銀の賢者



 山道は、これまでダーマに登った先人たちのお陰か、草木が踏み倒されたまま道を作っており、丁寧に「ダーマまであと何キロ」という立て札が点々と存在していた。焚き木の痕跡も見受けられ、未だにダーマを目指す人間が多いのだと、モエギは密かに感心していた。
「ねえ、あと何日くらいかかりそう?」
 先を行くジャックに尋ねると、間を置いて返事があった。
「知るか。行ったことねーんだから」
「でも、立て札見れば分かるでしょ? さっきあと五十キロってあったから、逆算すると……」
「だーっ、めんどくせーっ! 別に何日かかろうが構わねーよ! このまま真っすぐ行きゃ着くんだから!」
 でも、とモエギも声を荒げた。疲労感と空腹感で互いに苛立ちが倍増しているのだ。
「もう食料も底を尽きかけてるのよ! こんな高山地帯でそう簡単に食べ物が見つかると思ってるの?」
 すると、ジャックはふいに足を止め、モエギを振り返った。
「……何よ」
 ジャックはしたり顔で、モエギの背後に視線を移した。
「食料なら、もらえばいいじゃねーか」
 奇妙な笑みを訝しげに見つめていると、ジャックは口に手を添え声高に叫んだ。
「いい加減、姿見せたらどうなんだよ!」
 モエギはおそるおそる背後を振り返った。辺りはしんと静まり返っていたが、ふいに茂みが揺れ、林の中から毛皮のマントを纏った大柄な男が現れた。
「けッ、寝込み襲ってやろうかと思ってたのによ」
 錆びた大斧を担ぎ、男――カンダタは苦々しく笑った。
「な……あんた、一体何のつもりよ!」
 モエギは後ずさった。先日バハラタの洞窟で対峙した時、いくら反射的にとはいえカンダタに傷を負わせた後ろめたさは、まだ鮮明に残っていた。
 カンダタはいたずらっぽく笑みを浮かべ、斧をぶら下げた。
「嬢ちゃん、そうカッカすんなって。オレと会えて嬉しいんだろ?」
「バッカじゃないの! それより、あんたもまさか……」
 モエギは血の気が失せていくのを感じた。こんな険しい山道を登ってくる理由は、ただひとつだけだ。
「テメーもダーマに用があるのかよ?」
 ジャックは至極普通に尋ねた。カンダタはご名答、と口角を引き上げた。
「ダーマの噂はかねがね耳にしていたからな。行くあてもねェし、軽い気持ちで登り始めたらよォ、おめェらが先を歩いていたのさ」
「他の仲間はどうしたのよ?」
「さァな。もう仲間じゃねェしな」
 薄情な奴だ。肩をすくめるカンダタに、モエギは指を突きつけた。
「言っとくけどね、あんたみたいな悪党がダーマに受け入れられるとでも思ってるの?」
「分からねェじゃねェか。神殿の奴らがオレの悪名を知っていたら、それはそれで嬉しいけどなァ」
 がはは、とカンダタは天を仰いで笑い声を響かせた。木の間から小鳥が何羽か飛び去っていった。どうやら、夢に破れてもさほど落ち込んではいないようだ。
「ジャック、どうするのよ! あたしこいつと一緒に行くなんて嫌! 絶対嫌!」
「大丈夫さァ、嬢ちゃん。オレァこう見えてもロマンチストでなァ、ふたりっきりじゃねェと……」
「あー聞きたくないっ!」
 両耳をふさいで目を閉じると、カンダタの哄笑が遠巻きに聞こえた。相変わらず下品な男だ。
 すると、ジャックが目の前を横切る気配がし、モエギは目を開けた。
「カンダタ。テメーホントガキだな。あいつをからかうのがそんなに楽しいか?」
「へッ、可愛いじゃねェか。オレみてェに穢れてなくってよ」
 二人が勝手に話し始めたので、モエギは大股でジャックに歩み寄り手首を掴んだ。
「とにかく! あたしたちはあんたに構ってる暇はないの! 行くわよジャック!」
 踵を返すと、奇妙な音が腹から鳴った。
「……嬢ちゃん」
「……何よ」
 モエギが赤面しながら振り向くと、カンダタは目の前に干し肉をぶら下げていた。満面の笑みでカンダタは言う。
「食えや」
 モエギは黙り込んだ後、不精不精干し肉を受け取った。
 カンダタ盗賊団お手製の干し肉は、密かにモエギの好物となっていた。



 険しい山道を登り切ると、広大な高地には古めかしい神殿がそびえていた。空の近さと神殿の威厳あるたたずまいに、モエギはしばし長旅の疲れも忘れてぼうっと突っ立っていた。
「おい、何やってんだよ。さっさと宿取って休むぞ」
 ジャックはいつもの旅で目的地に着いた時のような口調だった。カンダタも同意する。
「オレも早ェとこ休みてェな。嬢ちゃん、ボーっとしてると置いてっちまうぞ」
 男二人が歩き始めたので、モエギは慌てて後を追った。
 鋼鉄製の門は二階分の建物ほどの高さがある。所々黒く朽ちており、それが神殿の並々ならぬ歴史を物語っていた。三人並んで扉を眺めていると、門番らしき華美な法衣を纏った初老の男性が、ジャックの姿を見て目の色を変えた。
「お……おぬし、その髪の色は……!」
「地毛だけど」
 ごく当たり前のようにジャックが答えると、男性は慌ただしく中へ飛び込んでいった。
「何だァ? あのジイさんは。銀色の髪がそんなに珍しいってかよ」
 カンダタには、まだジャックの出生の秘密を話していない。ジャックはいつ教えるのだろう。ここへ来たからには、もう黙ってなどいられないはずだ。
「とりあえず、中に入ろうぜ」
 ジャックは言うなり門を開いた。重々しい音を立てて、門が左右に割れる。足を踏み入れると、モエギは思わず感嘆のため息をついた。
 広々とした神殿内は銀ねず色で統一されており、どこまでも高い天井には宗教画が描かれてある。吹き抜けとなった二階も、一階の大広間も、人里離れた高地とは思えないほど多くの人々が行き交っていた。
 大体の人間はモエギたちに特に興味を示す様子はなかったが、生成色のローブに深緑の法衣を身に付けた者の何人かはジャックに注目しているようだった。おそらくここの神官なのだろう。
「おい、こっちを見てる奴がいるぜ。しかもジャックの野郎を……オレの魅力は分かんねェってか?」
「そうじゃないのよ、ジャックは……」
「おう、嬢ちゃんはオレの魅力を分かってくれるんだなァ」
「そうでもなくって!」
 ジャックに振ろうとすると、その姿は既に若い女性神官の元へと向かっていた。
「あのさあ、ここで一番偉い人に会いたいんだけど。でも君が一番偉い人だったら一番嬉しいかなーって」
「あいつ……」
 この聖地まで来ても尚、軟派な言葉を投げかけるジャックに憤りを感じる。だが神官はそんなジャックに取り合うでもなく、ただ信じられないものでも目にしたかのように口を開閉している。
「あれ? オレがあまりにもいい男だったからびっくりしちゃった? ごめんねー、これ元からなのよ」
 一発この高地から突き落としてやろうかと思ったが、神官は口に手を当ててジャックの髪を指差した。
「そ……その髪も、元からなんですか?」声が震えていた。
 さすがにジャックも笑みを消した。周囲の人間の注目も集まり始めている。
「おい、そんなにあいつがイイ男に見えるのかァ? 嬢ちゃん」
「あんた本気でボケてるの!? いい、ジャックはここの大神官の孫なの! それでお爺さんに会いに来たのよ!」
 辺りが瞬時に静まり返った。ジャックがこちらを見てバカ、と口を動かした。
「ヨシュア様の……孫?」
「なんてこった、それじゃああのソラリス様の……」
 驚愕が一瞬にして膨れ上がり、神殿内は騒然となった。モエギは顔を覆ってしゃがみ込んだ。自分の声が人一倍響くことを、すっかり忘れていたのだ。
 ジャックが近付いてくる気配がした。モエギの足元で立ち止まり、首根っこを掴まれると怒声を浴びせられた。
「この、バカッ! お前、人がせっかくいつも通りに話聞こうとしてんのによ!」
「だって……!」
 元凶を睨むと、カンダタはジャックに一点を定め、怒りの眼差しを見せていた。
「おめェ……何で黙ってたんだよ」
 その眼は、まるで信用していた仲間に裏切られたとでも語るかのように揺らいでいた。
「皆さん、お静かに! お静かにお願いします!」
 喧騒を破るかのように、冷静な女性の声が響いた。人の波を縫うようにして現れたその女性は、他の神官より濃い緑の法衣だった。髪は柔らかい小麦色をしている。
「……あなたが、ジャックね?」
 女性は近くで見るとそれなりの年齢を重ねているようだった。目元が少したるんでいる。ジャックはモエギを放すと、女性に向き直った。
「そうだけど、おばさん、誰?」
「貴方、ソフィア様になんて失礼な……!」
 先ほどジャックに声をかけられた神官が言い放つのを、ソフィアと呼ばれた女性が制止した。
「……そうね。知らないわよね。私はソフィア。このダーマ神殿の神官長で、あなたのお母さん……ソラリスの妹よ」
「……お袋の?」
 ジャックが真顔になった。ソフィアはうなずき、ジャックとモエギについて来るように言った。だがカンダタは一歩も動こうとせず、じっとジャックをねめつけていた。



 モエギたちが通されたのは、小作りな客室らしき部屋だった。窓からの日差しに、大理石で造られたテーブルが輝きを放っている。
「まさか、叔母さんがいたなんて……ね、ジャック」
 ソフィアはモエギとジャックを通すと、部屋を一旦離れていった。ジャックは黙って部屋を見渡していた。
 間もなくして、ソフィアが湯気の立った椀を盆に乗せて戻って来た。背もたれのない直方体の椅子に座ると、モエギとジャックは出された椀をすすった。
「おいしい……しょうが湯?」
「そうよ。温まるでしょう」
 ソフィアも椅子に座り、同じものを一口飲み下した。ジャックはそれを待ってから口を開いた。
「ソフィア……さん」
「いやね、おばさんでいいのよ。本当に叔母さんなんだから」
 ころころと笑うソフィアは、痩身の人間が多いジャック一家の親戚とは思えない程ふっくらとしており、とても神官長という役職には思えなかった。だが親戚の叔母、という立場がぴったりの感じの良い女性だった。
「じゃあ……おばさんは、オレのこと、知ってたんだな」
 隣に座るジャックはいつもとはうって変わって、緊張を隠しきれない様子だ。ソフィアはそれを解きほぐすように笑みを向けた。
「知ってるに決まっているでしょう。ダーマからあなたたちのところに何回か使者が来なかったかしら。姉さんはかたくなに、ダーマに戻るのを拒んでいたらしいけれど……」
「それに、オレはガキの頃髪を黒く染めさせられていた。なのによく分かったな」
「それはそうよ。何故なら、銀の髪を持つ人間はダーマの血筋にしか生まれないんだもの」
 そうかい、とジャックは口元をほころばせた。
「それで、姉さんは元気?」
 椀に口をつけようとしたジャックの手が、止まった。黙ったままなのでモエギが代わりに話すと、甥との再会の喜びに満ちていたソフィアの顔が、みるみるうちにしぼんでいくのが伝わった。おそらく、知らなかったのだろう。
「……そう。姉さん、私より先に、逝ってしまうなんて……」
 ごめんなさいね、と小さくつぶやくと、ソフィアは嗚咽をこらえながら泣き始めた。ジャックは沈んだ瞳でテーブルを見つめていた。
 ジャックの母・ソラリスは病死だったという。それをソフィアが知らなかったということは、ダーマからの使者はソラリスの生前にしか訪れていなかったのだろう。ダーマの人間は、ソラリスが新たに手に入れたものを奪えなかったのだ。
 ソラリスは大神官になるべく厳しい修業を積んでいたという。ソラリスの亡き今、次の大神官になるのは誰なのだろう。
 まさか、ジャックが――そう思った時、部屋の扉が勢い良く開かれ、ブルーグレーの髪をした少女が飛び込んできてテーブルに両手を叩きつけた。
「お母様! あいつがここに現れたって本当なの!?」
「……クラリス」
 クラリスと呼ばれた少女はジャックに見当をつけると、歩み寄りいきなりその頬を平手で打った。
「ちょっと、あんた何するのよ!」
 モエギが立ち上がると、クラリスという少女は眉間に深いしわを刻んで睨み返してきた。緋色の瞳には憎悪すら感じられ、モエギは身じろぎした。
「……ひっぱたいてやろうと思っていたのよ。お母様とお祖父様を、そして大神官への道を捨ててこのダーマを離れた、罪深い女の息子を!」
「クラリス!」
 今まであれほど温和だったソフィアが放ったとは思えない、強い叱責の声だった。ソフィアは顔を濡らしたままクラリスの頬をぶった。クラリスが反論するより早く、ソフィアは声を上げた。
「なんて罰当たりな! 姉さんは……あなたの伯母様は、もうずっと前に亡くなっているのよ!」
 クラリスはぶたれた頬を押さえ、か細い声で「……え?」とつぶやいた。ソフィアの瞳に涙が盛り上がった。
 クラリスはしばらく茫然としていたが、やがて唇を噛んで風のように去っていった。
「ちょっと、ジャックに謝りなさいよ!」
 ジャックは憮然とした表情で頬をさすっていた。ソフィアは目尻をぬぐうと、長く息を吐いた。
「……ごめんなさいね。今のは私の娘で、クラリスと言うの。一応、賢者の卵なのだけど……あの通りきかん坊で」
 何故、この柔和な女性からあのような娘が生まれたのだろう。モエギが不思議に思っていると、ジャックがぽつりと言った。
「あいつ……お袋に似てる」
「えっ、本当に?」
 ジャックは渋々うなずいた。ソフィアは困ったように首を傾げた。
「……あなたもそう思うのね。そう、あの子は姉さんそっくり……。私が姉さんと似た名前を付けたのもいけなかったのかもしれないけど、あの子も自分が姉さんの代わりだと思っているふしがあるわ」
「それじゃあ、もしかして……」
「ええ。あの子が次期大神官なの。信じられないでしょうけど」
 モエギは愕然とした。あんな無作法な少女が、ダーマの未来を担うだなんて――
 モエギの言いたいことが分かったのか、ソフィアは眉を八の字に寄せた。
「でも、どうか許してやってちょうだいね。あの子は姉さんと違って、何もかも捨てて生きていくことなんて出来ないから……ひとりで全て背負おうとしているの」
「けど……あの子、ジャックのいとこってことになりますよね」
 ソフィアはうなずき、クラリスがまだ十六歳であることを教えてくれた。アルトと同い年だ。
 黙っていたジャックが、ふいに自嘲的な笑みを見せた。
「そっか。オレへのしわ寄せが、全部あいつに行っちまったんだな……」
 その時、扉がゆっくり開く音がした。またあの娘だろうか。モエギが警戒すると、扉の向こうから長身の男性が姿を現した。
 歳は六十を過ぎているように見えたが、眼光は淀みのない鋭さを誇っており、白髪かと思えた長髪とひげは絹糸のような銀髪だった。身体には純白のローブと、金の文様が美しい法衣を纏っている。
 ソフィアが立ち上がり目配せしたので、モエギは慌てて頭を下げた。だが、ジャックは立ち上がっただけで頭を下げようとしなかった。
 先ほどの騒ぎの中で、ちらりと聞こえた名前――ヨシュア。おそらく、この老人がダーマの大神官であり、ジャックの祖父なのだ。
 ヨシュアは厳かな物腰で椅子につくと、品定めするようにジャックを見た。あの目で見つめられた、身体中の筋肉が縮こまる思いだろう。
 だが、ジャックは挑むような目付きで、ヨシュアの視線を受け止めた。
「あんたが、オレのジイさんか。本当に銀髪なのな」
 ソフィアがたしなめたが、ジャックはそのままヨシュアを見つめていた。ヨシュアのひげが微かに動いた。
「……成程。ソラリスとよく似ておる。儂を何者とも思わない、その目付き……あれも同じ瞳をしていた」
 ジャックは褒め言葉と受け取ったのか、微笑した。
「あんたがオレを孫と認めてくれたんなら話は早いな。オレは、賢者になるためにこのべらぼうに高い高地まで来た。なあ、オレが本当に『銀の賢者』なら、賢者にしてくれよ」
 ヨシュアの眉が神経質な動きを見せた。ソフィアはひやひやしながらジャックとヨシュアを交互に見ている。モエギもまるで喧嘩腰なジャックの口調に内心落ち着かなかった。
「……賢者になった暁には、どうするのだ」
「仲間とバラモスを倒す」ジャックは間髪入れず答えた。
 それまでわずかにしか動かなかったヨシュアの表情が、初めて大きく動いた。ジャックの発言には、ソフィアも驚いたようだった。
「ジャック……あなた、それでダーマに来たのね?」
「ああ。おばさん、オレがお袋の代わりに戻って家族で仲良しこよし暮らすとでも思ってた? オレをなめてもらっちゃ困るね」
 ソフィアは何も返さなかった。図星だったのかもしれない。ジャックは得意げに胸を張った。
「オレには、アルト君っていうスペシャルなダチがいるのよ。そいつのためなら、オレは命を賭けてもいいね」
「アルト……かの英雄、オルテガの息子か」
 ヨシュアがつぶやくと、ソフィアはますます目を丸くした。ようやくいつもの調子が出てきたジャックに、モエギは知らずのうちに安堵していた。
「そういうこと。な、頼むよジイさん。オレを男にしてくれよ」
 すると、ヨシュアは最初の表情に戻り、告げた。
「……ならば、考えてやっても良い。だが、まず儂と、ソフィア……そしてクラリスに、全てを話せ。話はそれからだ」
「さっすが。話が分かるね」
 ジャックがにっと笑うと、すかさずヨシュアが睨んだ。ジャックは肩をすくめ、やってられないといった様子でモエギに笑いかけた。
 ソフィアはクラリスを呼びに部屋を出ていった。モエギは銀髪の二人を見比べ、居心地悪そうに首を縮めた。この世でもまたとない希少価値を持つ二人が揃い、自分の場違いさを感じたのだ。
「モエギ、お前は神殿でも歩いてろ。長い話になるから」
 モエギの心境を感じ取ったようなジャックの言葉に、わずかに緊張が解けた。モエギは立ち上がり、ジャックに弱々しく笑いかけた。
「……うん。ちゃんと戻って来なさいよ」
 ジャックはうなずき、手を払うようにして振った。モエギはヨシュアに出来る限り丁寧な会釈をして、部屋を後にした。
 廊下を抜け、大広間に出た所で、モエギは大きく深呼吸した。
 何と、物々しい環境なのだろう。いつもふざけてばかりのジャックが、あの重圧に耐えられるのだろうか? ソフィアはまだ人間味のある人物だが、ヨシュアの威圧感、そしてクラリスが滲ませた、異常なまでの嫌悪感――
「モエギさん、ジャックと一緒じゃなくていいの?」
 唐突に声がしたかと思うと、ソフィアとクラリスがこちらに向かってきた。クラリスは視線が合うと、ふいとそっぽを向いた。苛立ちを覚えたが、それをこらえソフィアに笑顔を向ける。
「いいんです。あいつ――ジャックが気を利かせてくれたから」
「そう。ここは何もないところだけど、ゆっくりしてね」
 ソフィアもにっこり笑い、奥へと去っていった。だが、クラリスはその場に留まり、モエギを見つめぼそりとつぶやいた。
「……さっきはごめんなさい」
 上品な顔に似合わず、ハスキーな声だった。モエギは少しだけ警戒心を緩めた。
「……謝るなら、ジャックに言ってよ」
 クラリスはうなずいたような、うなずいていないような曖昧な動きをして、ソフィアの後を追っていった。
 あの少女とよく似ているという、ソラリスはどんな女性だったのだろうか。モエギはぼんやりと物思いにふけりながら、大広間を横切っていった。



 神殿内部はいくつかの場所に区切られていた。一階の大広間には、大神官からの啓示を乞う祭壇と待合所、二階は職業適性を診断出来る場所や各種職業の講習室・訓練場があった。
 モエギは入れそうな場所を全てあたってみたが、カンダタの姿はどこにもなかった。
 他に入れそうな場所はないかと神官に尋ねると、神殿の隣に大きな宿があると教えられたので、モエギは早速向かった。
 宿は一階が受付と酒場になっているようだが、人はまばらだった。モエギはまず部屋の確保をしようと女将を呼んだ。
「一泊四ゴールド。その代わりうちは大部屋なんだよ。まあ、さすがに男と女は分けてるけどねえ」
 恰幅の良い女将は豪快に笑った。このような高地にあり、また修行をするため長期滞在する者が多いので、格安で運営しているのだという。
 話もそこそこに、モエギは受付の向かい側にある酒場へと足を運んだ。程なくして、テーブル席の片隅に大柄なシルエットを見つけた。
「昼間から飲んでるんじゃないわよ」
 正面に立つと、カンダタはモエギを一瞥し、ぐいと猪口をあおった。ジャックといい、周囲の男は何故嫌なことがあると酒を飲むのだろう。モエギは楽しい時しか飲まない。
「嬢ちゃんは黙ってろ」
「あんた、ずっとここにいたの?」
 カンダタはいや、と首を振った。
「最初はあのだだっ広い神殿をぶらぶらと歩いてたんだよ。しかし、神官ってのもいいなァ。オレァきっと穢れのない女が好きなんだな。そうだ、いいダジャレが出来たぞ、神官を視……」
「最低。あんたってホンット最低」
 モエギは荒々しく椅子を引いて腰かけた。カンダタはにやにやしていたが、ゆっくりと笑みを消した。
「……あんたにジャックのことを黙っていたのは謝るわ。けど、あいつもきっと、言い出せなかったのよ。だから怒らないでやって」
「嬢ちゃん、知らねェ間に随分あいつの肩持つようになったじゃねェか」
「あんたは事情を知らないから怒ってるんでしょ? もういい、あたしが全部話すから!」
 モエギはアッサラームで怒った、デスミラージュの一件を語って聞かせた。バラモスの配下ロイドと、ジャックの父マルクスからもたらされた話は、カンダタの酔いをさますのに十分だった。
「……ジャックは、つい最近まで何も知らなかったの。なのに、今はあいつなりに、一生懸命自分の運命を受け入れようとしてる……。あいつは、決して好きで大神官の孫に生まれた訳じゃないんだからね」
 カンダタは憮然とした表情で、短く刈られた髪を掻くと深いため息をついた。
「……そりゃご苦労なこった。だが、オレにァ関係ねェ。あいつが賢者とやらになるってかよ? 笑っちまうぜ」
 へっ、と吐き捨てるように笑い、カンダタは暇を持て余している店員に猪口と徳利を下げるよう言いつけた。
「しかし、嬢ちゃんも言うようになったな。初めて会った時ァ、全力でジャックの野郎とデキてねェって否定してたのによ」
 モエギは当時のことを振り返り、口ごもった。
「あれはまだ知り合ってから日も浅かったからよ。今は……あいつにも何かと借り作ってるし」
 カンダタは含んだ笑みを浮かべていたが、それ以上は何も言わなかった。
 カンダタは頑なに同行を拒んだので、モエギは一人宿を離れ、一旦神殿に戻った。大広間を見渡すと、奥からこちらに向かって歩いてくる銀髪の男を目に捉えた。
「ジャック、話はどうだったの?」
 駆け寄ると、ジャックは首を左右に傾けたり回したりしながら答えた。
「疲れた。あのジジイ、何を言っても表情一つ変えやしねえ。岩にでも話してる気分だったぜ」
「それで、賢者にはなれそうなの?」
 ジャックは面倒臭そうに後頭部を掻いた。
「ああ……。明日から、ジジイに修行つけてもらうことになった。あとクラリスも一緒」
「大神官直々に? それじゃあ神殿はどうなるのよ」
「それはノープロブレム。大神官補佐ってのがいるんだと。ほら、門のところにいた派手なおっさん」
 ああ、とモエギはつぶやいたが、半分はうわの空だった。明日から、という言葉に、何故か心細くなったのだ。それを見かねてか、ジャックはモエギの頭に軽く手を乗せた。
「なーにしかめっ面してんだよ。修行っつっても、神殿の裏の山に行くだけだっての。あ、でも飯の時もジジイたちと一緒だとよ」
「そ、そうなんだ……」
 弱気な声が出てしまい、モエギは慌てて胸を張った。
「べっ、別に寂しい訳じゃないからね! あんたがいないと静かになってせいせいするくらいだし!」
「へいへい、そうですかい」
 ジャックはあさっての方向を向いて口をへの字に曲げた。モエギも視線をそらし、口をすぼめた。
 何故か、今まで味わったことのない感情を覚えていた。自分とジャックの間が霧に覆われたような、疎外感を感じていた。
 これ以上沈黙が続くのは嫌だったので、モエギは言葉を絞り出した。
「……具体的に、賢者になるにはどうすればいいのよ」
 ジャックもひょいと片眉を上げて、口を開いた。
「ああ……何でも、この神殿の北にある、ガルナの塔って所に行って、何かするんだってよ」
「何かって何よ」
「オレも知らねえ」
 ぞんざいな口調に、この男は本当に賢者になどなれるのだろうか、と首を傾げずにはいられなかったが、ジャックはのんきな口調で言った。
「まあ、そんな訳だからしばらくは顔合わす機会も少なくなるな。お前はお前で何とかやってくれや」
「あんた、寝る時はどこで寝るのよ」
「オレは客室を自分の部屋にしていいってよ。安心しろ、お前も宿代はここにいる間免除してもらうように言っておいたし。カンダタは……自分で何とかするだろ」
 モエギは思わず歓声を上げた。そういう面ではやはりぬかりのない男だ。
「あと、聞きたかったんだけど……お前、何でオレについて来たの?」
 ジャックは訝しげに尋ねてきた。モエギは背筋を伸ばし、きっぱりと告げた。
「決まってるでしょ。あたしも修行するの」
 バハラタでカンダタと対峙した時、思いがけずカンダタを傷つけたことで戦意を失ってしまった自分を、モエギは深く悔いていた。アルトへの未熟な恋心やサーラへの劣等感を抱いていたことも、全ては己の精神が至らないことに理由すると考えていた。
 武道は肉体と精神の両方が均等に保たれてこそ、力を発揮出来る。ダーマの清い空気に触れ、己をもっと高めたいと、密かに思っていたのだ。
「それに、あたしはバハラタ出身だから、ずっとダーマで修行するのが夢だったの!」
「お前、それでサーラさんを放って……」
「失礼ね、放ってなんかいないわよ! サーラは、アルト君がいれば……大丈夫よ」
 そう、サーラを誰よりも一途に想うアルトがついていれば、サーラはたとえ深く傷付いたとしても、立ち直ることが出来るはずだ。
 モエギは遥か遠くに発っていった親友を思い、胸を詰まらせた。



 目覚めた瞬間、ここはどこだろう、とひび割れた天井をぼんやり見つめた。
 丹念に木彫りの模様が施されたベッドから上半身を起こし、ジャックは早朝の冷え込みに自分を抱きすくめた。冷えた空気を感じると共に頭が冴え渡り、昨日の出来事が脳裏に蘇ってきた。
 祖父・ヨシュアとの対話は、ひどく苦痛なものだった。話が話なので冗談もろくに挟むことが出来ず、わずかな冗談にすら老人は眉一つ動かさなかった。
 ヨシュアたちには様々なことを話した。母の思い出、父の仕事、苦汁をなめた貧困生活、それぞれに才を持った妹たちのこと――そして、己の犯してきた罪。同情したのは叔母のソフィアだけで、クラリスは沈痛な面持ちを浮かべていたものの、口を開くことはなかった。
 生活は決して裕福なものではなかった。だが、ジャックの記憶にあったのは、いつも気丈に立ち振る舞う母の姿だった。辛くとも、決して弱音を吐かず、ただ前を見つめて笑っていた母――ソラリス。この神殿と家族を捨て、新たに得た家族がどれほどかけがえのないものだったのかは、その笑顔が証明していた。
 そんな母を見てきたジャックなので、己の生い立ちを悲観したことはない。涙ぐむソフィアをなだめつつも、過剰な反応だと心の中で苦笑した。
 モエギやカンダタ、そしてアルトとサーラが早くも恋しくなり、ジャックは口元を自嘲気味に歪ませた。
 手早く身支度を整え、大神官の親族専用の食卓へと向かうため部屋を出る。廊下は狭く、長身のジャックからしてみると天井も低く感じた。
 歩き始めた直後、手前の扉が開いたかと思うと、ブルーグレーの髪がひらめきクラリスが姿を現した。
「よう、お前も朝食か?」
 クラリスはジャックを一瞥すると、視線をそらし颯爽と足を踏み出した。
「おい、無視かよ。クラリス」
「気安く呼ばないで!」
 振り向きざまに睨みつけられ、ジャックは反射的に仰け反った。声も、怒った表情も、母と似ていたのだ。
 思えば、母も嘆き悲しむことはなくとも、ジャックたちを叱ることはよくあった。その時の毅然とした面構えが、束の間クラリスとだぶった。
「……どうしてそう、怒るかね。お前の母さんはオレの生い立ちに終始涙を浮かべていたっていうのによ」
 クラリスはじっとジャックの肩の向こうを見つめ、つぶやいた。
「お母様は、泣き虫なのよ。よくあれで神官長が務まるわ」
 クラリスの物言いにむっとし、ジャックは間合いを詰め少女の狭い額を弾いてやった。
「痛っ! 何するのよ!」
「お前な、母親のこと悪く言うのは良くねーぞ」
 色白な頬をみるみるうちに紅潮させ、クラリスは涙目で憤然とジャックを睨み上げた。
「……この、無礼者!」
 そして早足で奥の扉へ消えていった。ジャックはふるふると首を振り、ため息をついた。
「無礼者はどっちだよ。昨日のこと覚えてるんだろうな……」
 頬に手をやり、仕方なく後を追った。奥の部屋に入ると、食卓には既にヨシュアとソフィアがついており、クラリスはソフィアの隣で憮然としていた。祖母と叔父は既に他界しているのだという。
 残りの空いている席に座ろうとすると、ヨシュアの髭が神経質な動きを見せた。
「……やり直せ」
 言葉の意味が分からず、ジャックは聞こえなかった振りをして座った。クラリスの刺すような視線が痛い。
「やり直せ、と言っておる」
 ヨシュアが語尾を強めた。叔母に視線を移すと、扉の前で挨拶をするようにと小声で指示され、ジャックはのろのろと扉の前に立ち、おはようございますと軽く頭を下げた。
「……やり直せ」
 今度は幻聴かと思った。が、ヨシュアは岩石のような顔でジャックをじっと睨んでいる。
 これ以上何か言われてはたまらない。ジャックは城仕えの兵士を思い浮かべ、直立不動に姿勢を正し「おはようございます!」と深く一礼した。ヨシュアは何も言わなくなったが、クラリスの訝しげな視線が残った。
 朝食は静かなものだった。献立は十数種類の漢方や薬草を混ぜた薬膳がゆ、みょうがの漬物、そして昨日も出されたしょうが湯(全てソフィアが説明してくれた)。このような質素な食事で、どうして今日の活力が湧いてくるものかと疑念を抱いたが、食べ終える頃には不思議と身体が温まり、眠気も完全に取れていた。
「お父様、もう山に向かわれるのですか?」
 ヨシュアは布で口元を拭うと、うむとソフィアにうなずいた。
「ジャック、クラリス、準備を整え神殿の裏口に来るがよい。話はそれからだ」
 クラリスは引き締まった声で返事をし、素早くこちらに目配せした。ジャックも素直に返事をする。
 ヨシュアとクラリスが出ていくと、ソフィアは申し訳なさそうにジャックを見つめた。
「ジャック、最初のうちは慣れないかもしれないけど……賢者になるためにはまず、正しい礼儀作法を身に付けないといけないのよ。分かってちょうだいね」
 ジャックはしばし黙った後、ソフィアに尋ねた。
「なあ、おばさん。賢者ってのは何なワケ? ジイさんみたいなガンコジジイみたいなの? それとも、おばさんの娘みたいにつんけんしてるの?」
「ジャック……それ以上は口を慎みなさい。あなたはまだ、何も知らないのよ。お父様や、クラリスが姉さんの息子であるあなたに、どんな思いを抱いているのか……」
 そうかい、と言葉を残し、ジャックは部屋を後にした。
 感情の欠落した、厳格な父――これでは、母のあのきかん坊は収まるはずはない。それに耐えているクラリスはまだ、偉いのかもしれない。
 迷いそうになりながら神殿の裏口に辿り着くと、ジャックは外の景色にしばし圧倒された。
 辺りは、一面の荒涼とした山々だった。まるで巨人が積み木で遊んだように起伏が激しく、とても人が足を踏み入れられる場所とは思えなかった。
 既に待ちくたびれていたヨシュアとクラリスは、茫然とするジャックに容赦なく厳しい眼差しを向けた。
「ジャックよ。本日から、儂が直々に賢者となるための修行を執り行う。また、この修行にはクラリスも参加してもらう。よいな」
「はい」クラリスはこくりとうなずいた。さすがに祖父の前では素直らしい。
「よいか、ジャック。賢者とはそう簡単になれるものではない。ましてや、お前が銀の賢者ならば尚更のこと。心してかかることだな」
 ジャックは腰に手を当て、挑むようにヨシュアを見据えた。
「分かったよ。ただな、ジイさん。オレぁあんたとは違う。そこのところヨロシク頼むぜ?」
 ヨシュアはくぼんだ瞳でジャックの眼差しを受け止め、「良かろう」とだけ答えた。ジャックはクラリスに向き直り、手を差し出した。
「というワケで、よろしくな。クラリス」
 クラリスは渋々と、ジャックの手を握り返した。まだ年端もいかない少女の、華奢な手だった。
「いい? これはわたしの修行でもあるの。絶対に、あなたのためじゃないから」
「……そこまで言い切るかよ」
 ジャックたちの間を、凍てついた木枯らしがすり抜けていった。



 ついて来い、と言われた時は、一体どこを歩けば良いのかと耳を疑ったが、ヨシュアとクラリスは平然とした表情で細い傾斜を下り始めた。ジャックもためらいつつ、それに続く。
 このようなへんぴな場所で、どのような仕打ち――もとい、修行が待ち受けているのだろう。きっとあの老人のことだから、相当に厳しい修業だと考えて良いだろう。
 今まで数々の死線をかいくぐり、死の淵をさまよったこともある。よほどのことでなければ乗り越えられるだろう、とジャックは心の中で言い聞かせた。
 足元を確かめながら下っていくと、どこからか勢い良く水の流れる音が聞こえてきた。前方を見やると、山の中腹にある裂け目から谷底にかけて、滝が流れている。
「何ぼうっとしているのよ。あの滝底まで行くのよ」
 クラリスの苛立った声が下方から届く。ヨシュアに至っては、いつの間にか滝底でジャックたちを待っている。
「げっ、何だあのジジイは……瞬間移動でも使ったのか?」
 ぶつぶつと足を進めようとすると、ふいに土の緩んだ所を踏み、そこが一気に崩れた。
 ジャックはわめき散らしながら猛スピードで傾斜を下り、その先でクラリスが何事かとこちらを見上げ、目を見開いた。
「ちょっと、そんなスピードで来ないで!」
 どけ、と言う前にクラリスと衝突し、派手な音を立ててジャックは倒れ込んだ。痛みに顔をしかめながら身を起こすと、クラリスを組み敷いており、すぐ間近に顔があった。
「ぶ、無礼者っ! 早く、早くどけなさいよっ!」
 クラリスは顔を真っ赤にして怒鳴った。いとこ相手、しかもヨシュアの手前でふざける訳にもいかないので、ジャックは素直に起き上がった。
「ほら、立てるか?」
 手を差し伸べたが、クラリスは赤面したまま一人で立った。ジャックと目を合わせようとしない。
 こいつは――ジャックがわずかに口元を緩めると、ヨシュアが歩み寄ってきた。
「何をしておる、このたわけが。さて、修行を始めるぞ」
「オレ、具体的に何するか知らねえんだけど。教えてクラリス」
「何でわたしに聞くのよ!」
 髪を振り乱すクラリスを諫め、ヨシュアは手に持った杖でジャックを指した。
「まず、お前の魔力を試させてもらう。メラの詠唱は知っておるな?」
 もちろんよ、とジャックは胸を叩き、詠唱を始めた。
「空気を焦がす生まれし炎! メラ!」
 右手を振りかざすが、何の変化も起こらない。繰り返してみても、煙一つ出なかった。クラリスは唖然とジャックを見つめた。
「信じられない……あなた、それで本当に賢者になれると思っているの?」
「知るか! オレだってなあ、必死で暗記したんだぞ! だけど成功したのはあの一度きり……どうすりゃ使えるのか分かんねーから、ここに来たんだろうが!」
 ヨシュアは深々とため息をついた。
「ジャックよ。お前はどうやら、本当に何も知らないらしい……。無理もない、ソラリスは何も教えなかったのだからな」
「じゃあジイさん、あんたが教えてくれよ」
 良かろう、とヨシュアはうなずき、ジャックとクラリスは傍らの岩にそれぞれ腰かけた。
「最初に、魔法を扱う者には二種類存在する。クラリス、説明してやれ」
 クラリスははい、とうなずき、書物の記述を暗唱するかのようにすらすらと語り始めた。
「魔法はまず、少しでも魔力を持っていれば使える。最初は皆、それを魔法として発動するための媒体に、呪文の詠唱をするの。それで、その詠唱を図式として現したものがあり、それを構成と言う。
 熟練した者は頭の中で構成を思い描き、魔法……メラならメラ、と唱えるだけで、魔法を発動することが出来るのよ」
「じゃあ、オレが詠唱しても魔法が発動しないのは、魔力がないからか?」
 ヨシュアは否、とつぶやき、クラリスに代わり話した。
「お前は確か、アッサラームにて瀕死の状態でベホイミの詠唱をし、それ以上の効果を得たと話したな。もしお前に全く魔力がなければ、そのようなことは有り得ない」
「けどよ! オレが詠唱を成功させたのはあれっきりなんだぜ? 一体どういうことなんだよ!」
 ジャックは、自分が珍しくむきになっているのを感じていた。同じ母の血を分け合った妹たちが詠唱を難なく成功させるのに対し、自分はどうしてこれほどまでに上手くいかないのか、賢者の力に目覚めたばかりの頃苛立ってばかりだったのだ。
 クラリスは困ったようにジャックとヨシュアを見比べている。ヨシュアは髭を撫でつけながら答えた。
「では、教えよう。それは、銀の賢者が構成を頭で描くことでしか、魔法を発動出来ないからだ」
 証明してみせよう、とヨシュアは聞いたことのない詠唱を始めた。
「万物を動かす不可思議の秘術……パルプンテ!」
「お祖父様! その魔法は……!」
 クラリスが悲鳴を上げるが、先ほどのジャックと同じで何も起こる気配はない。ヨシュアはふっ、と微かに笑みを漏らした。
「まあ、この魔法は実際に発動しても、何も起こらぬ時がある」
「それじゃ意味ねーじゃんかよっ!」
 ジャックは思わず突っ込みを入れたが、内心この老人が冗談を口にしたことに驚いていた。だが、当のヨシュアは冗談のつもりはないのだろう、真顔に戻り続けた。
「ならば、銀の賢者であるはずのお前が何故、詠唱により魔法を発動させたのかというと、それはおそらく、生命力と共に魔力が弱まり、詠唱でないと発動が困難だったのであろう。あれは、興味深い話であった」
 近いうちに神官に調べさせよう、とヨシュアは独り言をつぶやいた。
「っていうことは、オレが覚えた呪文は全部パー……ってこと?」
 ヨシュアは何のためらいもなくうなずいた。
「そういうことだ」
「イヤーッ!」
 ジャックは頭を抱えて天に叫んだ。クラリスが両耳に指を入れ、迷惑そうに顔をしかめる。
「だがジャックよ、案ずるでない。呪文と構成はそれぞれ似通っておるのだ。呪文を知っておれば、構成を覚える時にも役に立つであろう」
 ジャックは恨めしげにヨシュアへと視線を戻した。
「じゃあ、構成とやらを覚えねーとオレは使いモノにならねえってこった」
 すると、ヨシュアは何を言っておる、と口を尖らせた。
「構成だけ学べばいいと思うな。お前には、午前は基礎体力作り、午後に構成の勉強を行ってもらう。まずはクラリスについて谷を一周走ってこい」
「……マジかよ」
 嫌々立ち上がると、クラリスはその前に立ち、ジャックを睨みつけた。
「いい、しっかりわたしについて来ること。そうでないと、谷で迷子になっても知らないわよ」
 言うなり、クラリスは長い四肢を伸ばし駆け出した。ジャックは肩をすくめ、簡単に準備運動を済ませると後を追っていった。



 相部屋というものは、なかなかいいものだ。
 宿屋の女部屋は沢山の宿泊で賑わっていた。下はモエギよりも若く、上はもう下山するのも難しいと思える老婆まで、実に幅広い年代の女性が集っている。
 職業も様々で、一般民からサーラのような女戦士に魔法使い、果てはどこぞの酒場から抜け出してきたような気だるい雰囲気の女性と、まさに十人十色だ。
 モエギは歳の近そうな娘たちと言葉を交わし、部屋で過ごす時間をつぶした。ルイーダの酒場にいた頃を彷彿し、ジャックと離れた心細さも束の間忘れられた。
 だが、部屋が寝静まり、一人横になって薄汚れた天井を見つめていると、無意識のうちにジャックのことを考えていた。
 翌朝、宿屋の食堂に入ると、大勢の宿泊客が朝食を摂っていた。モエギは厨房のカウンターから盆に乗った食事を受け取ると、空いている席を探しながら人々の話に耳を傾けた。
「聞いたか? 大神官の孫が昨日ここに来たらしいぞ」
「孫って、クラリス様以外にいたの?」
「それが若い男らしいんだ。しかも、銀髪の」
「しかも、今日から大神官の啓示を補佐がやるんだってさ。その孫と何か関係あるのかねえ」
 改めて、ジャックの存在がこの神殿に波紋を呼んでいることを思い知らされる。元はといえば、ここまで広まってしまったのもモエギのせいなのだろうが。
 だが、出会った頃ロマリアの格闘場でぼったくりを働いていたジャックを思い返すと、今こうして大神官のもう一人の孫と騒がれているのは、何だか信じ難い。
 アルトは英雄オルテガの息子、サーラも定かではないが並々ならぬ秘密を抱えている気がする。となると、仲間のうち凡人はモエギだけではないか。
 自分にも、武術以外に何か非凡なものがあっても良いのに――卵がゆをつつきながらため息をつくと、向かいの席に大きな影が落ちた。
「よォ、嬢ちゃん。ここいいか?」
 カンダタが盆を手にして立っていた。どうぞ、とぶっきらぼうに答えると、カンダタは嬉しそうに腰を下ろした。
「何だか、えらい騒がれようだなァ。ま、オレァ邪魔者がいなくなってせいせいしたぜ」
 にやにやとこちらを見つめるカンダタ。この男と人気のない所へ行かないでおこうと心に誓った。
「それにしてもよ、ここの連中はミーハーすぎやしねェか? 他の奴にいい女はいねェかって聞いたらよ、どいつもこいつも口を揃えてクラリス様って言いやがる。嬢ちゃん知ってるか?」
 モエギは、ジャックのいとこである少女を思い浮かべた。確かに、顔立ちは年齢の割に大人びており、涼しげな美しさを誇っている。だが似たような印象の美女であるサーラと比べると、いささか無愛想に思えるし、何よりあの性格だ。
「知ってるけど、あたしはそんな皆から慕われるような人には思えないな」
「へェ。嫉妬してんのか?」
「誰が!」
 モエギは勢い良く卵がゆをかき込んだ。だが、まんざら嘘でもないかもしれない。それが悔しかった。
「大体、あんたあたしの仲間でもないくせに、何でつきまとってくるのよ! あたしはこれから一人で修行するんだからね!」
「ひでェなァ。オレァ知り合いがいなくて寂しいんだよ。なあ、今日一日くらいはオレに付き合え」
「……何するのよ」
「まァ、これを見てくれや」
 カンダタはどこから取り出したのか、テーブルに紙切れを叩きつけた。職業適性診断の申し込み書だった。
「こんなの、あんた一人でやればいいじゃない! あたしは修行の申請するんだからね」
「そう堅いこと言わずによォ。嬢ちゃんも遊び感覚でやってみろや」
 よく見ると、用紙は二枚重なっていた。モエギは一枚を手に取り、目を通した。
「体力、知力、気力、観察力、そしてユーモアの五つの診断、だとよ。オレも詳しくは知らねェが……ほら、ユーモアなんてよ、お前さんとオレとで漫才でもすりゃ」
「嫌よ。……でも、診断は受けてやってもいいわ。この五つの能力の度合いも教えてくれるみたいだから」
 カンダタはよし、とガッツポーズを作り、あっという間に卵がゆをたいらげた。



 手続きを済ませると、モエギとカンダタは他の参加者に混じって診断を開始した。
 最初の診断は、何のことはない運動能力のテストだった。これは二人とも難なくこなし、担当の神官の度肝を抜いた。
 次の診断は、世界のことや冒険者としての知識、他一般的な常識についての筆記試験だった。モエギはそこそこの出来だったが、カンダタは終了後「オレァもう駄目だ」とぼやいていた。
 三番目の診断は、座禅を組まされ、少しでも気を緩めた者が脱落していくというもので、カンダタは大してもたなかったが、モエギは他の参加者より長続きした。
 残り二つとなった診断では、二つの聖水を鑑定し、どちらがより高価であるかを当てるというものを行った。高価な方はバハラタの聖なる川の水から作られているもので、モエギは運良く当てることが出来たが、意外なことにカンダタも正解を導き出した。本人曰く、直感だという。
 そして、最後のユーモア診断では、それぞれの診断の担当者四人と他の参加者たちの前で『面白いこと』をする、というものだった。
 カンダタは自己流で斧の演舞をやってのけ、人々の反応も上々だった。モエギはというと、武術を駆使した曲芸を披露し、割れんばかりの拍手を浴びた。
 全ての診断が終了し、二人は昼下がりの柔らかな陽気の射し込む広間で、診断結果を手に宿屋へと向かっていた。
「けッ、オレより拍手もらいやがって」
 二人とも体力はもちろんだったが、カンダタは観察力、モエギはユーモアが高く評価されていた。
「やっぱりあんたよりユーモアが高かったのは、うろこの盾のおかげよね」
 ふふん、と上機嫌で天井を仰ぐ。曲芸の一つに、うろこの盾のうろこを高速ではがすという演目を混ぜたのだ。適正結果も、当然武闘家だった。
「それにしても、あんたの適正に商人が入っていたのは意外ね」
 神殿の外にある渡り廊下に出ると、晩秋の冷たい風が吹きつけ、モエギは小さな身体を縮こませた。
「商人ねェ。知力でそういう分野は当たってたからな」
「他のはからっきし駄目だったくせにね」
 カンダタは機嫌を損ねたのか、そっぽを向き「あァ、今日の晩飯は何だろなァ」とひとりごちた。モエギはふと、カンダタに尋ねてみた。
「ねえ……あんたって、何で盗賊になったの?」
 カンダタは足を止め、まじまじとモエギを見つめた。
「嬢ちゃんが、オレに関心を持つたァ……そうか、ようやくオレのことを」
「それ、ジャックがサーラに言うのとすっごく似てるんだけど!」
 ジャックのことを思い出すと、自分が感じている隔たりや引け目が心の中で浮き彫りになった。モエギは拳を握った。
「……あたしは、ごく普通の平民の子。だけど、周りは英雄の息子とか、大神官の孫とか……実はすごい人。だから、あんたはどうなのかなって」
 すると、カンダタはいきなり大口を開けて笑い出した。モエギが唖然としていると、カンダタは腹をさすりながら言った。
「嬢ちゃん、そんなこと気にしてたのかよ。オレァ、お前さんはむしろ、そんなこたァ全く気にしないタチだと思ってたぜ? そうかそうか!」
 モエギはぽかんとカンダタを眺めていた。今まで腹の探り合いばかりしていたカンダタの、本当の素を見たような気がしたのだ。
 カンダタは一発モエギの背を叩くと、ヤニに汚れた歯をむき出しにした。
「いいだろう。嬢ちゃんには特別に教えてやらァ。酒場行くぞ」
 宿の酒場は、早く修行や訓練を切り上げた者たちで賑わっており、カンダタは甘酒を、モエギはヤギの乳と茶葉を甘く煮付けた飲み物を注文した。
 注文が届くと、カンダタは一口含んで、語り始めた。



「オレの生まれた村は、アッサラームの北の、山沿いにある小さな農村でよ。オレァそこの農家の三男坊だった」
 兄弟は全部で十人おり、そのうちの半分が飢えで亡くなった、とカンダタは話した。
「死んだのは、全部オレより後に生まれた奴だった。何年か凶作が続いてよ、オフクロもろくに食ってねェから、ガキにやる乳が出やしねェ」
 兄たちにならい、カンダタも幼い頃から両親の仕事を手伝っていたが、いつも空腹だった。
「盗みに目覚めたのは、ほんのささいなことがきっかけだった。いつも遊んでいたダチがいてよォ、そいつの家に遊びに行った時、そこにあった食い物をいくらか拝借したのさ」
「それ、拝借って言わないわよね」
 カンダタはうなずいた。
「でも、その時のオレァ、自分の家が豊作になったら食い物を分けてやろうと思っていた。だが実際は、他人の家に与えられるほど作物は出来なかった」
 盗みは食べ物だけに留まらず、いつしか金目のものにも及ぶようになった。それをアッサラームから来た行商人に売りさばき、得た金で腹を満たしていた。
「だがよォ、悪事はいつかばれるモンだ。オヤジはオレを散々殴りつけ、オフクロは村での立場を悪くして心を病んだ。アニキたちはオレを一家の恥と罵った。そしてオレァ十二の時、村から追い出された」
 勘当されたカンダタの足は、自然とアッサラームに向いた。辺境の小さな農村とは比べ物にならないほど人や物で溢れた街に、カンダタは初めて訪れた時夢を見ているような心地がしたという。
「しかしよ、十二のガキが出来る仕事なんざ、たかが知れてる。オレはどっかの酒場の雑用をやったり、まァ……人様には言えねェ仕事をして何とか食いつないだ」
 それでもやはり、満足な生活は送ることが出来なかった。そのため、アッサラームでも盗みを働くようになった。
「盗みがバレて、解雇されちゃあ新しい職を探す……その繰り返しだった。だがな、あの街にはそんな奴が他にもちらほらいたのさ」
 カンダタは似たような境遇の少年たちと徒党を組み、集団で窃盗行為をした。その中の一人に、ガロッシュがいた。
「奴ァ、見かけはどこにでもいそうな、ひょろっとした優男だった。だが誰よりも暗い目をしていてよォ、頭も仲間のうちで一番切れる奴だった」
 次第にカンダタたちは勢力を伸ばし、カンダタが十八の時、盗賊団『デスミラージュ』が結成された。
「最初、オレたちァなりふり構わず盗んでいた。だが、ガロッシュの野郎は手口の汚い商人たちに恨みを持っていたから、活動は奴の方針でそういう奴らを標的にしたものになったのさ」
 あとは嬢ちゃんも知ってるだろ、とカンダタは締めくくった。
 カンダタは、以前盗賊稼業が好きなのだと公言していた。だが、始まりはジャックと同じで、やむを得ないものだったのかもしれない。
 わずかに同情を覚えたが、それよりも目の前にいるこの男が、数々の悪事の上に生計を立ててきた、かなりしたたかな男であるという畏怖が、モエギの心を支配していた。
 モエギが黙り込んでいると、カンダタは鼻で笑った。
「嬢ちゃん。これで分かっただろ? オレがどれだけ嬢ちゃんに手加減してやってるかよォ。だが、オレァもう盗賊じゃねェ。ましてや貧しい農家の三男坊でもねェ。オレの第二の人生は、ここから始まるんだ」
 カンダタの表情は晴れ晴れとしていた。モエギはそれを見つめ、この男の人生を反芻した。
 この男は、決して善行で成り上がった訳ではない。だが己の身一つで道を切り拓き、仲間を得、そして決断してきた。
 そこに、生まれも何も関係ないのだ。
「嬢ちゃんは、どっかのお姫さんに生まれたかったか? でもよォ、周りの奴らを見てみろ。どいつもこいつも大変そうじゃねェか。お姫さんだったとしても、それはそれで生きるのはつらいぜェ?」
 カンダタは喉を鳴らして甘酒を飲むと、甘ったるい息を吐いた。
「嬢ちゃんは確かに平凡かもしれねェ。だがよ、それがこの世じゃ一番幸せなんだ。
 オヤジとオフクロがいて、ダチがいて、仲間がいて、帰る場所がある。ほら見ろ、これが全部揃ってる奴が世の中に何人いる? 嬢ちゃんは十分、特別な人間だ」
 カンダタの言葉の一つ一つに、目の覚める思いがした。自分がいかにちっぽけなことで悩んでいたのかと、鳥になって地上の自分を見下ろしているような気分になった。
 カンダタは駄目押しで、さらにこう告げた。
「それでももし、引け目を感じるんなら……平民の中で一番すげェ平民になってやれ。いいか?」
 人差し指を突きつけ、カンダタはニカッと笑みを浮かべた。モエギは力強くうなずいた。
「……ありがと。あんたって、悪人の割にはいい奴なのかもしれないね」
 すると、カンダタは調子に乗り、頬杖をついて身を乗り出した。
「へッ、やっぱり嬢ちゃんは可愛いなァ。取って食っちまうかな」
「なっ、バッカじゃないの!」
 モエギは注文の品を飲み干さない内に退散した。カンダタが何故、自分につきまとってくるのかだけは、一生分かりそうになかった。



 基礎鍛練は、盗賊団に所属していたジャックにとっては朝飯前だったが、魔法については、構成はおろか、基本的な概念についてもさほど知らない。ヨシュアは、魔法について指導するのは実践からとして、クラリスが初歩的な知識を講義してくれることになった。
 クラリスは祖父の前では素直に承諾したが、神殿内の書斎でジャックと二人きりになった途端、忌々しげに吐息をついた。
「何だ何だ、そのため息は。若い女の子はもっと明るい方がいいぜ?」
 クラリスが睨んでくるので、ジャックは仕方なく席についた。書斎とは言うものの、実際にはこぢんまりとした図書室のようなもので、両脇の壁には所狭しと本棚がそびえている。
「……お祖父様の言い付けだから、やるからにはきちんとやるわよ。さあ、始めましょ」
 向かいに座ったクラリスは、肩にかかった髪をはねのけ、あらかじめ本棚から抜き出してあった書物を傍らに広げた。
「基本的なことは朝言った通りよ。あなたも妹が魔法を使うのを見ているのなら、いくらか感じたこともあるでしょ? 魔法について知りたいことはある?」
 ジャックは口元に手を当て、質問を思い浮かべた。
「じゃあ……魔法ってのは、呪文を唱えりゃ使えるんだろ? なら、呪文さえ知ってりゃ、誰でもすげえ魔法が使えるのか?」
「それは違うわね。高度な魔法は、いくら呪文を知っていても、それ相応の魔力がないと発動しないの」クラリスは間を置くことなく答えた。
「そしたら、メラゾーマってやつを唱えたとして、魔力が低けりゃメラほどの威力も出ないのか?」
「呪文はね。でも、構成は違うわ」
 クラリスは書物をめくり、何やら図形らしきものが記されている箇所をジャックに見せた。
「例えば、あなたの言ったメラ系は火の魔法よね。魔法の構成には種類によってシンボルがあって、それぞれ基本の図形があるの。だからメラゾーマを発動する魔力がなくても、基本の図形さえあればメラ程度の魔法が発動出来るのよ」
「ややこしいなあ……オイ」
 ジャックはぼりぼりと頭を掻き、書物を受け取ると中身を目で追っていった。
 火、炎、氷、真空、爆発など、数十種類の図形が描かれており、それぞれが異なる形をしている。いわば魔法陣のようなものだ。
「なあ、この構成ってやつ……全部暗記するのか?」
「そうよ。いくらあなたが銀の賢者だからって、構成を頭で描けなければ魔法使い以下よ」
 クラリスは立ち上がり、「構成の写しを用意するわね」と本棚を探り始めた。ジャックはすらりと伸びた白い脚を眺めながら、尋ねた。
「お前さ、ジイさんの命令なら何でもやるの? 昨日は物凄い形相でオレの頬ひっぱたいてきたくせによ」
 手を止め、クラリスは憮然とした声で返答した。
「……お祖父様の言葉は絶対よ。だってわたしは、いつかお祖父様の跡目を継ぐ立場にあるんだから」
「そりゃご苦労なこって。だからそんなにエラそうなのね」
 すると、クラリスはジャックに詰め寄り、鼻の頭に指を突きつけた。
「あなたね、誰のせいでこうなったと思っているの!? あなたのお母様さえ神殿を飛び出していなければ、わたしだって――」
「責任転嫁かよ。オレのお袋のこと言ったって、もうどうしようもねえだろ」
「でも、あなたのお母様は将来を期待されていた! わたしのお母様はいつもソラリス伯母様の話をしてくれたわ……美しく、聡明で、人望も厚かったって。でも、わたしにとって伯母様はプレッシャーでしかなかった!」
 クラリスは軋む音が聞こえそうなくらい拳を握り、唇をきっと結んだ。見えない重圧に耐えるかのように。
「……許せないのよ。才も人望もありながら、それを捨てて普通の女として生きた、伯母様が……」
 クラリスの態度は、昨日のようにあからさまな憎悪を漂わせているというより、やりきれない苦悩にがんじがらめになっているように思えた。
 この少女は、まだ全てを背負うには、幼い。だがソラリスのように飛び出すことも出来ない、籠の中の鳥なのだ――ジャックは微かに震えるいとこの少女を、じっと見つめていた。
 しばらく黙り込んでいたクラリスは、でも、とぽつりぽつり話し始めた。
「あなたの話を聞いて、少しだけ伯母様がうらやましくなった。愛し合える人に出会って、あなたや他の子供を産んで、短くても幸せな生活を送って……」
 そこで初めて、クラリスがわずかながら笑みを浮かべるのを目にした。十六歳の少女らしい、いたいけな素顔が垣間見えた。
「わたしは、普通の女の子の生活を知らない。このまま、賢者になって、ゆくゆくは大神官になるのかと思うと、時々気が滅入りそうになるの」
 クラリスはしばし虚空を見つめた後、我に返ったように頭をふるふると振り、本棚へと向き直った。
「でも、そんなことあなたに話してもしょうがないのも、本当は分かっているわ。だって、あなたは何も知らなかったんでしょう? わたし、八つ当たりしていたのかもしれない」
「……だろうな」
 それにしても、いきなり初対面のいとこに平手打ちをくらわせるとは、相当うっぷんがたまっていたのだろう。とはいえ、常識的な人間がとる行動でないのは明らかだ。
 ここは少しばかり、仕返しをしてやりたい気分だ。ジャックはごく自然に切り出した。
「じゃあさ、昨日のこと謝ってくれねえかな」
 クラリスは眉をひそめ、こちらを見た。ジャックは、今度はわざとらしくぶたれた方の頬をさすった。
「野郎に殴られた時はやり返せば済むんだけどよ。お前みたいな年下の女にやられちゃあ、そうはいかねえんだよな」
 ジャックは立ち上がり、クラリスに歩み寄ると閉じ込めるようにして本棚に手をついた。緋色の瞳が大きく揺れる。
「な、何のつもりよ! 脅してるの?」
「お前さ、そんなんじゃ男ともまともに付き合ったことねーだろ。最近の女の子はお前よかずっと進んでるぜ? オレがそこんとこ教えてやろうかなってさ」
「ふざけないで! 大体、あなたとわたしはいとこ同士――」
「あら、知らないのね。いとこ同士でも結婚出来るんだぜ?」
 顔を近付けると、クラリスは首を縮こませ、瞳を閉じた。意外とあっさり観念するものだ。
 と、クラリスの唇が動いたかと思った次の瞬間、強烈な睡魔がジャックを襲った。まともに立っていられなくなり、がくんと膝を折ると床に沈み込んだ。わずかに動揺を残したクラリスの声が遠く聞こえた。
「ば、馬鹿ね。構成の写しだけは置いておいてあげるから、今日は自習してよね」
 足音が遠ざかる。ジャックはこんちきしょう、と口の中でつぶやいてから、気を失った。
 もちろん、母と瓜二つのいとこを本気で口説こうとした訳では、ない。



 銀の賢者になるにしても、クラリスと張り合うにしても、まずはとにかく魔法が使えるようにならなければいけない。ジャックはそう確信した。
 基礎鍛練では、ヨシュアと口喧嘩をしながら数々の訓練に汗を流し、構成の勉強ではクラリスに軽口を叩きながらいくつもの図形を暗記していった。修行の合間には、ソフィアが栄養などを考慮した手料理を振る舞ってくれた。
 アッサラームに住む馴染みの家族とは全く異なる、もうひとつの家族。最初は苛立ちや不満を覚えることもあったが、共に過ごすうちに、彼らにも徐々に人間味を感じられるようになった。
 例えば、ヨシュアは初日のパルプンテ以外にも、真顔で冗談を言うことが幾度かあった。本人にはそのつもりはないのだろう、至って真剣なのだが、儂の妻の方が先に自分に惚れたのだとか、儂はこう見えても昔はいい身体つきをしていたのだ、などとつぶやくので、この老人も所詮人の子なのだ、と次第に思うようになり、親しみすら覚えるようになった。だが基本的には例の岩のような表情と物言いなので、大抵は内心このジジイ、と毒づいている。
 クラリスも相変わらず手厳しいが、もうこちらに憎悪を向けることはなくなった。きつい言葉に混じって、時折こちらを気遣う様子を見せたり、まれに微々たるものだが笑顔を覗かせるようになった。この少女も、心の底から笑えばきっと、ソラリスの微笑みのように大輪の花を咲かせることだろう。
 ソフィアは自分の仕事の合間を縫って、修行の様子を見に来たり、時には焼き菓子などを差し入れしてくれた。晩には時々ジャックの部屋を訪れ、互いにソラリスの生前の思い出を語り合った。
 クラリスは、ソフィアが話すソラリスの面影をプレッシャーに感じていたと吐露したが、ソフィアは単に姉を心から慕っていたのだと、言葉の節々から感じ取ることが出来た。
 叔母は、賢者というものがいかなる存在であるかを、当事者たちより一回り外から見ており、またソラリスやクラリス、ジャックのことを賢者である以前に、血を分けた大切な家族として扱っているのだと気付いた。
 モエギやカンダタについては、あれ以来一度も顔を合わせていないが、ソフィアの話によると、モエギは一人で黙々と修行を積んでおり、友達も出来たという。
 モエギは元々単身バハラタからアリアハンへ旅立ち、ここまでやって来たのだから、社交性も度胸も十分持ち合わせている。ジャックがいなくてもそれなりに楽しくやっているはずだ。カンダタはカンダタで、自分のやりたいようにやるだろう。
 修行を開始してから二週間が経ち、ジャックはようやく実践に入ることを許された。基礎鍛練と昼食を終え、クラリスと共にいつもの滝底へと足を運ぶ。
「あーっ、長かったなあ。とりあえず中級くらいまでの構成は全部覚えたから、結構いけるんじゃない?」
「図に乗るのはまだ早いわよ。あなた、まだ一度も魔法を発動させたことがないのよ? 分かってる?」
 へいへい、とうなずきながらヨシュアの元へ辿り着くと、祖父はいつもの調子で口を開いた。
「では、これより魔法の実践訓練に入る。ジャックよ、一通りの構成は覚えたな」
「おうよ。ベホイミにメラミ、ベキラマヒャダルコ。何ならジイさん、バシルーラで飛ばしてやるぜ?」
「このたわけが。よいか、構成を覚えてもそれを発動するにはコツがいるのだ。試しに自己流でやってみるが良い」
 ジャックはとりあえずメラを唱えることにし、妹のローズを真似て腕を正面にかざした。とはいえ、ローズは呪文により魔法を発動させているので、具体的にはどうすればよいのか分からない。
「クラリス、どうやるの?」
 クラリスはもう、と憤慨し、早口でまくし立てた。
「前に教えたじゃない。頭の中で構成を思い描いて、それを保ったまま詠唱するのよ!」
「ああ、そうだった」
 ジャックは目を閉じ、必死で暗記した書物の図形を思い浮かべた。全ての構成の基本となる円の中に、火のシンボルを据える。目を見開き、書物の残像を残したまま唱えた。
「メラ!」
 しん、と辺りが静まったが、何も起こらず滝の音だけが耳に戻ってきた。ジャックは手のひらを見つめ、駄々っ子のように地面を踏みつけた。
「おいっ! オレぁちゃんとやったぞ! なんでだよ!」
 クラリスも困惑し、祖父を見やる。ヨシュアはやれやれ、と首を振った。
「……クラリス、お前の説明は少しばかり言葉が足りぬ。儂が説明するとしよう」
 ヨシュアはジャックの隣に並ぶと、杖を正面に掲げた。
「ジャックよ。書物そのものを思い浮かべるな。それならばどんな三流の術者でも唱えられて当たり前のことだ」
「じゃあ、どうすんだよ!」
 年甲斐もなくわめく。ヨシュアは淡々と語った。
「まず、頭の中、とはよく言うが、実際には心の中を指す。お前は、心というのはどこにあると考える?」
 ジャックはそれこそなだめられる子供のように、ぶすっとして心臓のあたりを親指で叩いた。ヨシュアはこくりとうなずく。
「そうだ。ここは一般論で良い。そこに、漆黒の闇を生み出せ。とは言っても、負の感情ではない。『無』だ。我々が誕生する何億年も前からこの世に存在する、宇宙を思い起こせ」
 宇宙、というのは少々大げさな気もしたが、それを知らない訳ではない。ジャックは深呼吸をし、胸のあたりに、昔書物で見た黒々と冴えわたる空間を想像した。
「そこに、構成を思い浮かべるのだ。光の筋のように、くっきりと……」
 暗闇の中心に、太陽のまぶしさとよく似た輝きを持つ、光の図形を描く。太陽が宿ったように、胸の中はじんわりと熱を帯びた。
「そして、心臓から肺、腕、手のひら――そこから放出するように、解き放て!」
 胸から手のひらにかけて一気に血が巡るのを感じると同時に、ジャックは叫んでいた。
「メラッ!」
 ぼっ、と人の頭大ほどの火の塊が手のひらから噴射され、後にはしびれたような熱さと感覚が残った。ジャックは茫然と口を開け、ヨシュアの言葉を待った。
「発動は、成功だ」
 ジャックは両手を握りしめ、狼のごとく雄叫びを上げた。全身を言いようのない高揚感が駆け巡る。
「すげえ! オレって、やれば出来るじゃん! すげーっ!」
 歓喜がこのまま山を越えて、アッサーラームまで届けばいいと思うほど、ジャックの声はよくこだました。
「そうだ。その感覚を、常に持ち続けるのだ。忘れるでないぞ」
「おう! クラリス、お前うかうかしてると、オレに先越され――」
 その途端、頭を凹凸のあるもので強打され、ジャックはうめき声を上げて地面に崩れた。頭上から声が降ってくる。
「馬鹿者。発動が一回成功したくらいで調子に乗るな。お前はまだ、魔物相手に魔法を成功させていないのだぞ」
「そうよ。それに、わたしが何年お祖父様から教えを受けていると思ってるの? 一緒にしないでくれる?」
 成功した矢先に、次々と突き刺すような言葉を浴びせられ、ジャックは顔面をひくつかせた。
「あんたらって、ホント容赦ねえのな……」
 だが、一度成功すれば喉元に引っかかっていた小骨がするりと取れるように、上手くいくだろう。
 自分が魔法を使えるようになったのを目の当たりにしたアルトやサーラは、何と言うのだろう。わくわくとした気持ちが湧き上がったが、それもすぐ消えた。
 あいつらは、今頃テドンに着いただろうか――ジャックは遥か西の空を見上げ、眉を曇らせた。