銀の賢者 灰色の雨 5



 基礎鍛練は、盗賊団に所属していたジャックにとっては朝飯前だったが、魔法については、構成はおろか、基本的な概念についてもさほど知らない。ヨシュアは、魔法について指導するのは実践からとして、クラリスが初歩的な知識を講義してくれることになった。
 クラリスは祖父の前では素直に承諾したが、神殿内の書斎でジャックと二人きりになった途端、忌々しげに吐息をついた。
「何だ何だ、そのため息は。若い女の子はもっと明るい方がいいぜ?」
 クラリスが睨んでくるので、ジャックは仕方なく席についた。書斎とは言うものの、実際にはこぢんまりとした図書室のようなもので、両脇の壁には所狭しと本棚がそびえている。
「……お祖父様の言い付けだから、やるからにはきちんとやるわよ。さあ、始めましょ」
 向かいに座ったクラリスは、肩にかかった髪をはねのけ、あらかじめ本棚から抜き出してあった書物を傍らに広げた。
「基本的なことは朝言った通りよ。あなたも妹が魔法を使うのを見ているのなら、いくらか感じたこともあるでしょ? 魔法について知りたいことはある?」
 ジャックは口元に手を当て、質問を思い浮かべた。
「じゃあ……魔法ってのは、呪文を唱えりゃ使えるんだろ? なら、呪文さえ知ってりゃ、誰でもすげえ魔法が使えるのか?」
「それは違うわね。高度な魔法は、いくら呪文を知っていても、それ相応の魔力がないと発動しないの」クラリスは間を置くことなく答えた。
「そしたら、メラゾーマってやつを唱えたとして、魔力が低けりゃメラほどの威力も出ないのか?」
「呪文はね。でも、構成は違うわ」
 クラリスは書物をめくり、何やら図形らしきものが記されている箇所をジャックに見せた。
「例えば、あなたの言ったメラ系は火の魔法よね。魔法の構成には種類によってシンボルがあって、それぞれ基本の図形があるの。だからメラゾーマを発動する魔力がなくても、基本の図形さえあればメラ程度の魔法が発動出来るのよ」
「ややこしいなあ……オイ」
 ジャックはぼりぼりと頭を掻き、書物を受け取ると中身を目で追っていった。
 火、炎、氷、真空、爆発など、数十種類の図形が描かれており、それぞれが異なる形をしている。いわば魔法陣のようなものだ。
「なあ、この構成ってやつ……全部暗記するのか?」
「そうよ。いくらあなたが銀の賢者だからって、構成を頭で描けなければ魔法使い以下よ」
 クラリスは立ち上がり、「構成の写しを用意するわね」と本棚を探り始めた。ジャックはすらりと伸びた白い脚を眺めながら、尋ねた。
「お前さ、ジイさんの命令なら何でもやるの? 昨日は物凄い形相でオレの頬ひっぱたいてきたくせによ」
 手を止め、クラリスは憮然とした声で返答した。
「……お祖父様の言葉は絶対よ。だってわたしは、いつかお祖父様の跡目を継ぐ立場にあるんだから」
「そりゃご苦労なこって。だからそんなにエラそうなのね」
 すると、クラリスはジャックに詰め寄り、鼻の頭に指を突きつけた。
「あなたね、誰のせいでこうなったと思っているの!? あなたのお母様さえ神殿を飛び出していなければ、わたしだって――」
「責任転嫁かよ。オレのお袋のこと言ったって、もうどうしようもねえだろ」
「でも、あなたのお母様は将来を期待されていた! わたしのお母様はいつもソラリス伯母様の話をしてくれたわ……美しく、聡明で、人望も厚かったって。でも、わたしにとって伯母様はプレッシャーでしかなかった!」
 クラリスは軋む音が聞こえそうなくらい拳を握り、唇をきっと結んだ。見えない重圧に耐えるかのように。
「……許せないのよ。才も人望もありながら、それを捨てて普通の女として生きた、伯母様が……」
 クラリスの態度は、昨日のようにあからさまな憎悪を漂わせているというより、やりきれない苦悩にがんじがらめになっているように思えた。
 この少女は、まだ全てを背負うには、幼い。だがソラリスのように飛び出すことも出来ない、籠の中の鳥なのだ――ジャックは微かに震えるいとこの少女を、じっと見つめていた。
 しばらく黙り込んでいたクラリスは、でも、とぽつりぽつり話し始めた。
「あなたの話を聞いて、少しだけ伯母様がうらやましくなった。愛し合える人に出会って、あなたや他の子供を産んで、短くても幸せな生活を送って……」
 そこで初めて、クラリスがわずかながら笑みを浮かべるのを目にした。十六歳の少女らしい、いたいけな素顔が垣間見えた。
「わたしは、普通の女の子の生活を知らない。このまま、賢者になって、ゆくゆくは大神官になるのかと思うと、時々気が滅入りそうになるの」
 クラリスはしばし虚空を見つめた後、我に返ったように頭をふるふると振り、本棚へと向き直った。
「でも、そんなことあなたに話してもしょうがないのも、本当は分かっているわ。だって、あなたは何も知らなかったんでしょう? わたし、八つ当たりしていたのかもしれない」
「……だろうな」
 それにしても、いきなり初対面のいとこに平手打ちをくらわせるとは、相当うっぷんがたまっていたのだろう。とはいえ、常識的な人間がとる行動でないのは明らかだ。
 ここは少しばかり、仕返しをしてやりたい気分だ。ジャックはごく自然に切り出した。
「じゃあさ、昨日のこと謝ってくれねえかな」
 クラリスは眉をひそめ、こちらを見た。ジャックは、今度はわざとらしくぶたれた方の頬をさすった。
「野郎に殴られた時はやり返せば済むんだけどよ。お前みたいな年下の女にやられちゃあ、そうはいかねえんだよな」
 ジャックは立ち上がり、クラリスに歩み寄ると閉じ込めるようにして本棚に手をついた。緋色の瞳が大きく揺れる。
「な、何のつもりよ! 脅してるの?」
「お前さ、そんなんじゃ男ともまともに付き合ったことねーだろ。最近の女の子はお前よかずっと進んでるぜ? オレがそこんとこ教えてやろうかなってさ」
「ふざけないで! 大体、あなたとわたしはいとこ同士――」
「あら、知らないのね。いとこ同士でも結婚出来るんだぜ?」
 顔を近付けると、クラリスは首を縮こませ、瞳を閉じた。意外とあっさり観念するものだ。
 と、クラリスの唇が動いたかと思った次の瞬間、強烈な睡魔がジャックを襲った。まともに立っていられなくなり、がくんと膝を折ると床に沈み込んだ。わずかに動揺を残したクラリスの声が遠く聞こえた。
「ば、馬鹿ね。構成の写しだけは置いておいてあげるから、今日は自習してよね」
 足音が遠ざかる。ジャックはこんちきしょう、と口の中でつぶやいてから、気を失った。
 もちろん、母と瓜二つのいとこを本気で口説こうとした訳では、ない。



 銀の賢者になるにしても、クラリスと張り合うにしても、まずはとにかく魔法が使えるようにならなければいけない。ジャックはそう確信した。
 基礎鍛練では、ヨシュアと口喧嘩をしながら数々の訓練に汗を流し、構成の勉強ではクラリスに軽口を叩きながらいくつもの図形を暗記していった。修行の合間には、ソフィアが栄養などを考慮した手料理を振る舞ってくれた。
 アッサラームに住む馴染みの家族とは全く異なる、もうひとつの家族。最初は苛立ちや不満を覚えることもあったが、共に過ごすうちに、彼らにも徐々に人間味を感じられるようになった。
 例えば、ヨシュアは初日のパルプンテ以外にも、真顔で冗談を言うことが幾度かあった。本人にはそのつもりはないのだろう、至って真剣なのだが、儂の妻の方が先に自分に惚れたのだとか、儂はこう見えても昔はいい身体つきをしていたのだ、などとつぶやくので、この老人も所詮人の子なのだ、と次第に思うようになり、親しみすら覚えるようになった。だが基本的には例の岩のような表情と物言いなので、大抵は内心このジジイ、と毒づいている。
 クラリスも相変わらず手厳しいが、もうこちらに憎悪を向けることはなくなった。きつい言葉に混じって、時折こちらを気遣う様子を見せたり、まれに微々たるものだが笑顔を覗かせるようになった。この少女も、心の底から笑えばきっと、ソラリスの微笑みのように大輪の花を咲かせることだろう。
 ソフィアは自分の仕事の合間を縫って、修行の様子を見に来たり、時には焼き菓子などを差し入れしてくれた。晩には時々ジャックの部屋を訪れ、互いにソラリスの生前の思い出を語り合った。
 クラリスは、ソフィアが話すソラリスの面影をプレッシャーに感じていたと吐露したが、ソフィアは単に姉を心から慕っていたのだと、言葉の節々から感じ取ることが出来た。
 叔母は、賢者というものがいかなる存在であるかを、当事者たちより一回り外から見ており、またソラリスやクラリス、ジャックのことを賢者である以前に、血を分けた大切な家族として扱っているのだと気付いた。
 モエギやカンダタについては、あれ以来一度も顔を合わせていないが、ソフィアの話によると、モエギは一人で黙々と修行を積んでおり、友達も出来たという。
 モエギは元々単身バハラタからアリアハンへ旅立ち、ここまでやって来たのだから、社交性も度胸も十分持ち合わせている。ジャックがいなくてもそれなりに楽しくやっているはずだ。カンダタはカンダタで、自分のやりたいようにやるだろう。
 修行を開始してから二週間が経ち、ジャックはようやく実践に入ることを許された。基礎鍛練と昼食を終え、クラリスと共にいつもの滝底へと足を運ぶ。
「あーっ、長かったなあ。とりあえず中級くらいまでの構成は全部覚えたから、結構いけるんじゃない?」
「図に乗るのはまだ早いわよ。あなた、まだ一度も魔法を発動させたことがないのよ? 分かってる?」
 へいへい、とうなずきながらヨシュアの元へ辿り着くと、祖父はいつもの調子で口を開いた。
「では、これより魔法の実践訓練に入る。ジャックよ、一通りの構成は覚えたな」
「おうよ。ベホイミにメラミ、ベキラマヒャダルコ。何ならジイさん、バシルーラで飛ばしてやるぜ?」
「このたわけが。よいか、構成を覚えてもそれを発動するにはコツがいるのだ。試しに自己流でやってみるが良い」
 ジャックはとりあえずメラを唱えることにし、妹のローズを真似て腕を正面にかざした。とはいえ、ローズは呪文により魔法を発動させているので、具体的にはどうすればよいのか分からない。
「クラリス、どうやるの?」
 クラリスはもう、と憤慨し、早口でまくし立てた。
「前に教えたじゃない。頭の中で構成を思い描いて、それを保ったまま詠唱するのよ!」
「ああ、そうだった」
 ジャックは目を閉じ、必死で暗記した書物の図形を思い浮かべた。全ての構成の基本となる円の中に、火のシンボルを据える。目を見開き、書物の残像を残したまま唱えた。
「メラ!」
 しん、と辺りが静まったが、何も起こらず滝の音だけが耳に戻ってきた。ジャックは手のひらを見つめ、駄々っ子のように地面を踏みつけた。
「おいっ! オレぁちゃんとやったぞ! なんでだよ!」
 クラリスも困惑し、祖父を見やる。ヨシュアはやれやれ、と首を振った。
「……クラリス、お前の説明は少しばかり言葉が足りぬ。儂が説明するとしよう」
 ヨシュアはジャックの隣に並ぶと、杖を正面に掲げた。
「ジャックよ。書物そのものを思い浮かべるな。それならばどんな三流の術者でも唱えられて当たり前のことだ」
「じゃあ、どうすんだよ!」
 年甲斐もなくわめく。ヨシュアは淡々と語った。
「まず、頭の中、とはよく言うが、実際には心の中を指す。お前は、心というのはどこにあると考える?」
 ジャックはそれこそなだめられる子供のように、ぶすっとして心臓のあたりを親指で叩いた。ヨシュアはこくりとうなずく。
「そうだ。ここは一般論で良い。そこに、漆黒の闇を生み出せ。とは言っても、負の感情ではない。『無』だ。我々が誕生する何億年も前からこの世に存在する、宇宙を思い起こせ」
 宇宙、というのは少々大げさな気もしたが、それを知らない訳ではない。ジャックは深呼吸をし、胸のあたりに、昔書物で見た黒々と冴えわたる空間を想像した。
「そこに、構成を思い浮かべるのだ。光の筋のように、くっきりと……」
 暗闇の中心に、太陽のまぶしさとよく似た輝きを持つ、光の図形を描く。太陽が宿ったように、胸の中はじんわりと熱を帯びた。
「そして、心臓から肺、腕、手のひら――そこから放出するように、解き放て!」
 胸から手のひらにかけて一気に血が巡るのを感じると同時に、ジャックは叫んでいた。
「メラッ!」
 ぼっ、と人の頭大ほどの火の塊が手のひらから噴射され、後にはしびれたような熱さと感覚が残った。ジャックは茫然と口を開け、ヨシュアの言葉を待った。
「発動は、成功だ」
 ジャックは両手を握りしめ、狼のごとく雄叫びを上げた。全身を言いようのない高揚感が駆け巡る。
「すげえ! オレって、やれば出来るじゃん! すげーっ!」
 歓喜がこのまま山を越えて、アッサーラームまで届けばいいと思うほど、ジャックの声はよくこだました。
「そうだ。その感覚を、常に持ち続けるのだ。忘れるでないぞ」
「おう! クラリス、お前うかうかしてると、オレに先越され――」
 その途端、頭を凹凸のあるもので強打され、ジャックはうめき声を上げて地面に崩れた。頭上から声が降ってくる。
「馬鹿者。発動が一回成功したくらいで調子に乗るな。お前はまだ、魔物相手に魔法を成功させていないのだぞ」
「そうよ。それに、わたしが何年お祖父様から教えを受けていると思ってるの? 一緒にしないでくれる?」
 成功した矢先に、次々と突き刺すような言葉を浴びせられ、ジャックは顔面をひくつかせた。
「あんたらって、ホント容赦ねえのな……」
 だが、一度成功すれば喉元に引っかかっていた小骨がするりと取れるように、上手くいくだろう。
 自分が魔法を使えるようになったのを目の当たりにしたアルトやサーラは、何と言うのだろう。わくわくとした気持ちが湧き上がったが、それもすぐ消えた。
 あいつらは、今頃テドンに着いただろうか――ジャックは遥か西の空を見上げ、眉を曇らせた。