だか、人の気持ちって怖いね。あたしがサーラに抱いた気持ちとか……」
 すると、頭を軽くはたかれた。何するのよ、と声を荒げるより早く、ジャックが口を開いた。
「しっかりしろ。お前、ここに何しに来た? 修行だろ? 心が乱れちまったら、何にもなんねえ。あんな奴のために心を裂くな」
「でも、チュンはあたしのせいで――」
「バカヤロー」
 ジャックはぼりぼりと頭を掻き、苛立ったように言葉を吐き出した。
「お前、肝心なとこ忘れてんだよ。あのセンスのカケラもねー爪をお前によこしたのは、オレだ」
「あ……」モエギは目を見開き、ジャックを見上げた。
 確かに、ピラミッドであの爪を見つけた時、モエギはいらないと拒絶した。だが爪の封印を解き、ミイラたちに襲われたため、ジャックがあの爪で戦えと押し付けたのだ。
 ジャックは口をすぼめたまま、モエギから視線をそらした。
「だから、これは誰のせいでもねえ。それ以上自分を責めんな」
 分かったか、と指を突き付けられ、モエギはこくりとうなずいた。
「……ごめん。ごめんね」
 それと――モエギは出来る限りの勇気を出して、付け加えた。
「……ありがとう、ジャック」
 すると、ジャックは頬をゆるめ、この男にしてはひどく穏やかに微笑んだ。
「おう」
 モエギは口を真一文字に結び、自分の胸を駆け巡ったものを落ち着かせるので精一杯になった。
 何で、こんな奴に――必死に普段の軽口ばかり叩いているジャックを思い浮かべるが、それを打ち消すかのように、あらゆる出来事が蘇ってくる。
 シャンパーニの塔やバハラタでのこと、イシスで頬をはたかれたこと。そして、先程視界に飛び込んできた、本気でモエギを心配する表情――
 知っているのだ。本当は誰よりも他人のことを思いやることが出来る、懐の深さを。
 モエギは拳を握りしめ、うつむいた。胸が、燃えるように疼いている。溢れるものを、止めることが出来なかった。
「おい、どうした?」
 ジャックが問いかけてきたが、モエギが首を左右に振ると、それ以上は何も聞いてこなかった。代わりに一言、ぽつりとこぼす。
「……髪なら、また伸びるだろ」
 モエギは小さくうなずいた。入口の方が騒がしくなり、ソフィアやクラリスの声が耳に届いた。
 髪のことで泣いたのではない。ジャックも、きっとそれを知っている。
 ただ、その理由はモエギだけが分かっていた。