過去の影 悟りの書 1



 もう、あれきりだと思っていた。
 会わなくなれば、いつしか遠ざかって薄れていくと思っていた。
 けれど、霞んで後は消えていくだけという時に、それは再び姿を見せる。
 あたかも、それを待ちわびていたかのように。



 横たわった暗闇の中で、焼かれているような熱を全身に感じながら、様々な人間が出入りしていくのを見た。
 義父がいた。師匠がいた。村の人々がいた。かつての恋人も、いた。そして、亡き父と母の面影もあった。
 けれど、その中の誰一人として、立ち止まる者はいなかった。
 今度はルイーダが姿を見せた。酒場の面々、アリアハンの町民、モエギ、ジャック、そして――
 彼が振り向こうとしたその途端、水の底からふっと浮かび上がるように、サーラは目を覚ました。
 かけられた毛布をめくると、服は簡素だが乾いたものに着替えさせられており、目の前では暖炉が赤く光を放っていた。あれから何日経ったのかは分からなかったが、おそらくアルトが船の寝室まで連れ帰ってくれたのだろう。
 身体はまだだるかったが、熱は下がっている。ベッドの傍らに視線を動かすと、サーラは目を見開いた。
「アルト!」
 ベッドに突っ伏し、アルトは浅くせわしない呼吸を繰り返していた。額に手を当てると、それこそ熱を放っている。
 それもそのはず、サーラが泣き疲れて意識を失うまで、アルトはずっとサーラを抱きしめていたのだ。
 冬の始まりの、刺すように冷たく尖った雨の中で。
「アルト、すまない……!」
 いても立ってもいられなくなり、サーラはアルトを空いているベッドに寝かしつけようとしたが、身体がまるで自分のものでないように、力が上手く入らず、サーラは愕然とした。
 あれから、アルトはずっと自分を看てくれていたのだ。その疲れもたたって、限界がきてしまったのだろう――サーラは唇をきつく噛んだ。
「ありゃあ! 目が覚めたのかい!」
 ふいに扉が開き、ポルトガを出航してから世話になっている舵手のダンが顔を見せた。熊のようにひげをたくわえた、気のいい中年男性は目にも止まらぬ早さで駆け寄り、ベッドにひざまずいた。
「あんたらが、テドンの村の方に行ってから全然戻ってくる気配がなくってよ、おれらが捜しに行ったら、アルトの旦那があんたを抱えたまま道の途中で倒れていたんだ。もう、焦りに焦って、すぐにあんたらを船まで連れて帰って、もう三日ぐらいは経ったんだけどよ……目が覚めたのなら、良かったよお」
 ダンはつぶらな瞳を潤ませ、服の袖で乱暴に目元をぬぐった。サーラがアルトに目をやると、ダンはすぐにアルトを抱え、隣のベッドに寝かしつけた。船乗りらしく、体格の良いダンにとっては、アルトも息子を抱き上げるのと大差ないようだ。
「アルトの旦那は、あんたより早くに目が覚めたんだが、高熱を出して寝込んでいたのさ。今は大分熱は下がってるが、余程あんたのことが心配だったんだろうな。起き上がれるようになると、あんたのそばでずっと見守っていたよ」
 貴女が好きだから――ふいにアルトの言葉が蘇り、胸のあたりに染み入るような熱が広がった。
 おそらく、少し前から気付いていた。アルトがもう、無垢なだけの少年ではないことに。
 今はそれどころではない。けれど――サーラは起き上がり、アルトに触れようとしたが、全身がひどく倦怠感に覆われており、見かねたダンに半ば無理矢理寝かしつけられた。
「旦那に、おおよその話は聞いた。あんたは、何も心配しないで寝ててくれ。世話は全部、おれたちに任せてくんな」
 涙をこらえるように口元を結ぶダンに、サーラは口の動きだけですまない、と告げると、再び眠りに落ちていった。



 それから、サーラが問題なく身動き出来るようになるまで、まるまる一週間を寝起きと食事だけで過ごした。
 ダンをはじめ、乗組員たちの手厚い看護の甲斐あり、またサーラより早く元気になったアルトの献身的な世話もあって、テドンの波止場には十日程留まっていた。
 サーラは、身体の自由がきくようになると、テドンの人々を土に還したいと皆に告げた。廃墟と化したテドンと、悲哀に満ちたサーラの有様を目の当たりにしたアルトは、乗組員たちと協力して俺がやる、と反対したが、サーラは自らの手で、村人たちを埋葬したかった。アルトは根負けし、ダンと数人の乗組員を伴い、サーラを先頭に再びテドンの村跡まで足を運ぶこととなった。  森には霜が降りており、一歩進むごとにざくざくとした感触が足の裏にまとわりつく。ぴんと張った空気が肌の先を震わせ、吐息は白く現れた。テドンの冬がどのようなものかは、嫌という程知っている。
 改めて村の跡地にやって来ると、こうして太陽の下で目の当たりにするのは耐え難かったが、どうしてもやらねばならないことがあった。それは残された自分にしか、出来ないことだ。
 記憶を頼りに農家を訪れ、納屋からすすけた農具を拝借する。スコップはまだ、かろうじて使えそうだった。
 まずは教会に向かった。義父のものと思われる亡骸はまだ、そのまま残っている。サーラは尚も突き上げる感情を押し殺し、家の前で人一人が入れる程の穴を掘り、白骨を丁寧に掘り返すと、そばに落ちていた神官帽と共に埋めた。だが、やはり肉親とも呼べる人間のなれの果ての姿に耐え切れず、胃の底からこみ上げるものを抑えられなかった。
 それでも懸命に気を保ち、崩れかけた二階に上がると、綿の飛び出たぬいぐるみや、無数の傷跡がついた思い出の品を拾い上げた。全て、この手で傷付けた大切なもの――サーラの胸に強い後悔の念が湧き上がった。
 ごめんね――サーラはそれらを胸に抱き、その時だけ、昔の自分の言葉で心から詫びた。
 思い出の品々を全て穴に収め、土を盛ると、廃材から十字架をこしらえ、その上に立てた。最後に荷物から持ってきた聖水をふりかけると、義父や両親を偲び祈りを捧げた。
 同じように、皆で他の家を回り、亡骸や遺品を出来るだけ葬っては墓を立てた。その家の故人や馴染み深い思い出をたどり、ただひたすらに冥福を祈った。
 今の自分たちに出来ることは、無残な死を遂げた村の人々を、きちんと土へ還してやることくらいだ。自分を、誰を責めても、浮かばれる人間などいない。
 せめて、あの世では安らかに――病死や事故死した者の葬儀の締めくくりとして、義父はいつもそう唱えていた。その時の義父の思いが、今では何となく分かるような気がした。
 半分ほど終えた頃には、陽が南から西へ傾き始めていた。胃の中はからっぽで、食欲はなかったが空腹だった。何か口にしなければ、などと考えていると、ふいに人の気配がして村の入口を振り返った。
「おーい、昼食の差し入れだよ」
 視界の向こうで、残っていた乗組員が保存食と水筒を手にして諸手を振っている。サーラはスコップを置くと歩み寄った。その矢先、サーラの腹が奇妙な音を立てて鳴ったため、アルトが軽く吹き出した。
「どんなにつらいことがあっても、腹は減るものだな」サーラは苦笑いを見せた。
 村の入口あたりで食事を摂ると、総出で残りの家の墓を立てていった。さすがに十人近い人数だと作業も早く、陽が暮れかける頃には全ての埋葬を終えることが出来た。
 最後に、サーラは村の奥にある牢屋へ向かった。ここにも白骨があったのだ。
 堅固な柵はひしゃげており、立ち入るのは難しくない。辺りを見回していると、床が不自然にずれているのを見つけた。
「アルト! 地下があるようだ」
 穴を掘っていたアルトがやって来る。おそるおそる階段を下りてみると、そこは小さな倉庫のようだった。
 アルトが廃材とメラでたいまつを作り、渡してくれた。雨で湿っていたのか、壁からは濃厚な土の匂いがし、サーラは鼻を覆いながら中を調べた。
「サーラ、何かあったか?」上からアルトの声がする。
「いや、特に変わったものは――」
 実際がらくたばかりだったのだが、ふいに足が固いものに当たった。たいまつをかざしてみると、頑丈な革袋が足元にあった。
 拾い上げ、固く結ばれたひもを解き覗き込むと、サーラは言葉を失った。
 それは、首と両翼で珠を掲げるように守っている、古びた竜のオブジェだった。
「まさか……」
 サーラは急いで地下から出ると、それをアルトに見せた。オブジェは相当年月を重ねたものらしく、光沢は失っていたが、斜陽の中でも確かに、深いエメラルドの色をしていた。
「これは、まさかジェフさんの言っていた……」
 アルトの言葉に、サーラはためらいがちにうなずいた。
「ああ……。おそらく、これがオーブというものだろう。だが、何故テドンに……」
 アルトはオーブをじっと見つめ、声音を落とした。
「もしかすると、バラモスはこれを狙って、テドンを襲ったのかもしれないな……」
 だが、このようなものがあるという話は聞いたことがなかった。存在自体を隠す必要がある程、これは大きな意味を持つ宝なのかもしれない。
「とにかく、これは俺たちが持っていよう。ほら、サーラ」
 アルトはオーブをサーラの手に乗せ、それごと挟むようにして自分の両手で包んだ。
 こんなに、アルトの手は大きかっただろうか――顔を上げると、凛とした瞳が自分を映しており、サーラはふいに胸が高鳴るのを感じた。
 アルトは動揺することなく、そのまま目を離さずに口を開いた。
「サーラ。俺たちが出来ることは、バラモスを倒して、もう二度とこんなことが起きないようにすることだ。
 ここに来て、今までおぼろげだった自分の意志がはっきりした。俺は必ず、バラモスを倒してみせる」
 その瞳は、これまで見てきたどんなアルトの瞳より、確固たる決意に満ちていた。
「アリアハンにいた頃の俺は、まだ未熟で何も知らなかった。だから、サーラについて来て欲しいって言った時も、それがどういうことなのか分かっていなかったのかもしれない」
 サーラは黙って、次の言葉を待った。けれど、とアルトは続けた。
「今は違う。これからもっと危険な旅になるかもしれないし、もうサーラやジャックたちにつらい思いをさせたくない。だけど、それでも俺には、サーラやジャック、モエギの力が必要なんだ。
 だから……改めて言う。バラモスを倒すまで、俺について来て欲しい」
 サーラはすぐに返事をしなかった。あの、アリアハンでちやほやされていたひよっこの少年は、もうどこにもいない。
 目の前にいるのは、どんな苦境を乗り越えてでも、平和をもたらす覚悟を決めた一人の男だ。
 サーラは余っていた手をアルトの手に重ね、深くうなずいた。
「今更何を言う。運命、なんだろう? 私たちが出会ったのは」
 すると、アルトは目を細め、顔いっぱいに笑顔を浮かべた。だがふいに視線を落とし、手に力を込めた。緊張が伝わり、サーラも口元を引き締める。
「サーラ、もし、バラモスを倒すことが出来たら、その時は……」
 そっとアルトを見ると、ひどく真面目な表情をしていた。それを緩和するように、わざとサーラは笑ってみせた。
「アルト。それは全てが終わったら、考えることだ。そう慌てるな」
 オーブを革袋にしまい、背を向けると、遠慮がちに尋ねられた。
「……俺が言ったこと、覚えているか?」
 耳が微かにしびれた。忘れるはずがない。
「……ああ」
 振り返ると、切実な眼差しが胸を焼く。だが、今は――
「……すまない。私は、まだ自分の気持ちが分からない。この数日で色々ありすぎて、整理がつかないのだ」
 それに、まだこうして普通に喋っていたい。
 がっかりしたのか、それともほっとしたのか、アルトは肩の力を抜き、苦笑した。
「……そうか。そうだよな」
 やるせないその横顔が、また少年を大人へと近付けた。



 モエギは、訓練場の中で一人地べたに座り込み、奇妙な装飾の施された鉤爪と睨み合っていた。古代のイシスの王を模したとされる装飾は相変わらず、不敵な笑みをたたえている。
 ここはダーマの中に数多く設置されている訓練場の中でも、武術を志す者たちが集まる所だった。生憎宿で仲良くなった娘たちに同種の者はおらず、モエギは筋肉隆々の大男や、痩身の修行僧に混じって鍛錬に励んでいた。
「よっ、何黙って座り込んでるんだ?」
 顔を上げると、黒髪の青年――とはいえ、顔つきはモエギ同様歳より幼く見える――が、興味深そうにこちらを覗き込んでいた。
「チュン。あんたこそ、さぼってないで技の一つでも編み出したらどう?」
 青年――チュンは有無を言わずモエギの隣に腰を下ろすと、稽古着の中をあおいだ。武闘家にしては薄っぺらい肉付きをしている。
 このチュンという青年は、訓練場に顔を出すようになってから時々居合わせるようになり、言葉を交わすようになった。歳の近い者が他にいないというのが、理由の一つだ。
「なあ、この悪趣味な爪どこで手に入れたんだ? おれなら絶対こんなの使いたくないなあ」
「あたしだって、好きで使ってる訳じゃないんだからね! これは、えーと、その……もらいものよ!」
 モエギの白々しい嘘にもチュンは疑う素振りを見せず、ふーんと答えるだけだった。この数週間の付き合いでチュンに抱いた感想は、とにかく能天気な奴、ということだった。
「そういえばさ、あんたたまに宿屋ででかい図体したおっさんと喋ってるよな。しかも結構楽しそうに」
「どこが! あんなロリコンオヤジ、さっさと別れたいくらいよ!」
「え、あのおっさん、まさかあんたの恋人……」
「そういう意味じゃない!」
 すると、チュンは先程より半オクターブ高い声でふーん、とやけに嬉しそうにつぶやいた。
 この青年は、話によるとダーマのふもとにある村の農家の三男坊だとかで、特にやることもなく軽い気持ちで武術を学ぼうと上ってきたらしい。とはいえ、ここでは熟練した武闘家に教えを請うにはそれなりの金がかかるので、最初は独学で修業を積んでいたらしいのだが、今はあろうことかモエギから学ぼうとしているのだ。
「とにかく、あんたは昨日あたしが教えた型を練習しててよね!」
 チュンはほいほい、と気の抜けるような返事をして離れていった。モエギは肩を落とし、こめかみを押さえた。
 気を取り直して、目の前の鉤爪を見つめる。モエギはこの爪に、ある確信を持っていた。
 星降る腕輪の効能があったため気付かなかったが、この爪を装備して戦っている時、どうも操られている気がする――否、操られているのだ。
 思いにもよらずカンダタに傷を負わせてしまった時、この爪は魔物どころか、人間の血までをも欲していた。あの時は人間を傷付けたくないという迷いがあったので、余計爪に支配されたのだろう。
 だが、捨てたりしたらそれこそ祟りが起こるだろう。この爪を使いこなすには、他の人間を巻き込まないように修行を積まねばならない。
 モエギは立ち上がると、爪を手にチュンの元へ歩いていった。
「チュン、ごめん。あたしこれから一人で修業する」
 チュンは型の動作のまま固まり、モエギをまじまじと見た。
「えっ? 何言ってるんだよモエギ。じゃあおれ、誰に武術習えばいいんだよ」
「他の人に教えてもらって。それか、自分で勉強して。……悪いけど」
 立ち去ろうとすると、手首をぐいと掴まれた。素人ではあるが、やはり男なのでそれなりの力があった。
「おれ、あんたと修行するから今まで楽しくやってこれたんだよ! なのに、いきなりおさらばって……そりゃないだろ!?」
 チュンの眼差しは先程とはうって変わって真剣で、ただ歳が近い者同士という親しみ以外のものをにじませていた。わずかに動揺を覚えたが、ふとジャックの顔が脳裏をよぎった。
 ジャックは今、必死にらしくもない努力を重ねている。真面目くさったことを避けて生きているあいつが、ただアルトの役に立てるようにと――
 モエギはチュンに掴まれた手首を身体ごとひねり、技をかけた。チュンは素っ頓狂な声を上げ、ものの見事に床に叩き付けられた。それを見下ろし、モエギは告げた。
「……あたし、あんたとは違うの。暇つぶしで来た訳じゃないの。だから、ごめん!」
 チュンはぽかんと口を開けている。モエギは他の者たちの視線を背に受けながら、その場を走り去った。
 廊下を駆け抜けながら心に浮かんできたのは、ジャックの憎らしい程屈託のない笑顔だった。