銀の賢者 灰色の雨 6



 サーラとアルトは、ジェフに教わった通り航路をたどっていった。潮風はざらついており、荒波の日も少なくはなかった。だがポルトガの造船技術のお陰か、はたまたジェフが航海する際の心得を事細かく伝授してくれたお陰か、さほどトラブルもなく日数が経過した。
 航海の途中で祠に立ち寄ると、そこに住むシスターもまた、南の空が紅く燃えるのを見たと話した。今のサーラたちに出来ることは、一刻も早くテドンをこの目で確かめることだ。サーラとアルトは日を増すごとに無口になっていった。
 ポルトガを発って一週間半、ようやくサーラは見覚えのある土地に降り立った。既に陽は傾いており、鬱蒼とした森はどこまでも暗く視界に広がった。
「サーラ、道は覚えているのか?」
 小さな波止場に船を止め、乗組員たちに待機してもらうよう言付けると、サーラが先頭に立ち森の中へ分け入った。ランプの灯が儚く揺れる。
「ああ……。この森は薬草を摘む時、嫌という程歩いた。ほら、そこの木の根元を見ろ」
 ランプをかざすと、根の部分には一つの同じ種類の草が生えている。毒消し草、とアルトがつぶやいた。
「そうだ。私は、村と波止場の道の間に生えている草の順番を覚えている。毒消し草、満月草……」
 サーラは草の名前を順序に沿って口にした。それを一つずつ確認しながら足を進めたが、それと同時にゆっくりと、動悸が早まっていくのを感じていた。
 最後の草を見つけてからしばらく歩くと、森が急に開け、サーラは闇を振り払うようにランプを突き出した。
 森の中に点々と建つ、丸太造りの平屋は、扉の両側にたいまつを灯し、窓からはほのかな明かりが漏れている。畑には冬に備えて藁がかけられていた。
 寒さが近付くと村の人はこうして、冬支度をしていた――そこには旅立つ前と何一つ変わらない、人の息吹が感じられた。
「サーラ……テドンは、無事だったんだ!」
 アルトが前に飛び出し、歓声を上げた。サーラは、途端に今までの不安が雪解け頃の川のように流れていくのを感じ、腹の底から息を吐き出した。
 アルトの声が聞こえたのか、家に入ろうとしていた一人の老人がこちらを振り向き、目を見開いた。
「おぬし、もしや……」
 老人が血相を変えて近寄ってきた。よく見ると、何度か病の治療を施したことのある、マッシュ爺だった。
「サーラ、サーラじゃな? お前、よく戻ってきたのう……!」
「マッシュ爺……皆は、元気ですか」
 昔――まだ剣を持つ前の、うら若き少女だった頃はもう少し無邪気に話せたものだが、今となってはそれも出来ない。だが老人は、その頃と同じように温かい眼差しでこくこくとうなずいた。
「元気じゃよ。みんな、なんも変わっとらん。オットーも相変わらずじゃ」
 義父の名が出て、サーラは無性に込み上げてくるものを感じた。アルトが首を傾げると、マッシュ爺がすかさず説明した。
「オットーはのう、この村の神父で、サーラの育ての親じゃ。おぬし、サーラのこれかの?」
 マッシュ爺が小指を立てたので、アルトはさっと頬を赤らめた。この程度のことであれば、さすがにアルトも知っている。
「俺は、まだそんなのじゃ……」
「そう照れなくてもええじゃろ。ほれ、サーラも早く帰ってオットーに顔を見せてやれ。あやつ、きっと感激してむせび泣くわい」
 オットーはそれ程大げさな人間ではないのだが、マッシュ爺の誇張したような口振りも今はただ、懐かしかった。
「……ありがとう、マッシュ爺」
 声を発した途端、アルトが信じられないものでも耳にしたかのように、サーラを見やった。サーラも、今の自分の声に驚き、息を止めた。
 まるで、何も知らない少女の頃のような、声音だったのだ。
「……ほれ、早う行きなされ」
 マッシュ爺はそっと微笑み、サーラの腕を軽く叩いた。サーラは深々と礼をし、おそるおそる足を踏み出した。
「サーラ、今の……」
 アルトが隣で茫然とつぶやく。サーラは目を伏せ、低く返した。
「……気のせいだ」
 かぶりを振る。あの頃の無知な自分を、振り切るかのように。
 サーラは歩きながら、一つ一つの家を眺め、そこに住む人々を思い返した。いつも料理を分けてくれた恰幅の良い女性、いたずら好きの少年、剣を褒めてくれた目利きの武器屋の主人――
 ふと、村の奥にある一軒の家に目がいった。村の中でも一際立派なその家には、剣の師匠と、その息子――かつての恋人が住んでいた。口の中に苦いものが広がった。
 彼らは村の「守人」と呼ばれ、魔物などを退治し村の平和を守るのを生業としていた。師匠はそれに値する人物だったが、その気質は息子にはほとんど受け継がれなかった。
 本当は自分を苦しめた恋人の父などに、剣を教わりたくなかった。だが彼より剣の腕の立つ者は、この村にはいなかった。
 息子はサーラが旅立つ前に、他の女と村を出、今は師匠だけが住んでいるはずだ。せめて一言くらい、挨拶をしようか――
「サーラ、立ち止まってどうしたんだ?」
 我に返ると、アルトが不思議そうにこちらを見つめていた。知らずの内に足を止めていたらしい。サーラはいや、と頭を振り、再び踏み出した。師匠には後で顔を見せればいい。
 やがて、この村で唯一石造りの教会に辿り着いた。白壁には所々ひびが入っており、決して新しいとは言えないが、サーラにとっては最も大切な場所だった。扉の前に立ち、息を整えると怖々とノックをした。
 オットーが今の自分を見たら、どんな表情をするだろう――サーラは胸の高鳴りが隣のアルトに聞こえないかと思う程、緊張を覚えていた。
「こんな夜更けに、どなたですかな」
 義父の声が扉越しに聞こえた。土にどっしりと根を張ったように低く、落ち着いた声は数年前と全く変わっていない。
 サーラは深く息を吸い、微かに震えた声で名乗った。
「……私です」
 瞬時に扉が開き、面長の男が顔を見せた。土気色の肌と、人の良さそうな垂れ気味の細目は、確かに記憶の中の義父そのものだった。
「サーラ……」
「ただいま帰りました……義父さん」
 真っすぐ見つめ返すと、義父――オットーは瞳を震わせ、ひしとサーラを抱きしめた。



 数年振りに帰った我が家は、こぢんまりとしていたが馴染み深い空気が漂っていた。
 わずかに色あせた居間の壁も、使いこまれ所々傷んだテーブルや椅子も、昔からずっと変わらない位置に飾られてある黄ばんだ絵も、全てがあの頃のままだ。暖炉では煌々と火が紅く輝いている。
「へえーっ、ここがサーラの育った家か」
 アルトは瞳をきらめかせ、部屋のあちこちに見入っている。全く、この少年は新しい場所に来るたびにこの調子だ。だがその無邪気さは、今のサーラにとって微笑ましいものだった。
 オットーは、決して豪華とは言えないが心のこもった料理でもてなしてくれた。サーラが手伝う、と言ったのだが、オットーはゆっくり休んでいなさい、と微笑むだけだった。
 食事の間にアルトを紹介すると、オットーは興味津々といった様子で顔を笑み崩した。
「アルト、出身はどこだね」
 問われると、アルトは居住まいを正し、オットーを見据えた。
「アリアハンです。そして、俺の父は……オルテガと言います」
 それまで柔和な顔付きをしていたオットーの表情が、突如強張った。アルトをじっと見つめ、ためらいがちに口を開く。
「……そうか。これもやはり、精霊ルビスのおぼしめしなのか……」
 独り言のように紡がれた言葉を、どう受け止めれば良いのか分からないのか、アルトは神妙な表情でサーラを見やった。
「義父さん、どうしたんだ? アルトに何か……」
 オットーはいや、と首を振った。
「それについては、後で話そう。まずは、サーラの今までのことを聞かせてくれないかね」
 サーラは、アリアハンで暮らすようになってから今までのことを、アルトと交互に語って聞かせた。
 思えば、アルトと出会い、旅を始めてから半年以上の月日が経った。この村を出てからは、およそ五年の歳月が流れている。
 こうして故郷に帰ると、あの頃の自分が蘇ってきやしないかと懸念したが、それはほんの一瞬だけだった。
 今の自分のままここにいることが出来るのは、おそらく、アルトやモエギ、ジャックという、過去の自分でなく現在の自分を受け入れ、認めてくれる人たちがいるからなのだろう。
 話を終えると、オットーは長い間黙っていたが、やがて口を開き、こう尋ねてきた。
「サーラ、今、お前は幸せかね?」
 アルトがこちらを見ている。サーラはそれを横目で見、そっと口元をほころばせた。
「……不幸では、ありません」
 不器用な自分でも受け入れ、慕ってくれる、かけがえのない仲間に出会えたのだから。
 アルトが満足そうに微笑んだ。オットーは、ならば……と改まって切り出した。
「昔、お前がこの村を出ていった時約束したことを、話そう」
 サーラは、胸のあたりが不意にざわつくのを感じた。
「……私の、本当の両親のことですか」
 オットーは静かにうなずいた。胸元に手をやると、アルトも緊張するのが空気を通して伝わってきた。
 今までずっと考えてきた。本当の両親は誰で、どこの人間で、今も生きているのか――と。それをようやく、知る時が来たのだ。
 オットーはテーブルの上で両手を組み、遠い昔のことを語るかのように、ゆっくりと言葉を運び出した。



 オットーには、歳の近い弟がいた。
 兄弟で亡き両親の遺した教会を営み、幼い頃から二人支え合って生きていた。
 弟は温厚な人物で、控え目なオットーより人懐こく、村の皆から好かれていた。そんな弟をコンプレックスに感じることもあったが、同時に誇りに思っていた。
 弟は村の何人かの女性からも想いを寄せられていたが、当の本人には全くその気はなく、その手の話題を振ると「兄貴こそいい人はいないのか」と決まって返してきた。
 そんなある日、近くの森で一人の女性が倒れているのを村人が発見し、教会に運んできた。女性は手ひどい傷を負っており、介抱と治療にあたったオットーと弟は、その容姿に息を呑んだ。
 肌は透き通るように白く、髪はすみれの花弁で染め上げたような鮮やかな紫。そして何より、その女性は普通の人間とは明らかに異なる、尖った耳をしていた。
 女性は、発見されてから数日後に目を覚ました。開かれた瞳はルビーのごとく澄んでおり、細く紡がれた声は鈴の音のように凛とした響きを持っていた。
 彼女の名は、レイラといった。
 レイラは自分の名前以外何も覚えていなかった。ただ、共に発見された一振りの剣を肌身離さず身につけており、誰にも触れさせようとしなかった。その細身の剣には、植物をモチーフとした美しい装飾が施されており、武器を持たないオットーたちでも、それが並々ならぬ力を秘めた剣であることには想像がついた。
 オットーたちの献身的な看護により、レイラは徐々に体力を取り戻していった。記憶を失っていたものの、レイラはしっかりとした口調で話し、テドンは元いた場所とは風習が違うようだったが、村での生活にも次第に順応していった。彼女は、聡明だった。
 レイラは凡人離れした美貌を持っており、オットーは顔を向かい合わせるだけでも落ち着かず、どぎまぎしていたのに対し、弟はごく自然にレイラと接していた。元々、弟は誰にも分け隔てなく接する人物だった。そんな弟に、レイラはいつしか心を許すようになった。
 だが、村の人間は得体の知れないレイラを快く思っておらず、オットーたちに抗議してきた。気が弱いオットーは村人たちの機嫌を取るのが精一杯だったが、弟はそれに対し、毅然とした態度で村人たちに告げた。
 レイラがどこの誰であろうが、行き場のない者には変わりがない。それをむざむざ追い出すような非道い仕打ちをするのですか、と。
 弟の説得には正当性があり、村人たちは何も言わなくなったが、それでもレイラと一向に関わろうとはしなかった。
 その一方で、弟とレイラの仲は急速に深まり、しばしば二人だけで出かけたり、一緒に過ごすことが多くなった。二人が親密になったのは明らかで、秘かにレイラへ恋心を抱いていたオットーは苦悩したが、それを見守ることしか出来なかった。あの弟がようやく身を固める機会が訪れたのだ。それを無下にする訳にはいかなかった。
 やがて、レイラは腹に弟との子を宿し、数ヶ月後には愛くるしい女の子が産声を上げた。
「そのレイラと、私の弟……トーマの娘が、サーラ――お前なのだよ」
 サーラは返す言葉もなく、ただ茫然と義父を見つめていた。
「それじゃあ、オットーさんは伯父さんで、サーラの母さんは……」
 エルフ、とアルトが低くつぶやいた。オットーはうなずいた。
「そうだ。だが、彼女が自らのことを思い出したのは、死の淵に立ってからだった」
 オットーは長い瞬きをし、続けた。
 サーラが生まれてからは、村人たちもレイラを受け入れるようになった。それはサーラが、普通の耳を持って生まれたからだったのかもしれない。子を得たトーマも、レイラも幸福感に包まれており、オットーもまたサーラの誕生に想いが吹っ切れ、弟たちと共にサーラの世話に精を出した。
 だが、その幸せも長くは続かなかった。
 サーラが生まれてから数年後、レイラが恐ろしい夢を見た、とオットーたちに打ち明けてきた。それは、村に伝染病が流行り、次々と人が死んでいくというものだった。だがその時はただの夢だろう、と片付けられた。
 ところが、それは正夢となった。老若男女問わず、村人たちは苦しみに溺れ、死者が続出した。トーマはサーラを隔離し、オットーと共に治療にあたったが、ついにはトーマと、レイラも病に倒れてしまった。
 オットーの看病も虚しく、トーマはあまりにもあっけなく天に召された。レイラももって数日の命となり、彼女は朦朧とした意識の中で、ふいに思い出した、とオットーに打ち明けてきた。
 レイラは、元は精霊ルビスに仕える戦乙女のエルフで、強大な敵と戦っていたと話した。だが、何故テドンで倒れていたのかはやはり思い出せないままだった。
 レイラはサーラをオットーに託し、こう残した。
「サーラには、争いとは無縁の人生を送って欲しい。私が、トーマたちと暮らした日々のような、温かな幸せに包まれた人生を……とな」
 サーラは目を閉じ、亡き両親を思った。母への申し訳なさが、腹から胸までせり上がってくる。
 かつての自分ならば、母が願ったような人生を夢見ていただろう。だがそれは、あの男の手によって踏みにじられた。
 これ以上、男に負けたくない。屈辱的な思いを味わせられたくない。強くなりたい――そう念じた次には、母の形見であるあの剣を手に取っていた。
「……やはり、血は争えないのでしょう。私は、気付けば剣をふるい、血の匂いに慣れていた」
 サーラはひとりごちるように苦笑した。オットーは静かにうなずいた。
「おそらく、レイラが相手にしていた敵も、魔王バラモス……。ならば、サーラ、お前がレイラに代わり、奴を討つべきなのだろう」
 サーラはゆっくりと、アルトに顔を向けた。アルトも同時に視線を向けた。
「……アルト、私とお前が出会ったのは、宿命だったのかもしれないな。改めて言おう、私を――」
「宿命なんて、そんな堅苦しいこと言うなよ」
 改まって申し出たというのに、アルトはそれをいとも容易くかわした。面食らっていると、アルトは淡々と話した。
「確かに、サーラの本当の両親が亡くなっていたのは残念だし、サーラの母さんのことはびっくりした。でも、サーラは母さんのことがなくても、剣を取っていた。それがたとえ、つらいことがあったからだとしても……。だから、サーラが母さんの分まで気負うことはない。
 俺と、サーラが出会ったのは宿命じゃない。運命だよ」
 にっこりと、アルトは微笑んだ。
 どうして、この少年はいつも、気張りすぎるサーラの心をこれほどまでに、緩和し、打ち溶かしてくれるのだろう――サーラは俯き、こみ上げてくる想いをこらえるように口をきっと結んだ。
 亡き母と、父に伝えたい。自分は剣を取っても、血にまみれても、こんなにも温かなものに包まれていると。
「……さあ、そろそろ休みなさい。今日は疲れているだろう」
 オットーが席を立ち、サーラとアルトもそれに続いた。
 アルトは客室に通され、サーラは二階の自分の部屋に入った。きちんと整頓されており、至る所に思い出の品が置かれていた。
 薬草学の本、女神を模したロザリオ、びん詰めになったドライフラワー――そのどれもが、ただいとおしかった。
 タンスにしまわれていた寝間着は丈が短くなっていたが、何とか着ることが出来た。鏡の前で、アルトが買ってくれた銅のくしで髪を梳かし、床についた。
 寝る間際、オットーがひっそりと部屋にやって来る気配がした。そういえば、幼い頃は毎晩、オットーがベッドの横で昔話を聞かせてくれた。
 オットーは昔と同じように、ベッドの傍らにしゃがみ込むと、サーラの髪にそっと触れた。今では、義父がどのような気持ちで、サーラを育ててきたかが分かる。
 最愛の弟と、愛しい人との間に生まれた、何物にも代え難い娘――それを思うと、胸が痛むと同時に、途方もない感謝の気持ちで満たされた。
 サーラはうっすらと瞳を開け、微かにつぶやいた。
「ありがとう……義父さん」
 顔はよく見えなかったが、そっと笑ったような息遣いが聞こえた。
「お前はもう、私がいなくても、大丈夫だな……――」
 やがて全ての感覚が消え、闇に溶け込んでいった。



 雨の音が聞こえる。全身が、打たれている。
 目を開けてみると、天井には破壊されたような穴がいくつも空いており、そこから曇天が顔を覗かせていた。
 サーラは顔に手をやり、服を触った。所々がじっとりと濡れている。
 勢い良く飛び起きると、目の前の光景に言葉を失った。
 壁や家具は、泥や得体の知れない液体にまみれており、魔物のものと思われる爪痕が生々しく残っている。床は抜け落ちている箇所があった。
 サーラは辺りを見回し、剣を取ると着のみ着のまま階下に降りた。
 居間も、サーラの部屋同様無残な有様だった。外に出ると、全身が石のように固まった。
 かつての村の面影はどこにも見当たらず、あるのはただ焼け焦げた家の残骸と、死んだ土だった。
 嵐よりも、流行り病よりも恐ろしいものが、この村を襲ったのだ。
 昨晩のことは、全て幻だったのか――そう思ったが、首を激しく横に振った。
 覚えている。幻のはずがない。懐かしい我が家も、愛情のこもった手料理も、穏やかな義父の眼差しも、何もかも――
 サーラはよろめきながら、アルトを起こそうと踵を返した。すると、何か固いものが足に当たった。
 おそるおそる見下ろすと、そこには変色した白骨と、ひどく見覚えのある神官帽が、転がっていた。
 突如身体の内側にどす黒いものが湧き出し、サーラの全身を駆け廻った。
 サーラは剣を抜くと、鞘を無造作に放り捨てた。部屋に上り、手が真っ白になる程剣を握ると、そこら中にある物全てを斬りつけた。毛布は裂け、家具は無残な形となり、ぬいぐるみは綿が飛び出した。傷付けられていく物たちと同じだけ、サーラの心もずたぼろにすさんでいった。
 外に出ると、雨は勢いを増していた。周囲が灰色の霧で埋め尽くされる。サーラは無我夢中で雨を斬った。
 こんなことになるくらいならば、いっそ最初からこの光景と引き合わせてくれたら良かった。
 神は知っているのだろうか。温かなものに触れた後の冷たさが、どれだけこの心を痛めつけるのか。知るはずもないだろう。
 皆、裏切っていく。かつての恋人も、わずかな期待も、ぬくもりも、神さえも――
 やみくもに剣を振り回し、そろそろ息が上がってきた頃、何かがこちらに向かってきた。サーラは唸り声を上げてそれに斬りつけた。高い金属音が鳴り響き、雨の中に溶け込んでいった。
 目の前で、一点の曇りもない、褐色の瞳が微かに光を放っていた。
「……お前も斬るぞ」
 吐き捨てるようにつぶやいた。少年は何も言わない。
 勢いまかせに剣を繰り出す。少年はそれを巧みに受け止め、自分も斬りかかってきた。それをかわし、サーラも本能のままに剣を操った。
 あの夢は正夢だった。母も同じ、予知夢を見る力を持っていた。そうと知っていればすぐさまキメラの翼で駆けつけ、魔物の手から皆を救えたかもしれない。
 だが、今となっては自分の無知さに強い憤りを覚える。村を滅ぼした魔物が憎い。その長であるバラモスが憎い。こんな苦しみを味わったことのないこの少年ですら、憎い――
 冬の始めに差しかかっているというのに、身体は沸騰したように熱く、雨とも汗ともつかないものが全身を伝っている。剣さばきが鈍くなってきた。
 すると、アルトがサーラの隙をついて剣を打ち払い、喉元に己の剣を突きつけた。互いに息が上がっており、白いものがいくつも吐き出された。
「……殺すのか?」
 サーラは口元を歪めた。地の底で処刑を待つような気分だった。
 アルトはしばらく動かなかったが、やがて剣を下ろし、地面に突き立てた。この場に似つかわしくない程、その瞳は澄んでいる。無性に腹が立ち、サーラはその胸倉に掴みかかった。
「お前もいつか、私の前からいなくなるんだ! 私を、裏切って!」
 額が重なるくらい顔を突き合わせた。息が触れた。
「……つらいだろ」
 その途端、心臓をわしづかみにされ、揺さぶられたような感覚に陥った。唇を切れそうなくらい噛む。
「……ひどいよな。……ひどすぎるよ」
 アルトの声は微かに濡れ、肩が小刻みに震えていた。凛々しい眉を八の字に歪め、頬からは雨とも涙ともつかない、無数の水滴がつたっている。
 少年は確かに、泣いていた。
 サーラはアルトから離れ、全身の力が抜けたように地面にへたり込んだ。アルトも目の前に屈み込む。
「……何故、お前が泣く」
 声に力が入らない。抑揚のない声でつぶやいた。
「お前なんか嫌いだ……いい子ぶって、善人気取りで、大嫌いだ」
 本心ではなかったが、以前感じていた思いを吐露した。すると、アルトもこう返した。
「……俺も嫌いだよ」
 反射的に顔を上げたが、アルトは全く嫌悪感を見せていなかった。子犬のような表情で、サーラを真っすぐ見つめている。
「頑固で、悲観的で、無愛想で……だけど、どうしたって嫌いになんかなれないんだ」
 眉をひそめ、次の言葉を待った。アルトは息を吸い込み、ありったけの声で訴えた。
「俺は、サーラが誰よりも優しく笑うのを知っているから……!」
 その瞬間、身体のありとあらゆる表面から内側まで貫かれたような衝撃が、サーラの全身を走った。
 アルトは腕を伸ばし、サーラを強く抱き寄せた。その力にあどけなさは、見当たらなかった。
 何もかもが温度を失い、冷え切ったこの場所で、まだ確かなぬくもりがある。アルトと、自分の体温だった。
 強張っていた身体が、アルトに触れ合い、徐々にほぐれていく。サーラはアルトの肩に頭をもたげた。アルトはさらにサーラを引き寄せ、頭を抱えた。
 何と、温かいのだろう――サーラは全ての体重をアルトに預けた。アルトはサーラの頭を撫で、そっとつぶやいた。
「俺は、何があっても……サーラを裏切ったりしない」
 それは、いつもの人懐こい少年の声ではなく、大人へと差しかかった青年の声だった。
「俺は、貴女が好きだから……」
 その囁きが何よりも揺るぎないものに思えて、サーラは胸の奥につかえていた、ありとあらゆる悲しみが溢れ出していくのを感じた。それは胸を伝い、喉から外に向かって解き放たれる。
 サーラは嗚咽を漏らし、声の限り泣き叫んだ。瞳から熱いものがとめどなく流れ落ち、雨に受け止められ吸い込まれていく。アルトは雨に打たれながら、ただサーラを守るように抱きしめていた。
 かつて悲しいことがあった時、義父がそうしてくれたように。



 灰色の雨が降りしきる中、サーラは確かに感じた。
 ああ、私は、こんなにも愛されていたのだ――と。